第19話 回り始める歯車
肋骨の骨折に、痛々しい線状骨折。腕の損傷、全身を覆う無数の打撲痕や刀傷。書き出せばきりがないほどの重傷を負っていたというのに、亜里好は今、驚くほど平然としていた。
『回復魔法を施したとはいえ、後遺症一つなくここまで元気なのは、医学的に見て異常ですよ』
医師の呆れ混じりの言葉が脳裏をよぎる。斬り飛ばされたはずの指も、魔法と現代の粋を集めた高度な医療技術によって、何事もなかったかのように接合されていた。
「ははっ、マジ何言ってんのかわかんねぇ」
清潔なシーツに身を預け、優雅にテレビを眺めながらプリンを口に運ぶ。だが、内容が英語のため何も理解はできていなかった。死線を潜り抜けた者とは思えない、あまりにも呑気で穏やかな時間。しかし、その平穏は唐突に終わりを告げた。不意に、病室の扉が勢いよく開け放たれたのだ。
「あら、元気そうね」
黒恵は手際よく丸椅子を引き寄せると、すとんと腰を下ろした。彼女から聞いた話を総合すると、ギルド側が手配した魔導師用の治療用飛行艇に運び込まれ、集中治療室に放り込まれていたらしい。
「あの後、どうなったんだ?」
「儀式は成功よ。アクアも貴方にすごく感謝していたわ。来年もまたよろしくって」
「えっ、そうなのか?」
「嘘よ、後半は」
「なんなんだよ」
冗談を飛ばす黒恵に毒気を抜かれ、亜里好は手元のミニスプーンを八つ当たりのように強く噛んだ。
「それで、何しに来たんだよ。まさか、単なる見舞いってわけじゃないんだろ?」
「そうよ?」
「えっ、マジで?」
彼女の性格を考えれば、純粋な善意で見舞いに来るなど予想外だった。一瞬、胸の奥が温かくなるような、面映ゆい感動がこみ上げる。だが、その淡い期待は一秒と持たなかった。
「なーんて、嘘」
「だから!なんなんだよ、さっきから!」
亜里好が本日六個目となるカッププリンに手を伸ばそうとした時、黒恵がそっと一枚のカードを差し出してきた。亜里好のライセンスだ。
「ん?ねぇと思ったら、あんたが持ってたのか」
受け取ったカードをじっと見つめる。ふと、違和感に気づいた。 印字されたランクが、以前の『F』から『D』へと書き換わっていたのだ。
「貴方、Dに昇格したわよ」
「...Eは?いや、確かEだよな?」
「そもそも、FからEへの昇格条件は何だと思う?」
「経験を積むこと...いや、任務の達成数か?」
「正解。まあ、それはEからDに上がる時の条件だけど。FからEは魔物の討伐経験が五体以上あればいい。EからDは任務達成数が三回以上、ね」
その先、Dからの昇格はさらに厳しくなる。明確な基準こそないが、平均して百体以上の魔物討伐と、三十回以上の依頼をこなすことが必須とされるのが通例だ。
「あ?計算が合わなくねぇか?俺、まだ任務は二回しか受けてないぞ」
聖教団からの依頼と、今回のハワイの件。どう数えても三回には届かない。
「今回の依頼が異常だったからよ。頑張ったで賞として、特別に、一回で二回分としてカウントされたの」
「小学生かよ...ちなみに、あれはいくらなんだ? やっぱり、天神と同じくらい貰えるのか?」
「あれ、って?」
「給料だよ」
Dである黒恵は、ひと月で数百万円もの報酬を得ていたはずだ。Dに上がった自分も、ようやくその領域に手が届く。期待に胸を膨らませる亜里好に対し、黒恵は『はぁ?』とでも言いたげな顔をした。
「私と同じ? 違うわよ」
「...まあ、そうだよな」
冷静になれば当然だ。ランクが同じになったとはいえ、黒恵は英才教育を受けた魔導師であり、場数が違う。納得しようとした亜里好に対し、黒恵は勝ち誇ったようなドヤ顔で言い放った。
「だって、私もうCだもん。今回の任務で、昇格が決まったから」
特にランク間の壁を実感していない亜里好は、『へぇー、そうなんだ』と薄い反応を返す。その反応が気に入らなかったのか、黒恵は彼の耳元に顔を寄せ、密やかな吐息と共に呟いた。
「...約、三倍よ」
「三倍?」
「私の給料。Dの頃の、三倍」
つまり、月収にして一千万円近く。スプーンを咥えたまま、亜里好は絶句した。ちなみに、これまでランクのなかったアイにも、亜里好と同じDの階級が与えられたという。
「そ、それで...俺もなんか、二つ名で呼ばれるようになるのか?」
「は?何の話?」
「ほら、お前みたいな黒魔女とか、あの男みたいな砂男とかさ。ああいう格好いいやつ!」
