第22話 星明かりの下で
「あら、最近ずいぶん精が出るわね?」
亜里好の朝は、肌を伝う熱い汗とともに始まった。物置同然だった地下室を片付け、急造のトレーニングルームに変えてから数日が経つ。腕立て、上体起こし、そして鋭い素振り。荒い呼気を繰り返す彼の前に、ふらりと黒恵が姿を現した。
「昔から身体の頑丈さだけは自信があったんだがな。今まではランニング程度で十分だった...だが、この世界じゃそうもいかないらしい」
亜里好の筋肉は、あくまで実用的な運動のためのものだ。しかし、凛との過酷な修行や死線を潜り抜けた戦いの記憶が、彼を突き動かしていた。普段使わない細部まで徹底的に追い込み、さらなる機動力を手に入れる。今のままでは足りないのだ。
「そんなに頑張る貴方へのプレゼント。ここを反転世界に改造してあげようか?」
「あぁ?別にいらねぇよ。なんだよ急に...」
――前もあったけど...奢り癖あるよな。
鼻で笑いながら、亜里好は50キロのダンベルを片手で軽々と持ち上げる。実際、勇李の為に呪力を抑え、探知されにくい指輪を発注する時もお金を出そうとしてた場面があった。
「そう?」
「まあ、タダならいいけどな」
「そうね。一平方キロメートルほどなら、軽く億は超えるかしら」
「お、億!?なら尚更いらねぇよ!」
一瞬、あまりの金額にダンベルを落としそうになり、亜里好は肝を冷やした。
「リーダーだし。別に奢ってあげてもいいんだけど?」
「頼む辞めてくれ...俺をヒモにする気かよ」
これ以上、彼女の厚意に甘えすぎれば、もう二度と自立なんて言葉は口にできなくなる気がした。亜里好は誘惑を断ち切るように、きっぱりと首を振る。
「そもそも、年下に奢られるのは性分に合わないんだ」
「年下って...私たち、同い年でしょ?」
「誕生日が過ぎたんだよ。今の俺は一個上だ」
「先に誕生日を迎えたからって、年上になったわけじゃないでしょ...まあいいわ、気が変わったら言いなさいな」
「へいへい」と気のない返事を背に、黒恵はその場を後にした。リビングに戻り、ソファに深く腰掛けると、彼女は仕事用の眼鏡をかける。ノートPCを叩く音が静かな室内に響く。30分ほど作業を続け、ふと一息ついた時だった。
「...ん?誕生日?」
先ほどの、何気ないやり取りが脳裏をよぎる。
「誕生日を迎えた...って、どういうこと?」
胸に走った妙な予感を確かめるため、黒恵は亜里好の部屋へと足を踏み入れた。デスクに置かれた魔導師ライセンスを手に取り、生年月日の欄を凝視する。そこには、はっきりと5月8日と記されていた。
「一週間前じゃない...!」
「人の部屋で何やってんだよ、びっくりするだろ」
タイミング悪く、シャワーを浴び終えた亜里好が戻ってきた。濡れた髪をタオルで拭きながら、不審げに眉を寄せている。
「ふ、不動くん!な、何か欲しいものとかないかしら!?やっぱり地下を反転世界に作り変えましょうか!?」
黒恵は、記念日というものを何より大切にする質。知らなかったとはいえ、誕生日をスルーしてしまったという事実が、彼女に凄まじい罪悪感を植え付けていた。動揺を隠すように、捲し立てる。
「だから、いらねぇって。今欲しいもんも特にないし」
「ほ、ほら、他にもあるでしょ!新しい宝具とかは?」
「な、なんだよ...アンタ、何か企んでるのか?怖ぇぞ」
必死な形相で迫ってくる黒恵に、亜里好は引き気味に身をかわした。「なんもいらねぇ」とぶっきらぼうに吐き捨てると、彼は冷やしていたココアを取りにリビングの方へ向かってしまった。過ぎ去ったとはいえ、何かを贈りたい。黒恵は打開策を求めてアイの部屋へと、ノックもなしに飛び込んだ。
「プライベート...侵害」
そこには、巨大なビーズクッションに埋もれて読書に耽るアイの姿があった。
「なに?」
「貴方、不動くんの誕生日が過ぎてたの知ってた!?」
「誕生...日?そうなの?」
「そうなのよ!」
黒恵はアイと視線を合わせるように、その場にしゃがみ込んだ。
「不動くん、何か欲しがっているものとか知らない? 何でもいいのよ!」
「そんなの...ボクが知るわけがない...」
