第4話 聖教団
外は、底冷えのする濃密な闇に包まれていた。わずかな睡眠しか許されなかった亜里好は、鉛のように重い瞼をこすりながら、前を行く黒恵の背を必死に追った。
こんな早朝からギルドに指定された場所へ向かうなど、尋常ではない。上層部からの急な呼び出しという名目は、これからの展開が穏やかでないことを予感させていた。
辿り着いたのは、空港の目と鼻の先にある、くたびれた喫茶店だった。一見すれば、ごく普通の店にしか見えない。しかし、この店の主は魔導師であり、その裏の顔は魔導師のための社交場なのだという。
「...ここ、なの?それとも朝食物足りなかった?」
「違う!目的地がこの地下なの!」
「あーね」
黒恵の促しに従い、一歩を踏み出す。その地下には反転世界と呼ばれる異空間が広がっているという。魔力を持たない一般人が迷い込んだとしても、この境界を越えることはできない。彼らが目にするのは、どこまでも続く無機質な地下通路の風景だけだ。
「もっと時間後に出来なかったのか?まだ6時だぞ。店も開店したばっかぽいし」
「仕方ないでしょ。聖教団からの命令なんだから」
「聖教団だぁ?そりゃ魔導師と何が違うんだ?」
聞き慣れない単語に、亜里好が眉をひそめて問い返す。
「この世界の均衡を守る組織、それを聖教団って呼ぶの。ギルドはその直属の軍隊のようなもので、常に彼らの管理と監視下にあるのよ。私たちが逆らえる相手じゃないの」
「ふーん...」
――つまり、そんな連中を相手に、グラ爺は俺の確定していた死刑を条件付きの無期限延期にまで持ち込んでくれたのか。あの爺さんには、一生頭が上がりそうにない。
ふと、前を行く黒恵が足を止めた。肩が触れ合うほどの距離まで近づくと、彼女は亜里好の鋭い五感を見越し、周囲には決して漏れないほどのか細い声で囁く。
「気をつけなさい。聖教団に、私たちの常識は通用しないわ。人命救助を優先する私たち魔導師と違って、彼らは魔物を殲滅することしか頭にない連中よ。グラスフォールさんがフォローしてくれるはずだけど...選択を一つ間違えれば、あなたの首なんてすぐに飛ぶ。その覚悟をして」
「...あいよ」
――生殺与奪の権は、俺の態度一つに握られているというわけか。要は、俺という人間が害獣かどうかを見極めようって腹だろう。
やがて辿り着いた廊下には、異様な光景が広がっていた。漆黒の祭服を纏った者たちが、二十人ほども整然と並んでいる。その胸元には、一様に巨大な白い十字架のラインが刻まれていた。
黒恵が小さく会釈をして通り過ぎるのに合わせ、亜里好も形式的な礼を交わしながら部屋へと足を踏み入れる。
ソファに深く沈み込むグラ爺の対面には、鋼を彷彿とさせる肉体を有した、短髪の桜色の丸メガネをかけている男が鎮座していた。男の背後には、口元を覆うハイネックの祭服に制帽という出立ちの、茶髪の男が彫像のごとく佇んでいる。射抜くようなその冷徹な眼光と、室内を埋め尽くす重苦しい沈黙が、亜里好の肌に刺すような痛みを刻んだ。
「グラスフォール総帥。彼が例の子かい?」
「フォッホホホ、そう獣を見るような狩人の眼をしないでくれんか。彼は立派な人間じゃよ」
「人間...ねぇ」
短髪白髪の男は、値踏みするようにゆっくりと亜里好を睨みつけた。物理的な質量を伴うような、上からの圧力。その重圧に押し潰されそうになりながらも、亜里好はグラ爺に迷惑をかけるわけにはいかないと、奥歯を噛み締めて一歩踏み出した。
「俺は、不動亜里好です。この度は死刑を無期限延期にしていただき、誠に感謝いたします...」
失礼のないよう事前に調べ、頭の中に叩き込んだ台本通りに敬語を絞り出し、深く頭を下げる。
「へぇ、私の圧を軽く受け流すとはね...まぁ、変えたのは私じゃないんだけどね。さて、そっちが名乗ったんだ、こちらが名乗らないのは失礼に当たる。私はここ日本を管轄し、聖教団司教を任されているヴァイス=エヴァーローン。こう見えて日本とイギリスのハーフなんだよ。よろしくね」
先ほどまでの鋭い眼光が嘘のように、ヴァイスは柔和な笑みを浮かべた。亜里好が再び頭を下げると、ヴァイスはグラスフォールの隣を促すように手を添える。座って話そうということだろう。亜里好が腰を下ろすと、黒恵は対面の茶髪の男にならうように、静かにその後ろに控えた。
