第14話 想い手
国際空港の自動ドアが開いた瞬間、ねっとりとした熱気と、それを打ち消すような爽やかな潮風が一行を包み込んだ。
「つ、着いた...ここが、常夏の楽園!」
亜里好は、ずっしりと重いダッフルバッグを握りしめ、眩い光に目を細めながら天を仰いだ。日本で羽織っていたシャツはとうに脱ぎ捨てられ、逞しい肩を覗かせるタンクトップ姿になっている。彼の瞳には、リズムを刻むように揺れるヤシの木のシルエットと、吸い込まれそうなほどに突き抜けた蒼穹が鮮やかに焼き付いていた。
「ちょっと、あまり騒がないで。見ているこっちまで恥ずかしくなるわ」
背後で凛とした声が響く。黒恵が、顔の半分を覆うような大きなサングラスを指先でクイと押し上げた。黒を基調としたシックな装いは、灼熱の陽光の下ではいささか重苦しく映るが、彼女は涼しげな顔で周囲の喧騒を眺めている。その冷ややかな眼差しには、隠しきれない高揚感が微かに混じっていた。
「もっと開放的になれよ!せっかくハワイに来たんだぜ?」
「勘違いしないで。私たちは遊びじゃなくて仕事で来たのよ」
「その割には、ずいぶん気合が入ってるよな」
亜里好が視線を落とした先、彼女の指先には、無数のカラフルな付箋が躍るハワイのガイドブックが握られていた。今回はギルドの任務。移動手段からホテルまで全てが用意された、いわば実質タダの南国観光。
「ところで、アイは?」
「知らないわよ。さっきまで後ろに...って、え?」
二人が同時に振り返る。そこには、南国の熱に文字通り溶けてしまったかのように、アスファルトの上でへなへなと崩れ落ちているアイの姿があった。
「アイ!!」「チビ助!!」
二人の絶叫が、のどかな空港のロータリーに木霊する。慌ててアイを担ぎ上げ、冷房の効いた送迎バスへと飛び込んだ一行。常夏の楽園での初日は、波乱の予感を孕んだまま幕を開けた。
◇◇◇
「生きてっか?」
「暑い...死ぬ...」
身体の弱いアイにとって、気温30度超えはまさに致死量。魔法で防げるとはいえ、人中で巨大な骸骨を召喚するわけにはいかない。
「亜里好...刀、貸して」
「え?いいけど」
亜里好が異袋から刀を吐き出すと、その刀身からは冷気のような冷たい風が発せられていた。アイはそれを抱きかかえるようにして、涼しさを手に入れる。
「流石にそれ持って外は出られねぇな」
「二人とも、行くわよ...って、チビ助。まだ着替えてなかったの...」
――そう、今から俺たちは仕事に向かう。
亜里好たちは道具を持ち、目的の場所へ。高い透明度を誇り、エメラルドグリーンから深みのあるブルーへと変わる海、そして真っ白な砂浜。そう、亜里好たちの仕事は、全力で遊ぶこと。
「いいねー、海ってやつ」
アロハシャツを着こなし、ココナッツジュースを片手に砂浜に出る。未だ水着の着替えに手間取っているアイの付き添いで、黒恵たちはホテルの部屋にいる。先んじてビーチに向かった亜里好は、南国の味を堪能していた。
「Hey nice guy, wanna hang out with us?」
早速のナンパ。亜里好は自信満々に声の方へ振り向く。だが、その途中で声の違和感に気づいた。色気のある声というより、何かこう、ゴツさを感じる。
「...オウ、ノー」
そこには、自分よりも二回りほど筋肉質な男が二人、踊らせるように胸筋を交互に揺らしながら立っていた。
「wow nice body」
「...」
好き放題に触られる自分の筋肉。想像していたナンパとかけ離れた光景に、亜里好は呆然とする。
「Excuse me」
ここからどう切り抜けるか。そう考えた時、遠くから聞き覚えのある声に助けられる。
「That person is with me, so could you please return it now.」
「I apologize for my rudeness. I didn't realize you were married with children, as you look so young, and I should not have touched you without permission」
何を言っているか細部までは分からないが、単語の端々を聞き取る限り、どうやら俺が夫で、黒恵が妻。そしてアイを娘と勘違いしているようだ。
男たちは勝手に勘違いしたまま、爽やかに手を大きく振ってビーチの奥へ向かっていく。何故か最後の最後まで熱い視線を感じたが、気づかないふりをしよう。
「なんだよ?」
黒恵にジーッと見つめられる。
「何か言うことないの?」
「あぁー、さっき助けて貰ってありがとう」
「そっち、じゃないわよ」
「?」
「もう、いい!」
何故か不機嫌になってしまった黒恵。
「(普通、水着を見たら褒めるでしょ、バカ)」
亜里好からの言葉を期待していた自分がバカだった、と黒恵は内心でふてくされる。
「天神。水着、似合ってるよ」