「なら、一緒に考えなさいよ!ほら、こういうのが好きそうだとか、あるでしょ!」
食い下がる黒恵を前に、アイは深くため息を吐いた。そして、パタンと開いていた本を閉じる。
「絶対に物じゃないと、ダメなの?」
「え?当たり前じゃない。プレゼントって言ったら、物以外に何をあげればいいのよ」
アイの呆れたような視線が黒恵を射抜く。
「ボクたちの関係は、まだ浅い...知り合って一月程度...なの」
「何を当たり前のことを言ってるのよ」
「だから、亜里好が何を欲しがっているのか知らないし、逆に亜里好も、ボクたちが何を欲しがっているのか知らない...なら、物じゃなくてもいいんじゃ...ない?ボクなら楽しい思い出も、一つの...プレゼントだと思う、よ」
無機質だと思っていたアイの口から漏れた、意外なほどロマンチックな言葉。黒恵は思わず目を丸くした。
「そう。そうね、わかったわ!ありがとう!」
光を見出した黒恵は、弾かれたように部屋を飛び出していく。静寂が戻った部屋で、取り残されたアイは本を口元まで持ち上げ、小さく呟いた。
「誕生日だったん...だ。まぁ、早いモノ...勝ち。今日はなにも...しない」
アイは何かを託すように、再び本を開いた。その静かな仕草とは対照的に、黒恵は弾けるような勢いでリビングへと飛び込む。ココアを啜っていた亜里好は、その剣幕に目を瞬かせた。
「ふ、不動くん。で、出かけない?」
「別にいいけど?」
準備があるからと別々に家を出ることになった。集合場所で待つこと五分。現れた黒恵を見て、亜里好は自分の勘違いを悟る。
――ここからギルドは反対側だよな?
魔導師関連だと勘違いをする。現れた彼女の姿に、亜里好は思わず言葉を失う。
「ま、待った?」
「待ったって...俺が先に出たの知ってるだろ。そんな、デートの定番セリフを...っ?!」
思わず見惚れてしまった。普段の彼女は、パーカーにあり合わせのズボンといった、機能性重視の無頓着なスタイルだ。しかし今日の黒恵は、燃えるような赤のニットに、黒のロング丈フレアスカートを纏っていた。それは彼女の凛とした魅力を、最大限に引き出す装いだった。
「な、何よ。私がスカート履いてるのは、そんなに変かしら?いつもの普段着じゃあれかなーって思って...クローゼットの奥から引っ張り出したんだけど...やっぱり変?」
履き慣れない感触が落ち着かないのか、彼女の頬は朱に染まっている。
「いや、すげぇ綺麗だ。びっくりしたよ」
「...っ。そ、そんなの分かりきった事よ!」
ストレートな称賛に、黒恵の顔はさらに赤さを増す。
「それで、今日はどんな用事で呼ばれたんだ?今からギルドに行くんだろ?」
「違うわ。普通に不動くんと、お出かけするだけ」
「え? そうなのか?それって、デートじゃ?」
「デートじゃないわ!...い、いや。デート、だね」
消え入りそうな声で、言い直すように認める黒恵。だが、五感の鋭い亜里好の耳はその言葉をはっきりと捉えていた。
「そっか、デートか。行く場所とかは決まってんのか?」
「それは...今から考えるわ。ちょっと待って」
焦ってスマホを取り出そうとする彼女の手に、亜里好がそっと己の手を重ねた。
「せっかくのデートだ。調べてる時間も惜しいだろ。まだ昼を食ってないなら、まずは飯にするか。米とパスタ、どっちがいい?」
「米かな?」
「そうか。米なら、あそこがおすすめだな」
亜里好にエスコートされるまま辿り着いたのは、一軒のハンバーグ屋だった。十分ほど並んで店内に案内され、二人は席につく。
「んー」
「決まったか?」
「ええ、私はこのAセットにするわ」
包み焼きデミグラスソースのAセットと、モッツァレラチーズのBセット。黒恵はその二つで激しく葛藤していたが、待たせるのは悪いと、なかば強引に決断を下した。
「すみません、AセットとBセットを一つずつ。飲み物は、コーラと...カプチーノでいいよな?」
「え?ええ、カプチーノで」
注文を終えた亜里好に、黒恵は驚きを隠せなかった。
「不動くん、よく私がカプチーノを頼もうとしたのが分かったわね?」
「そりゃ、家でよく飲んでるじゃねぇか」
「そ、そう」