「君の話を聞いて、すぐに会ってみたいと思っていたんだ。光栄だよ」
ヴァイスが差し出してきた左手を、亜里好は右手で握り返す。その瞬間、万力のような力で拳が握り込まれた。
「痛っ...!」
――こいつ...っ、ふざけやがって。ぶん殴ってやりてぇ...我慢、我慢。
「本当に、魔物が発する呪力そのものじゃないか。融合しているという話は事実のようだね...まるで彼女を思い出すよ」
「彼女...ですか?」
「少しキミと事情は違うけど。昔、いたんだよ。契約獣としてではなく魔物を隣に置き、汚物と共に世界を変えようなどとほざく馬鹿が」
「そ、そうだったんですか...」
ようやく解放された右手を見ると、皮膚の裏側を針で刺されたような痺れが残っていた。まるで、直接感電させられたかのような不快な感覚だ。
「さて。彼に会えたのなら、もう満足したじゃろう。ここからは大人だけのティータイムといこうじゃないか」
グラスフォールが助け舟を出すように、暗に亜里好の退出を提案する。しかし、ヴァイスはそれをきっぱりとはねのけた。
「まだだ。まだ彼に聞きたいことがある」
ヴァイスは射抜くような視線を亜里好へ戻した。
「ひと目見てわかったよ。君は悪い人ではなさそうだ...だが、その中身はどうかな?」
「...質問の意味が、分かりません」
「ははは、今のは気にしなくていい。質問は一つだけだ、正直に答えてほしい。君は魔導師として、この世界に一体何をもたらしてくれるんだい?」
亜里好は言葉に詰まった。魔導師になったのは、死刑を免れるため。そして、家族を殺した犯人を捜し出すため。世界の均衡を護る聖職者を相手に、満足させられるような高潔な動機など、一つも持ち合わせていなかった。
――下手に嘘を吐いて、状況を悪化させてもマズい。だが...
沈黙が部屋の空気を重く変えていく。ヴァイスの視線は、まるで魂の奥底まで透かそうとするかのように鋭い。
――ここで復讐のためなんて言えば、間違いなく危険分子だと見なされる。俺だけならまだしも、グラ爺の顔に泥を塗るわけにはいかない。
亜里好は膝の上で拳を握り込み、震えそうになる声を喉の奥で押し殺した。そして、ゆっくりと顔を上げる。
「...俺は、まだ魔導師になったばかりの素人です。世界に何をもたらすなんて、そんな大層なことは言えません」
一度言葉を切り、ヴァイスの瞳を真っ直ぐに見返した。
「ですが、俺を生かしてくれたこの場所に、恩を返したいとは思っています。この力が誰かの役に立ち、平和を守るための一助になるのなら...俺は魔導師として、その責任を果たすつもりです」
嘘ではない。だが、一番の目的を隠した綺麗な言葉だ。言い終えると、ヴァイスは無表情のまま、傍らの茶髪の男へ視線を流した。男が小さく頷くと、ヴァイスの唇が三日月のように吊り上がる。
「...フォッホホ、殊勝な心がけではないか」
割って入るようなグラスフォールの高笑いが、張り詰めた空気を揺らす。ヴァイスはゆっくりと背もたれに体を預け、満足げに頷いた。
「なるほど。平和の一助、か。実につまらないが、模範的な回答だ...その言葉に、嘘はないようだね」
――危ねぇ...本能的に分かった。後ろの男は嘘を見破る力を持っている。もし心まで読まれているのだとしたら、恐ろしいな。
亜里好が内心で冷や汗を流していると、ヴァイスは軽薄な声音を続けた。
「うんうん、亜里好くん。これから平和の一助になるよう頑張りたまえ。君がその言葉を忘れない限り、我々聖教団は君を人間として見てあげよう...ところで。後ろの君、名前は?」
唐突に矛先を向けられ、黒恵は戸惑いを見せながらも答える。
「え?私...ですか?私は、天神黒恵と申します」
彼女の名を聞いた瞬間、ヴァイスはニヤリと下卑た笑みを浮かべた。
「あっははは!やっぱりだ、どこかで見覚えがある顔だと思ったら。和樹の妹さんか!そういえば、黒恵っていう妹がいると言っていたな」
「兄さんが……私を、妹と、申したのですか?」