「ちょっと!だから、その呼び方は嫌いだって言ってるでしょ!」
色めき立った黒恵が、亜里好の両頬をむぎゅっと掴んで左右に引っ張った。亜里好としては、二つ名という響きに一人前の魔導師としてのロマンを感じて羨ましがっていたのだが、彼女には逆効果だったらしい。
「そもそも異名はCから与えられる特権よ。一人前の魔導師として認められた証なんだから。Dなんて、まだ仮免許を卒業する一歩手前なの」
「そうなのか?でも、アンタはDの時から持ってただろ」
「私は...本来ならもっと早く昇格できたはずだったの。でも、一年前...私が昇格を蹴ったから、形として異名だけが先に残っちゃっただけ」
「...そうだったのか」
思わず頬をかき、視線を逸らす。一瞬だけ彼女の瞳に宿った暗い陰りを見て、亜里好は察した。どうやら今の話題は、彼女にとっての地雷だったらしい。気まずい沈黙を払拭するように、黒恵はふっと鼻で笑って表情を切り替えた。
「まあ、もし貴方に異名がつくとしたら、戦闘狂が妥当ね」
「おい。誰がバカじゃい」
黒恵は言い返そうとする亜里好を無視して、バッグからリンゴと果物ナイフを取り出した。
「お見舞いに来たら、やっぱりこれでしょ!」
「お、定番だねぇ」
黒恵は意気揚々とリンゴにナイフを入れたが、皮を剥くどころか、果実ごと豪快にぶった斬ってしまった。ぽろりと、無残なリンゴの欠片がベッドの上に転がる。
「「...」」
流れる沈黙。亜里好は呆れたように笑うと、黒恵に手を差し出した。
「貸しな」
ナイフとリンゴを受け取ると、亜里好は手際よく皮を滑らせていく。薄く均一に剥かれたリンゴは、あっという間に一口サイズにカットされ、皿の上に綺麗に並べられた。
「これがりんごの切り方だ。覚えとけ」
「...分かってるわよ、それくらい」
顔を真っ赤にしながら、黒恵は自分で持ってきたはずのリンゴを、気まずそうに口へ運んだ。
――おいおい、俺のために持ってきたんじゃねぇのかよ。
そんな騒がしい日常を送り、一週間の月日が流れた。本来なら一ヶ月以上の入院が必要な重傷だったが、驚異的な回復力を見せた亜里好は、早期退院を許されることとなった。
「アイ、悪りぃな。待たせたか?」
波音の合間に響いた声に、アイがゆっくりと振り返る。退院して早々、亜里好が彼女を呼び出したのは、あの日と同じ砂浜だった。彼の片手には、不格好に揺れるクッキーの袋とコーラのボトル。
「ううん...今、来たところ」
アイは短く答えたものの、その瞳は彼の姿に釘付けになっていた。
「怪我、大丈夫...なの?」
不安げな問いかけに、亜里好はニカッと白い歯を見せる。
「ああ、もうバッチリだ!」
快活な声と共に、彼は自身の胸をドンと叩いてみせた。だが、その威勢の良さとは裏腹に、首筋から袖口、足首に至るまで、衣服の隙間からは真っ白な包帯が覗いている。まるで古代のミイラが現代に迷い込んだかのような、痛々しくも滑稽な重病人姿だった。
「クッキーだけでいい。ボクは炭酸が嫌い。口の中が...痛くなるから」
「ああ、そうか。悪いな」
膝を抱えて丸くなるアイの隣に、亜里好は静かに腰を下ろした。亜里好は一人でコーラを飲む。
「それで...ボクに何の用?」
「いや、その...何から話せばいいか。えっとな」
正直、この話題を彼女に振るべきか迷っていた。だが、避けては通れないことだ。
「遠慮しないで...」
「...俺と戦った連中、あいつらは自分たちのことを邪神教団って名乗ってたんだ。もしかして...」
アイの家族をおかしくさせ、兄の様な存在を殺した教団。彼女にとっては、憎んでいるはずの相手だ。どんな激しい反応が返ってくるか、あるいは深い悲しみに沈んでしまうのか。亜里好が固唾を呑んで見守る中、アイから返ってきたのは、予想だにしない軽い言葉だった。
「...何それ?」
「へ?ほ、ほら?前に話した教団...もしかして別?」
アイは視線を斜め上にやり、記憶の糸を手繰り寄せるように小さく首を傾げた。
「あー...あいつらが信仰してる神は邪神って神じゃない...確か月の女神、アルテミスって...神だった」
淡々と、だが確かな憎しみを込めて、アイは言葉を継ぐ。
「そう、あいつらは自分たちを...夜の使徒って名乗って、た」
亜里好が差し出したクッキーを一枚、アイは感情を押し殺すようにして口に運んだ。静かな砂浜に、サクリ、と乾いた音だけが零れ落ちる。
