第8話 王太子捕縛作戦、決行!
王太子宮の正門は、最初から開け放たれていた。
「……間違いなく、ここでよいのだな?」
王宮騎士団の隊長は、目の前の光景に眉をひそめた。
七歳の王太子アレクシスを連れ戻す。それが国王から命じられた任務である。相手は聡明で、少々手ごわいと聞いていた。だからこそ、騎士たちは宮殿の出入口を確認し、逃走経路まで頭に叩き込んできた。
だというのに、門は開いている。玄関扉まで開いている。
「王太子殿下より、皆様をお迎えするよう申しつかっております」
門番は恭しく一礼した。
「……お迎え?」
罠だろうか。
隊長が警戒を強めた、そのとき。
「ようこそ、王太子宮へ!」
扉の向こうで、侍女と侍従たちが一斉に頭を下げた。
大広間には色とりどりの花が飾られ、楽師が楽器を構えている。長卓には料理と菓子、それに美しいグラスがずらりと並んでいた。
「…………」
隊長は自分の鎧を見下ろした。
周囲の騎士たちも、思わず足を止めている。
「我々は、王太子殿下をお連れするために来たのだが」
「承知しております。長丁場になるかもしれませんので、軽食をご用意いたしました」
「……軽食?」
卓の端から端まで料理が並んでいる。到底、軽食という量ではない。
「お疲れでしたら、別室に休憩所もございます。湯浴みやお着替えもご用意できますので」
「待て。何日滞在させるつもりだ?」
「殿下が見つかるまで、と伺っております」
侍従長はにこやかに答えた。
「……すべて、殿下のご指示か?」
「いえ。こちらはベリアル様が手配なさいました」
隊長は天井を仰いだ。
まだ捜索すら始まっていないのに、ひどく疲れた気がする。
「各員! 飲食は任務終了まで禁止! 捜索を開始する!」
「はっ!」
威勢よく応じた騎士たちが散っていく。その背中を、侍従長は穏やかに見送った。
「皆様、どうぞごゆっくり」
「ゆっくりはしない!」
隊長の声が広間に響いた。
◇ ◇ ◇
同じ頃、王宮本殿では、ヴィクトリアがじっと扉を見つめていた。
「お兄様は、まだ捕まりませんの?」
「まだ報告は来ていないね」
答えたのは国王マクシミリアンだった。
彼の膝には、いつもどおり王妃ジュリエットが収まっている。
「ふふっ。アレクったら、どんな顔をしているのかしら♡」
「君がそんなに楽しそうなら、騎士団を出した甲斐もあったね」
国王夫妻は楽しげだ。
しかし、ヴィクトリアは少しも楽しくなかった。
ベラに謝りたい。
ただ、それだけなのに。
兄は何度頼んでも取り合ってくれない。だからといって、騎士団まで動く騒ぎになるとは思っていなかった。
王女自身、どうしてこうなったのかよくわかっていない。
「……陛下。本当に、騎士団を動かす必要がございましたか」
宰相レオンハルトが、額に手を当てた。
「アレクが素直に来てくれれば、すぐ終わる話だよ」
「その『すぐ』が、私には信じられません」
胸元の薬入れに伸びかけた手を、彼は辛うじて止めた。
そこへ、伝令が飛び込んできた。
「陛下! 王太子宮へ進入いたしました!」
「それで、アレクは?」
「現在捜索中です。ただ、その……宮殿で盛大な歓迎を受けまして」
「歓迎?」
「花飾りに料理、楽師、休憩所まで用意されております!」
ジュリエットが目を輝かせた。
「まあ! 楽しそう! わたしも行きたいわ♡」
「君が行きたいなら、私も一緒に」
「お待ちください!」
レオンハルトの声が重なった。
「今、必要なのは宴ではなく、王太子殿下の確保です!」
ヴィクトリアは小さく頷いた。
今日ばかりは、宰相の意見に全面的に賛成だった。
◇ ◇ ◇
王太子宮、東翼の回廊。
「ずいぶん賑やかだね」
アレクシスは窓の外に目を向けた。
庭園には騎士たちが配置につき、遠くからも靴音と号令が聞こえてくる。
「皆様、たいそう熱心にお探しでございます」
半歩後ろを歩くベリアルが、楽しげに答えた。
「……歓迎の準備は、君がしたそうだね」
「お客様を粗略に扱うわけにはまいりませんので」
「捕まえに来た相手でも?」
「もちろんでございます」
アレクシスは小さく息を吐いた。
この従者は、どこまで本気なのだろう。