思わぬ名に、黒恵の声がかすかに震える。しかし、ヴァイスの追撃は容赦なかった。
「いや、正確には血の繋がった他人と言っていたかな」
「そ、そう...ですか」
黒恵は表情を消し、静かに俯いた。家族との間に横たわる、深く複雑な溝。それを察する様子もなく、あるいは楽しむかのように、ヴァイスは言葉を並べ立てる。
「彼は凄いよ。あの若さで司祭を任されているんだから。クズ...ゴホンッ、魔導師の妹がいながら、彼は司祭に選ばれている。歳の差はたった一つだというのに、どうして兄妹でここまで差がついたんだろうねぇ?やっぱり、和樹が言っていた通りの評価なのかな...天神家の紛い物って」
「っ...!」
黒恵が短い悲鳴を漏らした瞬間、亜里好の理性が弾けた。頭では『抑えろ』と理解していた。だが、身体が勝手に動いていた。
「亜里好!!」
グラ爺の怒号が響き、亜里好は我に返る。目前には、今まさにヴァイスの顔面を砕かんとする己の拳があった。
「...ッ」
もし、その拳があと数センチ先へ進んでいたら。亜里好の頭は、茶髪の男の手刀によって貫かれていただろう。男の指先は、鋭い爪となって亜里好のこめかみに食い込んでいた。
「あまりワシの可愛いギルド員を試す様な真似を控えて貰えぬか?少々、冗談が過ぎますぞ、ヴァイス司教」
グラスフォールの瞳には、かつて見たこともないほどの激昂が宿っていた。射抜くようなその視線に、さしものヴァイスも毒気を抜かれたのか、大げさに肩をすくめて薄笑いを浮かべる。
「あははは!失礼、私も少々言い過ぎたようだ。ここは互いに水に流そうじゃないか...ふむ、もう彼はいいよ。足労だったね」
ヴァイスの興味は、すでに亜里好から霧散していた。まるで最初からそこに誰もいなかったかのように視線を逸らすと、彼は弾んだ声で話題を切り替える。
「さて、次は天使を契約獣にした男の話を聞かせてもらおうか」
「...如月蓮也のことですな」
「そう、彼だ!今、聖教団はその話題でもちきりでね」
背後で続く高官たちの密談を余所に、グラスフォールに促されるまま、一行は静かに部屋を後にした。廊下に出た途端、亜里好を襲ったのは、刺すような後悔だった。
「やらかした。取り返しのつかないことを...」
理性を抑えきれず、恩人であるグラ爺の顔に泥を塗ってしまった。自分の短慮が招いた結果に、亜里好は項垂れる。
「バカね...あんなの適当に聞き流せばよかったのよ。まさか貴方が、あんなにキレるなんて思わなかったわ」
隣を歩く黒恵の呆れたような声。だが、亜里好は絞り出すように返した。
「そりゃあ...あんな、あんたのことを何も知らない奴が好き勝手言ってるのを聞かされて...あのクソッタレ野郎、一発ぶん殴らなきゃ気が済まなかったんだ」
「ちょっと!誰かに聞こえたらどうするのよ!」
「んぐっ...!」
相手は聖教団の重鎮だ。黒恵は慌てて亜里好の口を力任せに塞ぎ、周囲を警戒して目を走らせる。
「本当、大バカ...」
毒づきながら、彼女はそっと手を離した。そして、気まずそうに視線を泳がせながら、消え入りそうな声で呟く。
「...でも、ありがとう」
その感謝は、廊下の喧騒に紛れてしまいそうなほど、小さく、柔らかなものだった。
◇◇◇
「フォッホホホ!いっそのこと総帥など辞めて、死刑覚悟であやつをぶん殴ってやりたい所じゃったわい。よくもワシの可愛いギルド員を小馬鹿にしおって...いつか、手痛い目に遭わせてやりたいのう」
「総帥、滅多なことを言わないでください。私はまだ死にたくありませんよ。その言葉を教団の者に聞かれたらどうするのですか?」
聖教団に対する剥き出しの敵意を隠そうともしないグラ爺を、ローランドは呆れ果てた顔で見つめる。しかし、老魔導師の眼光は鋭く、その言葉には冗談では済ませられない重みがあった。
「あの腹の奥、底の知れぬ嫌な企みを隠しているに違いあるまい...どうやら、まだまだ本部に腰を落ち着けるわけにはいかなそうじゃな」
ヴァイスは表向き、亜里好を人間として扱うと宣言した。だが、その言葉の裏には、どろりとした悪意が渦巻いているように感じられてならない。聖教団に対して対等に、あるいはそれ以上に強く出られるのは、今やこの場では自分だけだ。もし亜里好に何かあればと、そう考えると、老骨を休める暇などどこにもなかった。