「そっか。ごめんな、変なこと思い出させて」
「いい...よ。亜里好が戦った連中のことも...気になるし。でも、ありがとう」
「な、なにが?」
「気遣ってくれてたん...でしょ?」
アイは悪戯っぽく、けれど慈しむように優しく微笑むと、あぐらをかいた亜里好の肩に、すとんと頭を預けた。
「ボクは、亜里好が無事で本当に...良かった」
「そ、そうか」
真っ直ぐな言葉を投げかけられ、亜里好は居ても立ってもいられなくなる。鼻の頭を指で掻き、逃げるように不遜な態度を作ってみせた。
「ふん、俺は天才だからな。そう簡単にはやられねぇよ」
「はいはい...そう...だね」
アイの声は次第に小さくなり、安らかな寝息へと変わる。亜里好は苦笑しながら、彼女が起きるまで海を眺めるのであった。
◇◇◇
高度一万メートルを滑るプライベートジェットの機内。遮音性の高いキャビンには、上質なベージュのレザーが放つ芳醇な香りと、気圧調整装置が奏でる微かなハミングだけが満ち、贅沢な孤独を深めていた。窓の外を流れる雲海を眺めているのは、淡い陽光に黄金の髪を輝かせるロシア人の少女だった。
「日本、ですか」
静寂を裂くように、クリストフルの銀器が陶器の皿と触れ合い、澄んだ音を立てる。テーブルに供されたのは、完璧な火入れがなされたシャトーブリアンだ。ナイフを滑らせると、驚くほど容易に刃が通り、鮮やかな赤身の断面が顔を覗かせる。
「まぁ...美味しいですわね」
「ソースの煮詰めに心血を注ぎました。そう言っていただけると、料理人冥利に尽きます」
一口運べば、とろけるような脂の甘みが舌を包み込む。少女は思わず、零れそうな感嘆を抑えるように小さく手を口元に添えた。その時、少し離れた席に控えていた老人が音もなく立ち上がり、少女の傍らへ歩み寄った。
「聖女候補様、あと一時間ほどで日本へ到着いたします」
「わかりました...この後の予定を教えて下さい」
「まずは、ヴァイス司教との面謁。次いで、ギルド総本帥グラスフォール様、および日本支部長九十九様との会食が控えております」
「そうですか...なら、今はおかわりは控えておいた方が良さそうですね。その後は?」
「その次は、信者の方々お一人お一人との拝謁でございます」
ぎっしりと並んだ過密なスケジュールに、胸の内でそっとため息をつく。
「あの、少しでも自由時間などは...ありませんか?久しぶりの日本ですから、少しだけでも観光をしたい気持ちがありまして」
淡い期待を込めて尋ねたが、老人の答えは冷徹だった。
「その様な時間はございませんね」
ぴしゃりと言い切られ、胸の奥がキュッと痛む。切なさと落胆が混ざり合った悲しげな表情が顔を出しそうになり、慌てて視線を伏せた。誰にもその弱音を見られないよう、すぐに深く息を吸い込む。そして、いつもの完璧な仮面を被り、無理やり柔らかな笑顔を作って顔を上げた。
「そうですか。分かりました」
少女は短く応じると、再び機窓の向こうへと視線を戻した。
「会いたいな...黒恵ちゃん」
第19話 【回り始める歯車】
暗澹たる静寂が支配する地下室。その中央、円卓を囲むように並べられた八つの水晶が、不気味な脈動を繰り返していた。だが、一つだけ不在を示すか様に光を宿してなかった。
中心で一際異彩を放つのは、深淵を煮詰めたような黒い水晶。その前で、レイモンドは軽薄な笑みを浮かべ、肩をすくめて見せた。
「そう怒んないでくださいよ、我が愛しの団長」
『何故、レイを奪わなかった。貴様の力ならば、あの程度の連中を蹴散らすなど造作もなかったはずだ』
黒い水晶から響く地を這うような低い声には、隠しきれない怒気が孕んでいる。だが、レイモンドはどこ吹く風で言葉を返した。
「だって、あの宝具の力を引き出せるのはアクアだけでしょ? 奪ったところで、私らにとってはただのおもちゃ。持っていく意味がないじゃないですか」
『我らの目的は、あの魔法自体ではない。宝具に宿る純然たる神聖だ。一年に渡り祈りを捧げられ、神聖を蓄積したあの器に、どれほどの価値があるか分かっているのか?』
「分かってますって。重々承知ですよ」
食えない笑みを崩さないレイモンド。すると、三番目の水晶が突如として赤黒く発光し、野卑な声が響き渡った。
『レイモンドぉ!てめぇ、随分と派手に暴れ回ったらしいじゃねぇか!何故、俺も連れて行かなかった?』