言い慣れていない事に亜里好は目を逸らしながら頭をかきながら感想を述べた。唐突な事に黒恵はゆっくりと振り向く。
「何よ、急に」
「なんとなく」
「...ふん」
黒恵はツンと澄ましながらも、その頬をわずかに朱に染めていた。照れ隠しの透けるその態度に、ハワイの熱気以上の暑苦しさを感じ取ったアイが、呆れたように肩をすくめる。
その後、三人は南国の海と料理を存分に堪能した。泳げないアイは浮き輪にしがみつき、海面にぷかぷかと揺られながら、至福の時間を過ごす。やがて水平線に沈む夕日を眺めながら、ホテルのレストランで豪華な夕食を終えた。
「はぁー、楽しかった...明日から任務か」
不意に漏れた亜里好の独り言に、楽しかった余韻が引き締まる。ここまで遊び尽くしたことで、本来の目的を忘れかけていた。あと数日はこうして遊んでいたい気分だったが、ギルドからの依頼がある以上、そうはいかない。三人は一室に集まり、明日の作戦会議を始めた。
「それで、その魔賊を捕まえればいいんだよな? どこにいやがるんだ」
「居場所までは知らないわ」
「なら、どうやって捕まえるんだよ」
黒恵が不敵に微笑む。
「明日は五月一日。ハワイにとって何の日か知ってる?」
「さあな。なんか祭りとかあんのか?」
伝統行事か何かだろうか。見当もつかない亜里好に、黒恵が静かに告げた。
「レイ・デーよ」
それは毎年五月一日に行われるハワイの伝統行事。人々が花の首飾りであるレイを身にまとい、感謝と愛を分かち合う祝祭だという。
「そのレイ・デーが、任務と何の関係があるんだ?」
質問に答える代わりに、黒恵が一枚の写真を差し出した。そこには、色鮮やかなレイを首にかけた一人の女性が写っている。
「これは去年の写真。魔賊が狙っているのは、彼女ではなく、この花そのものよ」
「花?ただの首飾りだろ」
「いいえ。この花にはこの島と契約を結んだ契約獣の力を借り、1年間掛けて、宝具師が伝統に則って編み込んだ宝具としての力が宿っている。その力は明日の夕日が沈む瞬間に使われ、願いを現実にする魔法が宿っている」
黒恵の説明によれば、毎年アクアと呼ばれる巫女のような存在が、感謝の気持ちの引き換えに、島と世界の平和を願い、魔物の発生を抑える儀式を行うのだという。ギルドにとっても、この伝統を守ることは世界の平穏に直結する死活問題だった。
「願いを叶える魔法か。そりゃあ、連中が放っておくはずねえな」
「ええ。狙われると分かっていても、この伝統は中止できない。もし儀式を欠かそうものなら、守り神である契約獣の怒りに触れ、島に災厄が降りかかるわ」
「去年はどうだったんだ?」
亜里好の問いに、黒恵の表情がわずかに曇った。
「去年は六組のパーティがアクアの護衛についた。結果として護衛には成功したけれど、戦力差は圧倒的で...参加した魔導師の八割近くが亡くなったのよ。例年はこれほど本格的な襲撃はなかったのに、去年だけは異常だった。だから今年は大規模な布陣が敷かれている」
「へぇ。俺たち以外にもいるってわけか」
聞けば、今回の作戦にはアクアを優先的に守る護衛組が五組、そして自分たちを含む襲ってくる魔賊を優先的に倒す討伐組が三組。計八組もの魔導師パーティが動員されているという。
「他の討伐組とは、会わなくていいのか?」
亜里好の問いに、リーダーの黒恵が淡々と応じる。
「あまり目立った行動をすれば、私たちが魔導師だと露呈してしまうわ。後でリーダー会議があるけれど、あなたたちには資料を送っておくから、討伐組の顔触れだけは叩き込んでおきなさい」
その夜、ホテルの自室でメールに添付されたファイルを開くと、真っ先に一枚の写真が目に飛び込んできた。そこに写っていたのは二人組の男だ。一人は、髑髏のハーフマスクで顔を覆い、鋭い眼光を放つ男。髪は左右で白と黒に鮮やかに分かれている。
「ガラトロ=マーレイ?悪そうな顔だな」
画面をスライドさせると、もう一人の写真が現れた。その男は、右目の部分にだけ歪な穴を開けた紙袋を頭から被っているという異様な風体だった。
「ゲレトロ=マーレイ...兄弟で魔導師をやってるのか。それにしても」
どちらも、敵だと言われれば即座に信じてしまいそうな悪役面の二人だ。事前に味方だと知らされていなければ、戦場で出会った瞬間に切り伏せていたかもしれない。その時、不意に部屋の呼び鈴が鳴った。ドアを開けると、そこにはアイが立っていた。
「どうした、アイ?」
「暇...だから、遊びに...来た」
黒恵はリーダー会議で不在。時刻は夜の九時を回ったところだ。時差を考えれば日本はまだ夕方の四時頃だろう。無理に眠ろうとしても、体はまだ覚醒している。
「...少し、散歩でもするか」
夜のハワイは、昼間の猛暑が嘘のように涼やかな風が吹き抜けていた。暑さに弱いアイも、この気温なら観光を楽しめそうだ。二人は賑わう夜の街を抜け、波音だけが響く静かな砂浜に腰を下ろした。
――熱くないのか?