自分の嗜好を見抜かれていたことに照れつつも、心の奥底で温かい喜びが湧き上がるのを感じていた。
「お待たせしました」
運ばれてきた二つの皿。黒恵の目の前で、パンパンに膨らんだ銀色の繭をナイフがなぞる。アルミホイルが裂けた瞬間、閉じ込められていた熱気が解き放たれ、深い琥珀色の香りが彼女の顔を包み込んだ。
「美味しいわ!」
「そうか、そりゃ良かった。なら、こっちはどうだ?」
「え?いいの?」
三割ほど切り分けられたチーズハンバーグが、取り皿に移されてスライドしてくる。
「すげぇ、迷ってたんだろ?」
「...」
亜里好がメニューをほとんど見ずに即決した理由。それは、迷っている彼女を察して、どちらを選んでもいいように自分が逆のメニューを頼んでいたからだった。
「あ、ありがとう」
黒恵は嬉しそうに受け取る。黒恵も自分のハンバーグを切り分けて亜里好に返した。
「別に良いのに。まぁ、せっかくだし貰うか」
ハンバーグでお腹を満たした二人が次に向かったのは、緑豊かな動物園だった。チケットを買い、ゲートを潜ると、そこには非日常の世界が広がっていた。家族連れやカップルが行き交う中、慣れないヒールで歩く黒恵を気遣い、亜里好は自然と歩幅を緩める。
「あ、見て! 不動くん、あれ!」
黒恵が指差したのは、大きな池で気ままに泳ぐカピバラの群れだった。
「すげぇ抜けた顔してんな」
「ふふ、なんだか不動くんの寝起きに似てるわね」
「俺あんな感じなんだ...」
そんな軽口を叩き合いながら、二人は園内を巡る。猛々しいライオンの急な咆哮に、黒恵は少し肩をピクリと跳ねる。
「魔物相手になんとも思ってねぇのに。ライオンには驚くんだな」
「何よー私だって女なのよ。急に吠えてくるなら驚くわよ」
そして次は色鮮やかなフラミンゴを見て、2人はどちらが長く片足で立てるかという子供じみた競争に、黒恵がムキになって挑戦したりもした。慣れていないヒールに黒恵はすぐに両足をついた。やがて、二人はこの動物園で一番人気のレッサーパンダの展示エリアに辿り着く。
「可愛いわね...」
「...あぁ、そうだな」
柵に身を乗り出すようにして見入る黒恵の横顔を、亜里好は静かに見つめていた。
「不動くん?」
すると、亜里好が不意にスマートフォンを構え、パシャリとシャッター音を鳴らした。こちらを振り向いた瞬間の黒恵を、見事に捉えていた。
「何?写真でも撮ってたの?」
「まあ、あまりにも可愛かったから、思わずな」
「どれ、見せてよ」
「ほら?」
亜里好が差し出した画面には、レッサーパンダではなく、彼女自身がメインで写っていた。可愛いと言って撮った対象が自分だと知り、黒恵は顔を真っ赤にして口を噤む。
「待ち受けにしていいか?」
「ダメに決まってるでしょ、バカ!」
「残念」
夕暮れの動物園を後にした二人は、街の灯りがポツポツと灯り始めた頃、海沿いにそびえ立つ展望タワーへと足を運んだ。
「こんなに綺麗なんだ」
展望フロアに降り立った瞬間、黒恵の口から感嘆の吐息が漏れる。地上百数十メートルから見下ろす景色は、宝石箱をひっくり返したような輝きに満ちていた。
流れる車のライトは光の川となり、遠くの街並みは琥珀色に燃えている。亜里好は、そんな彼女の隣に並んで立った。ガラスに反射する黒恵の横顔は、夜景の光を受けて淡く縁取られている。
「なぁ、天神。今日はどうしたんだよ。急に誘ったり、柄にもねぇ服着たりしてさ」
ふとした問いかけに、黒恵は少しだけ肩を揺らした。隠し通すつもりだったが、この綺麗な景色を前にして、嘘をつくのは野暮な気がした。
「誕生日、祝えなかったからね。だから、どうしてもお祝いしたかったの。何をあげれば良いのか分からなかったから...楽しい思い出ならと思って。貴方に楽しんで欲しくて誘ったのよ。まぁ、これはチビ助の助言なんだけどね」
「そういうことか」
今朝、唐突に欲しいものをしつこく聞かれた理由を察し、亜里好は納得したように頷いた。
「こりゃ、いいプレゼントを貰ったもんだな」
「そう?なら、良かったわ」
展望台を降りた二人は、帰りがけに近くの公園のベンチへと腰を下ろした。
「はぁー...今日は本当に楽しかったわ」