「王太子殿下!」
曲がり角から、騎士たちが姿を現した。
「国王陛下のご命令により、お迎えに上がりました。どうかご同行を!」
「ご苦労さま。でも、今は少し用事があるんだ」
「恐れ入りますが、そういうわけには!」
騎士が一歩踏み出す。
その背後から、別の騎士が回り込んだ。
前と後ろを塞がれたアレクシスは、慌てるどころか、ゆっくりと首を傾げる。
「父上には、あとで会いに行くと伝えてくれる?」
「殿下、そのお約束はできかねます!」
騎士が腕を伸ばした、その瞬間。
アレクシスの身体がふわりと浮いた。
「……なっ!?」
ベリアルが主人を片腕に抱き上げ、そのまま回廊の長椅子を軽々と飛び越えたのだ。
騎士たちが振り向いたときには、黒衣の従者はすでに数歩先にいた。
「お待ちください!」
「申し訳ございません。主が急いでおりますので」
ベリアルは足を止め、丁寧に一礼した。
そして、追いかけようとする騎士たちに告げる。
「広間に冷たい果実水がございます。お疲れでしたら、どうぞ」
「任務中だ!!」
騎士たちの怒声を背に、ベリアルは再び歩き出した。
「……君、楽しんでいるだろう」
「滅相もございません」
「顔が笑っているよ」
「生まれつきでございます」
アレクシスは、もう追及しなかった。
やがて、窓の向こうに王宮本殿の尖塔が見えた。
その途端、少年の表情から笑みが消える。
「……ベリアル。先日頼んだ件は?」
「確認を進めております。まもなくご報告できるかと」
「そう」
短い返事だった。
けれど、その瞳は騎士たちのいる回廊ではなく、遠くの王宮本殿へと向けられていた。
◇ ◇ ◇
王宮本殿の廊下を、一人の使用人が歩いていた。
腕には、折り畳まれた白い布。
すれ違う侍女たちへ控えめに会釈し、男は宮廷行事室の前で足を止めた。
今日は王太子宮の騒ぎで、いつもより警備が手薄だ。
男は周囲に人影がないことを確かめ、扉を押し開けた。
室内には、王族の公式行事に関する書類が保管されている。
男は迷うことなく机の上へ向かった。
『王妃殿下主催・春季茶会』
新しい書類の表紙を確かめ、素早く頁をめくる。
開催日時。会場。招待客。
そして、一行。
『国王陛下は公務のため欠席予定』
男はその文字をじっと見つめた。
やがて書類を元に戻し、持ってきた布を抱え直す。
扉を開いたところで、足が止まった。
「……探し物は見つかったか?」
目の前に、大柄な騎士が立っていた。
王国騎士団長、ヴォルフラム侯爵である。
「こ、こちらの清掃を申しつかっておりまして……」
「清掃か。その布は随分と綺麗だな」
「たった今、始めるところでございました」
「では、なぜ部屋から出てきた?」
男の表情が強張った。
「担当の使用人にも確認している。今日は誰にも代わりを頼んでいないそうだ」
背後から二人の騎士が姿を現す。
「同行してもらおう」
男は逃げようとした。
だが、一歩も踏み出せないまま、両腕を押さえられた。
◇ ◇ ◇
王太子宮の北回廊では、アレクシスとベリアルが騎士たちの目をかわし、庭園に面した欄干のそばに立っていた。
頭上から、ひときわ大きな羽音が響く。
一羽の黒いワタリガラスが舞い降り、ベリアルの差し出した腕に止まった。
「お帰りなさい、フギン」
ベリアルは嬉しそうに黒羽を撫でた。
鳥はその指先へ頭を擦り寄せる。
アレクシスは無言で眺めていた。
この従者が、鳥にだけは驚くほど甘いことを、彼は知っている。
「……報告を先にしてくれないかな」
「おや。これは失礼いたしました」
少しも悪びれず、ベリアルはフギンの脚に結ばれた小さな筒を外した。
中の紙片へ目を通し、主人へ向き直る。
「荷馬車の所在が確認できました。ヴォルフラム侯爵にも、すでに知らせております」
「よかった。あとは侯爵に任せよう」
「承知いたしました」
ベリアルはもう一度、フギンの頭を撫でた。
「さあ、お戻りなさい。ムニンも待っているでしょうから」
黒い翼が大きく広がる。
鳥が春空へ消えるまで見送っていた従者へ、アレクシスは声をかけた。
「君は本当に、鳥が好きだね」
「美しく、賢く、忠実ですから」
「……ぼくへの当てつけ?」