魔導師の制服を着ているアイ。いくら朝に比べて涼しくなってきたとはいえ、そのローブは暑くないのだろうかと亜里好は疑問に思った。
「亜里好って、なんで...魔導師になった...の?」
隣で膝を抱えていたアイが、唐突に問いかけてきた。
「急だな。聞いてないのか?俺が魔導師にならなけりゃ、死刑になるからだよ」
苦笑混じりに経緯を話す亜里好。しかし、アイは納得した様子もなく首を横に振った。
「違う。その理由だけ...なら、ここまで頑張らないはず。他の理由があるはず...だよ」
すると彼女は、下を向き呟いた。
「亜里好は、ボクと同じだと...思う」
「同じ?」
「ボクが魔導師になった理由...この世界に留まっている理由は...復讐」
その言葉に、亜里好の心臓が大きく跳ねた。魔導師になったのは確かに死刑を回避するためだ。だが、その道を選んだ決定的な動機は、家族を惨殺した奴らへの復讐だった。魔導師の世界に身を置けば、いつか奴らの尻尾を掴めるかもしれない。その予感があったからだ。
「復讐、か」
「うん。ボクも元々は....亜里好と同じ一般人だった。ただただ、平凡な日常を過ごし...てた」
アイは静かに、自らの過去を語り始めた。魔法などとは無縁の、退屈で幸福な日々。朝起きて、学校へ行き、友人と笑い合い、家に帰って家族と過ごす。その繰り返しの日常で、十分すぎるほど満たされていた。
だが、中学生になる頃、両親が急変した。ある新興宗教への入信。それ以来、優しかった親は別人のように豹変した。時間も金も、すべてを教団に注ぎ込み、娘であるアイを他人かモノのように扱うようになった。
「孤独になったボクの前に、2人の魔導師が...現れた。たった一ヶ月程度だったけど...まるで本当のお兄ちゃんとあ姉ちゃんができたみたいに...優しい人、たち」
亜里好は言葉を挟まず、その先の結末を想像して喉を鳴らした。
「...教団にとって、魔導師は天敵...だったの。お兄ちゃん、お
姉ちゃんは教団の闇を暴くために、ボクの親に接触してきたの...だからボクに優しくしてくれたんだと思う。たとえ近づいた理由が任務だったとしても、それでもボクは...嬉しかった。でも、洗脳されたボクの親によって、2人は殺された。ボクと仲良くなったせいで、ボクの親に手を出せずに...命を落とした...許せなかった。家族も、教団も...そして、何もできなかった自分自身も...それからボクは、お爺ちゃんに...拾われた」
アイがお爺ちゃんと呼ぶ人物。それが、あのグラ爺なのだろう。話によれば、そのお兄さんとお姉さんに教団の調査任務を与えたのは、他ならぬグラ爺本人だったという。死の直前、2人はもしもの時はアイの後見人になってほしいと、グラ爺に最期の願いを託していた。
「お爺ちゃんは復讐なんてやめとけって言うけど...どうしても許せない。2人を殺した教団、親を悪魔に変えた教団...そして、悪魔に成り果てた親を、この手で殺さないと気が済まない。たとえそれを...2人が望んでいなくても、あいつらだけは...」
アイから溢れ出る、昏い殺意。彼女は煮えたぎるような怒りを隠すように、深くフードを被り直した。家族への復讐という点では自分と同じだ。だが、家族そのものを目の前で失う絶望は、亜里好の想像を絶するものがあるだろう。
力になりたい、理解してやりたいという気持ちはある。だが同時に、大切な存在を奪われた者の痛みが、他人に分かってもらえるほど軽いものではないことも、痛いほど知っていた。
「ボクが間違った道に進んで...この手で人を殺そうとした時。その時...亜里好は止め...る?」