「アッシャーと組むのは嫌ですよー。貴方の魔法は私まで木っ端微塵にされますから。それにしても、もう耳に入りましたか。昨日今日のことだっていうのに、皆さん耳が早いですねぇ」
『流石にやりすぎよ。聖女殺しなんて...挙句、聖教団の聖騎士まで手にかけたとなれば、大騒ぎに決まっているじゃない』
落ち着いた女性のたしなめるような声が一番目の水晶から漏れる。直後、六番目の水晶が狂ったような笑い声を上げた。
『ギャハハ!!単独で聖教団に潜り込むなんて、最高にロックじゃねぇか!ギュラララ!ギュラララァ!!』
鼓膜を突き刺すような激しいギターの爆音が、石造りの部屋に反響する。
『ロックスター。急に楽器を鳴らすな。耳に響くではないか...』
隣り合う七番目の水晶から、老人の枯れた声が苦言を呈す。混沌とする通信の最中、5番目の水晶が沈黙を守っていることに気づいた二番目の水晶からは、機械的で無機質な声が指摘した。
『団長様。プッカー様が居眠りをしています』
『ふがっ?!ね、寝てねぇ。起きてる...起きてるぞ』
慌てて言い繕おうとする五番目の声を冷ややかに黙殺し、一番目の水晶がレイモンドへと向き直る。その滑らかな表面が、どこか楽しげに揺らめいた。
『そういえば、彼はどうしたの?』
唐突な問いかけに、レイモンドは肩をすくめてみせる。
「なぜ、それを私に聞くのですか?」
『とぼけないで。私達の中で、あなたが唯一まともに仲良くしているのは彼だけでしょう?』
皮肉の混じった指摘に、レイモンドはわざとらしく眉を下げ、芝居がかった溜息をついた。
「随分な言い草ですね。それでは、貴方方は私と仲良くないと?」
『ええ、そうよ。はっきり言っておくけれど、私、あなたのこと大っ嫌い』
水晶から放たれた容赦のない拒絶。しかし、レイモンドは動じる風もなく、口角を滑らかに釣り上げる。
「おや、まさか振られてしまうとは。それは悲しい...まあ、彼はギルドの仕事に追われていましてね。忙しくてここへは来られなかったのですよ」
軽口を叩き合う一人と一個。そんな彼らの不毛な無駄話を断ち切るように、沈黙を貫いていた黒い水晶が、重苦しい圧を放ち始めた。
『話を戻すぞ。聖教団襲撃は任務に含んでいなかったはずだ。何故、独断で動いた?』
「安心して下さい。証拠は残していません。私がやったとは誰にもバレてはいませんから」
『そういう問題ではない。規律を乱す個の暴走は、組織にとって...』
「責任を取りに行ったんですよ。それ相応のね」
レイモンドは懐に手を入れると、一筋の輝きを闇の中に晒した。その手に握られていたのは、神々しい光を放つ黄金の首飾り。
『それは...聖女の証、女神の首飾りか?』
「ええ。レイは奪えませんでしたけど、代わりにこれを持ってきました。代わりの供物としては、十分でしょ?蓄積された神聖力なら、あっちの宝具よりこっちの方が上なんじゃないですかね?」
レイモンドは唇を歪め、不気味に、そして愉悦に満ちた笑みを浮かべる。一瞬の静寂の後、黒い水晶が微かに震えた。
『...ふっ、ふはははは!お前という奴は!』
団長と呼ばれた男の高笑いが、部屋を震わせる。
『良いだろう。これほどの供物があれば、邪神様もお前の失態を許してくださるはずだ...至高なる神のために。我らすべてを、貴方に捧げよう』
その言葉を合図に、レイモンドと他の水晶たちが声を揃え、呪詛のような誓いを唱和する。
「我ら邪神教団。この世界をすべて破壊し、再生することをここに誓わん」
深く、恭しく頭を下げるレイモンド。だが、水晶の光が届かない足元の影で、彼は子供が新しいおもちゃを手に入れた時のような、無邪気で残酷な笑みを零していた。
第一章 【世界に拒絶されし忌み子、ここに厄災は目覚める】 完
これにて第一章は終了となります。ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!第二章もまもなく描き終わる予定です。次の投稿まで1週間ほどお時間をいただくかと思いますが、楽しみにお待ちいただけますと幸いです。改めて、第一章を読んでくださりありがとうございました。これからもどうぞよろしくお願いします!
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