「とんでもございません」
ベリアルは、実に爽やかな笑顔を返した。
◇ ◇ ◇
王宮の城壁から少し離れた街道。
荷馬車のそばで、一人の男が苛立たしげに舌打ちした。
「……遅い。引き揚げるぞ」
御者が手綱を握ったとき、数騎の馬が街道の向こうから近づいてきた。
先頭の騎士が、荷馬車の前で馬を止める。
「積み荷を確認させてもらう」
「ただの布と雑貨でございますが……」
「ならば、すぐに済む」
ヴォルフラムの声は落ち着いていた。
しかし、背後にも騎士が回り込み、すでに逃げ道はない。
男は外套の内側に手を滑らせた。
「両手を見せろ」
その声と同時に、男が短剣を抜きかけた。
しかし腕を捉えられ、刃を振るう暇もなく地面へ押さえ込まれた。御者もまた、馬を動かす暇もなく拘束される。
荷台の木箱から見つかったのは、布に隠された数本の短剣と、用途のわからない小瓶の数々だった。
「封は開けるな。押収して調べさせろ」
ヴォルフラムは短く命じた。
王宮本殿で確保した使用人風の男に続き、荷馬車の二人も捕縛された。
「陛下に報告する」
騎士団長は、白い王宮の尖塔を見上げた。
◇ ◇ ◇
「……つまり、まだアレクは捕まっていないのね?」
ジュリエットの声が、王太子宮の南庭園に響いた。
王妃の希望により、国王夫妻はとうとう王太子宮へやってきていた。目の前には紅茶と焼き菓子が並び、近くにはベリアルが用意した花飾りが揺れている。
王太子の捕縛作戦は、いつの間にか茶会へと姿を変えていた。
「……なぜ、こうなったのでしょうか」
レオンハルトは疲れ切った声で呟いた。
「レオン、難しい顔をしないで。このタルト、とても美味しいのよ♡」
「王妃殿下。まだ任務中の騎士がおります」
「じゃあ、その子たちの分も残しておきましょうね」
「そういう話では……」
言い終えるより先に、近衛騎士が現れた。
差し出された報告書に、レオンハルトの表情が変わる。
「陛下。宮廷行事室に入り込んだ男を確保いたしました。城外の荷馬車からは短剣と不審な薬瓶も押収しております」
マクシミリアンは報告書を受け取り、目を通した。
「薬瓶は中身を調べろ。男たちの関係も洗うよう、ヴォルフラムに伝えてくれ」
「かしこまりました」
短いやり取りのあいだ、国王の紫の瞳には笑みがなかった。
だが、報告書を返した途端、その表情は柔らかくなる。
「ジュリ、紅茶が冷めるよ」
「まあ、いけないわ」
ジュリエットは何事もなかったように杯を持ち上げた。
レオンハルトはそっと息を吐いた。
国王としての判断に不足はない。ただ、切り替えが早すぎる。
「それにしても、アレクったら、どこにいるのかしら」
「お母様。お兄様は、お菓子で釣られるような方ではありませんわ」
ヴィクトリアはきっぱりと言った。
「そうかしら? あの子が好きなものを用意したのだけれど」
「そういう問題ではありません!」
そのときだった。
「母上、我が宮のおもてなしにはご満足いただけましたか?」
庭園の入り口から、涼やかな声がした。
銀髪の少年が、黒衣の従者を伴って立っている。
「まあ、アレク!」
「お兄様っ!」
ヴィクトリアが勢いよく立ち上がった。
レオンハルトも、ようやく終わるのかと肩から力を抜く。
「ぼくを捜していたそうですね、父上」
「今さらよく言うね、アレク」
マクシミリアンは息子を見た。
「ずいぶん楽しそうだったようだが」
「騎士の皆様にも、よい運動になったかと」
その答えに、レオンハルトがこめかみを押さえた。
ベリアルは、何も言わず微笑んでいる。
アレクシスは父親の手元に置かれた報告書へ、ほんの一瞬だけ視線を向けた。
書面の内容を尋ねることも、何か言うこともなかった。
「……それで、ヴィー。ぼくに何の用?」
穏やかな問いかけだった。
けれど、ヴィクトリアはその声に、思わず背筋を伸ばした。
◇ ◇ ◇
「ベラに、会わせてくださいませ」
ヴィクトリアは兄をまっすぐ見上げた。
「その話なら、前にもしたよね」
「何度もお願いしましたわ。でも、お兄様は聞いてくださらないでしょう!」
「理由も話したはずだよ」
アレクシスの声音は変わらない。