真っ直ぐな瞳が、亜里好を射抜く。それはアイにとって、己の魂の在り方を問うような、重く切実な問いだった。だが、亜里好は即答できなかった。
「さぁな...そんな軽い回答はできねぇよ」
それが、今の嘘偽りない本音だった。
「言葉にするのは簡単だ。止めると言えば綺麗かもしれない。でも、口先だけの綺麗事は嫌いなんだ。実際にその場面に直面してみなきゃ、本当のことは分からない」
亜里好は一度言葉を切り、彼女の瞳を静かに覗き込んだ。
「だから、本当にその時が来たら、もう一度同じ質問をしてくれ。その時の俺が感じたままに、本気で答えてやるから」
「...そう」
アイは短く呟き、寂しげに、ふっと力なく笑った。望んでいた答えではなかったのかもしれない。彼女の表情の陰りに、亜里好は拭いきれない事情を感じ取った。だが、安易な同情で土足に踏み込む真似はしたくなかった。
「でもな」
視線を逸らしかけた彼女を引き止めるように、亜里好は言葉を継ぐ。
「これだけは言える。俺は、アンタを見捨てるって選択肢だけは選ばない」
復讐を肯定するわけでもない。正義の味方を気取るつもりもない。ただ、泥沼に沈もうとするその手を、最後まで離さないことだけは誓えた。
「...」
「それが、今の俺に出せる精一杯の答えだ」
俯いた彼女の表情は、フードに遮られて見えない。亜里好は無意識のうちに、そのフードの上から彼女の頭をそっと撫でていた。
アイは何かを言いかけ、そして短く、今度はさっきよりも確かな声で『ありがとう』と返した。
夜風が二人の間を通り抜けていく。核心には触れないまま、それでも、冷え切っていた二人の距離が、ほんの少しだけ熱を帯びた気がした。
第14話 『想い手』
「はい。必ずや、任務は遂行いたします」
月明かりすら届かない、人気を拒絶した路地裏。湿った空気の中に、男の冷徹な声が響いた。手にした水晶が不気味な光を放ち、闇の向こう側にいる何かと密やかに交信を続けている。
「グヒッ!あぁん?危ねぇだろうがよぉ!」
不意に、背後から下卑た声が飛んだ。酒臭い息を撒き散らしながら、千鳥足の酔漢が男の肩に荒っぽくぶつかる。男は一瞥もくれず、ただの障害物として無視し、淡々と歩を進めた。
だが、無視されたことが酔っ払いの逆なでしたらしい。男の背中に向かって、さらに粘着質な怒号を浴びせかける。
「待ちやがれ!無視してんじゃねぇぞ、コラァ!」
「...」
男が足を止めた。街灯の届かない地面で、男の影が意志を持った蛇のようにうごめき、酔っ払いの足元まで異様に長く伸びた。
「な、なんだ、これ...?」
酔っ払いを包囲するように、どす黒い影の中から、この世のものとは思えぬ異形の化け物たちが這い上がってくる。数条の腕、剥き出しの牙、そして底知れぬ飢餓感を湛えた眼窩。
そのあまりに非現実的な光景に、男の酔いは一瞬で吹き飛んだ。膝の震えが止まらず、その場に無様に崩れ落ちる。
「や、やめろ...!来るな、来ないでくれ!」
悲鳴は、化け物たちの咆哮にかき消された。鋭い爪が肉を裂き、複数の腕が男の手足を引き絞る。生きたまま喰らいつく化け物たちの狂宴。男の断末魔はやがて、ぐちゃりという不吉な咀嚼音へと変わっていった。
化け物たちは満足げに喉を鳴らすと、再び影へと潜り込み、主である男の後を追うように闇の中を行進し始める。
「至高なる神のために、我らすべてを貴方に捧げましょう」
男は恍惚とした表情で、誰に聞かせるでもなく独白した。
「我ら邪神教団。この世界をすべて破壊し、再生することをここに誓わん」