「そうだな。天神の普段見れない姿も見れて満足だ」
「それより貴方、結構デート慣れしてない?」
食事の際、いつもなら一番乗りで食べ終えるはずの彼が、今日は自分と歩調を合わせていた。歩くペースの細やかな配慮といい、あまりにも手際よくデートの基本をこなす亜里好を、黒恵はジト目で見つめる。
「そうか?まあ、こういうのは中学の時多かったからな。クラスの女子や先輩後輩に、異様に誘われることが多かったんだよ」
「ふーん」
その言葉に、黒恵は妙に納得してしまった。
「(確かに、彼の顔は整っているものね。その上、気遣いもできて優しい。今日だって私の話を熱心に聞いてくれたし、一緒にいて楽しいもの。そりゃ、他の女の子だって放っておかないわよね...)」
「天神の話も聞きたいな。俺らと出会う前のこととかさ」
「え?私?そうね...別に、私の話なんて面白くないわよ」
「どんな過去の話でも、つまらねぇなんてことはないだろう」
「そうね。私には昔、四人で組んでいたパーティがあったの」
彼女がかつての仲間の話を口にするのは、これが初めてだった。
「へぇ。今の他の三人はどうしてるんだ?」
「一人は家庭の事情で母国に帰ったわ...あとの二人は、任務で命を落とした」
「っ。そうか。悪い、軽はずみな質問しちまったな」
「いいのよ。どうせ、いずれ知ることだし」
気まずい沈黙が流れる。黒恵は、夜の闇に溶けるように言葉を続けた。
「私があの任務を引き受けたのが悪かったの。もっと自分たちの実力を考慮していれば、あんなことにはならなかった...知ったつもりで、何も分かっていなかったのね」
「...」
亜里好は察した。彼女の行き過ぎた過保護も、宝具を揃えるために貯金を惜しまない執着も、すべては仲間を失う恐怖からくるものだったのだと。
「なぁ、俺ってまだまだ強くなれるか?」
「え?さあ...それは貴方の努力次第ね。でも、まだ魔力の応用も身につけていないんだから、伸び代はあるでしょうけど」
「だよな。俺は今より、もっとずっと強くなれる」
亜里好は立ち上がり、黒恵の目を真っ直ぐに見据えた。
「だから、約束してやるよ。俺は決して、アンタの前から消えたりはしねぇ」
その真っ直ぐな誓いに、黒恵は思わず目を見開いた。夜風が二人の間を吹き抜け、彼女の長い髪を優しく揺らす。
「天神は、魔導師になりたい理由とかあんのか?」
ふとした問いかけに、黒恵は静かに夜空を見上げた。遠くで瞬く星々が、彼女の瞳に淡い光を落とす。
「そうね。最終的には、先生になってみたいわね。貴方に魔法を教えていて、やっぱりって確信したの。私は、誰かに何かを教えるのが好きなんだな...って」
かつて仲間を失った彼女は、二度と同じ悲しみを繰り返さないよう、そして誰もが自分と同じ思いをせずに済むよう、強い仲間を育てたいと願っている。
「でも、誰かに教えるなら、やっぱり実績が必要でしょう?だから、登り詰めたいの。最高ランクであるSに。いいえ、それだけじゃない。魔導師の中で一番強い存在になりたい...ふふ、あまり女の子っぽくない夢かしら?」
「夢に女も男もねぇだろ。だが、一番強い存在か...そりゃあ、俺も尚更強くならねぇとな」
彼女が頂点を目指すというのなら、その隣に立つ自分もまた、相応しい強さを手に入れなければならない。亜里好の胸に、静かな、けれど決して消えない決意の火が灯った。
「なら、俺に命令すること、あるんじゃないのか?パーティリーダーとしてさ。いや、女王様と呼ぶべきか?」
二人はどこか戯れめかした手つきで、騎士が主君に忠誠を誓うように、彼女の前で片膝をついた。見上げる彼の手を、黒恵はやわらかに、それでいて確かな強さで引き寄せ、慈しむようにその掌で包み込んだ。
「そうね。なら...命令よ。もっと、もっと強くなりなさい...そして」
街の喧騒が遠のき、世界には二人だけが取り残されたような錯覚に陥る。黒恵は、慈しむような、ひどく甘い微笑みを浮かべた。
「決して、私から離れないでね。私の騎士」
「仰せのままに」
夜の帳の中で交わされた温かい約束。二人の運命を分かちがたく結びつける、特別な夜へと変わった。
第22話 【星明かりの下で】