「あの日、君がベラを泣かせたからだ」
ヴィクトリアの肩が小さく震えた。
石畳に落ちた人形。
欠けてしまったエメラルド。
そして、声を上げて泣くベラ。
アレクシスは、その光景を忘れていなかった。
大切そうに人形を抱いていた小さな手も、涙に濡れた瞳も。
「……わかっておりますわ」
「本当に?」
「わかっています!」
ヴィクトリアは思わず声を上げ、すぐに唇を噛んだ。
スカートの裾を握りしめる。
「わたくしが悪かったんです。お人形を壊したことも、ベラを泣かせたことも」
兄は黙っている。
その沈黙が怖かった。
けれど、ここで引き下がるために、騎士団まで巻き込んだわけではない。
「あのとき、ベラ、とても悲しそうだったから……。だから、ちゃんと謝りたいんですの。もう一度、笑ってほしいんです」
アレクシスは、しばらく妹を見つめた。
反省していることはわかる。
繰り返し謝りたいと訴えるのも、気まぐれではないのだろう。
それでも、ベラをもう一度泣かせるかもしれない相手を、わざわざ彼女のもとへ連れていきたいとは思えなかった。
「……謝りたいのは、君の都合だよ」
「そんな……!」
「ベラが、君に会いたがっているとは限らないだろう?」
ヴィクトリアは息を呑んだ。
確かに、そうかもしれない。
ベラは自分を嫌いになっているかもしれない。
謝ったところで、許してもらえないかもしれない。
だけど。
「……それを決めるのは、お兄様ではありませんわ」
アレクシスの眉が、わずかに動いた。
「ベラが会いたくないと言うのなら、わたくしは諦めます。でも、お兄様はベラに聞いてもくださらないではありませんか!」
兄妹の視線がぶつかった。
庭園が、ふっと静かになる。
レオンハルトは口を挟みかけて、やめた。
これは、宰相が代わりに答える話ではない。
ジュリエットは、そんな二人を見つめていた。
娘は、間違えたことから目を逸らさずにいようとしている。
息子は、大事なものを守ろうとするあまり、その手を緩められない。
ちらりと夫を見る。
マクシミリアンは、相変わらず彼女の腰を抱いていた。
……本当に、よく似ていること。
「ねえ、アレク」
ジュリエットが優しく声をかけた。
「あなたがベラを大切に思っているのは、お母様も知っているわ」
「でしたら、ぼくに任せていただけますか」
「あら。まだ何も言っていないのに」
ジュリエットはくすりと笑った。
「でもね。ヴィーに謝る機会があってもいいと思うの。もちろん、ベラが嫌だと言うなら無理に会わせたりしないわ」
そこで一度言葉を切る。
「ベラがどう思っているのか、あなたは聞いてみた?」
アレクシスは答えなかった。
聞いていない。
今はようやく、あの子が穏やかに笑っている。
わざわざ嫌なことを思い出させる必要などない。そう考えて、最初から話題にさえしていなかった。
「……お兄様」
ヴィクトリアが、小さな声で呼んだ。
「わたくし、ベラに許してもらえなくてもかまいません。でも、謝らないままでいるのは嫌なんです」
その瞳は、不安に揺れていた。
それでも、兄から目を逸らさない。
アレクシスは、長い息を吐いた。
できることなら、ベラの周りから悲しいものをすべて遠ざけてしまいたい。
彼女が笑っていられるなら、それでいい。
「……考えておくよ」
ヴィクトリアの顔が、ぱっと明るくなる。
「本当ですの!?」
「考えると言っただけだよ。会わせるとは言っていない」
「お兄様ったら!」
「嫌なら、今の話もなしにするけど?」
「……っ! わかりましたわ!」
ヴィクトリアは悔しそうに唇を尖らせた。
ジュリエットは、そんな兄妹を眺めながら満足げに頷いた。
「ふふ。よかったわね、ヴィー」
「まだ何も決まっておりませんわ、お母様!」
「まあ、そうだったかしら?」
楽しそうに笑う母親を見て、アレクシスは小さく息を吐いた。
まったく。どうしてこうも、面倒なことばかり持ち込んでくるのだろう。
隣に控えていたベリアルが、何も言わずに主人へ視線を向ける。
その口元には、いつもの控えめな笑みが浮かんでいた。
アレクシスはそれを横目に捉え、わずかに眉を寄せた。
……君まで楽しんでいるのか。