「不動亜里好...くんですか。ぜひ一度、お会いしてみたいですね。彼は天神さんと同じパーティなのでしょう?」
「そうじゃのう」
魔導師にとってパーティとは、共に戦う部隊のようなもの。現在、亜里好は監視対象として、黒恵がリーダーを務めるパーティに組み込まれている。
「...世知辛い世の中になったものじゃ。ワシらが魔導師などと呼ばれる前の時代は、もっと自由で、もっと楽しかったのじゃがな」
「その時代に、生まれてみたかったですよ」
ローランドの言葉に、グラ爺は遠い目を向ける。その瞳には、今や歴史の塵に埋もれかけた過去の情景が浮かんでいるようだった。
「聖教団と契りを結ぶ前に、ワシにもっと高い地位や力があったら、少しは未来が変わっていたのかのう...もしかしたら、彼女も死なずに済んだかもしれぬ」
「彼女...あの8歳にして極上位を単独で討伐した...神楽坂家の怪鬼のことですか?」
グラ爺が口にしたその名は、かつて世界にその名を轟かせた伝説的存在。しかし、今では教団の影に塗り潰された禁忌の名でもあった。
「そうじゃな。彼女が抱き、叶えようとした夢...ワシは、それが好きじゃった」
「それはいったい、どんな夢だったのです?私は詳しく聞いたことがありません。ただ、何らかの禁忌に触れて処刑された、という噂ぐらいしか...」
「魔物との共存じゃよ」
「なっ...!?」
ローランドの声が裏返った。魔物が生きるためには、人間を喰らわねばならない。人間にとって魔物は生存を脅かす天敵であり、その関係は食うか食われるかの絶対的な二択だ。そんな夢、叶うはずがない。狂気の沙汰だ。
「だからこそ、彼女は探し続けていたのじゃ。魔物が人間を喰らわずとも、その命を繋ぎ止める方法を...それが、教団の触れてはならぬ逆鱗に触れてしまったのじゃろうな」
沈黙が場を支配する。かつて、不可能な理想に手を伸ばした一人の女性がいた。その遺志は今、形を変えて、亜里好という一人の青年の運命に重なろうとしているのかもしれなかった。
「...そう、だったんですね」
沈痛な面持ちで俯くローランドの横で、グラ爺はただ静かに、窓の外に広がる灰色の空を見つめ続けていた。静まり返った部屋に、無機質な着信音が鳴り響いた。グラ爺の前に置かれたスマートフォンが震えている。つい先刻まで苦渋に満ちた表情を浮かべていた老人の顔が、ディスプレイに表示された名前を見た瞬間、まるで子供のような満面の笑みに変わった。
「おお!ワシじゃ、ワシじゃ!もしかして、もう日本に着いたのかのう!...そうか、そうか!ならば今すぐワシ自ら迎えに行くわい!...して、腹は減っておらんか?ワシがとっておきのスイーツ店を...あ、あれ?切れてしまったわい」
通話を一方的に終了され、グラ爺は魂が抜けたようにしょんぼりと肩を落とす。そのあまりの豹変ぶりに、ローランドは苦笑しながら尋ねた。
「今のは、どなたからですか?」
「アイじゃよ。彼女を、クロエ君たちのパーティに合流させようと考えておってな」
「アイさんですか...それはまた、なかなか濃いメンバーが集まったパーティになりますね」
その名を聞いたローランドの眉がわずかに跳ねる。驚きと、それ以上の納得が混じった表情だった。
「近々、クロエ君のパーティに聖教団からの依頼が入る予定でのう。どうにも嫌な予感がして気が進まんでな...万が一の備えとして、わざわざ本部から呼び寄せたのじゃ」
「なるほど。彼女は表向きには目立った活動はないですからね。教団側もアイさんと言う戦力を把握していません。アイさんなら、たとえ何が起きようと力ずくでねじ伏せてしまうでしょうし」
ローランドにとって、アイという人物は最強の切り札であり、これ以上なく信頼の置けるボディーガードであった。
「...となると、黒魔女に、呪力を宿せし者...そこに神に愛されし魔法の王まで加わりますか...ふふ、一体どうなることか。少し楽しみになってきましたよ」
不穏な嵐が近づく予感に、ローランドは静かに期待を込めて呟いた。
第4話 【聖教団】




