第七話 王女殿下の逆襲
「……どうして、こんなことになっているのかしら?」
ヴィクトリアは、目の前の光景を呆然と見つめていた。
ずらりと整列した王宮騎士団。
その先頭には、なぜか父である国王マクシミリアンまでいる。
……お父様? どうして?
「ふふっ! 楽しみね、ヴィー♡」
隣では、母ジュリエットが満面の笑みを浮かべていた。
「……お母様。これは、いったい……?」
「まあ! 決まっているじゃない!」
ジュリエットは、きらきらと目を輝かせた。
「アレクを捕まえるのよ♡」
「…………はい?」
……捕まえる?
お兄様を?
なぜ!?
「お、お母様! わたくし、そんなこと一言も……!」
「大丈夫よ、ヴィー! お母様に任せてちょうだい!」
「いえ、そうではなく……!」
「ジュリ、準備は整ったよ」
そこへ、マクシミリアンがにこやかに歩み寄ってきた。
「まあ、マクシ! 今日も素敵ね♡」
「君が楽しそうで何よりだ」
……お父様まで!?
ヴィクトリアは、助けを求めるように周囲を見回した。
少し離れた場所に、宰相レオンハルトの姿が見える。
……レオンハルト公爵!
あの方なら、きっと!
期待を込めて視線を向けると、レオンハルトは静かに首を横に振った。
……え?
ヴィクトリアは、もう一度目の前の光景を見渡した。
騎士団。
国王。
満面の笑みを浮かべる王妃。
そして、すべてを諦めた宰相。
……わたくしは、ただ。
お兄様をぎゃふんと言わせて、ベラに謝りたかっただけなのに。
どうして王宮騎士団が、お兄様を捕まえることになっているのよぉぉぉ!?
◇ ◇ ◇
事の始まりは、数日前にさかのぼる。
「お母様! お兄様をぎゃふんと言わせる方法を教えてくださいませ!」
王宮の一室に、ヴィクトリアの声が響き渡った。
突然のお願いに、ジュリエットはぱちぱちと瞬きをした。
「あら♡ どうしたの、ヴィー? ご機嫌斜めね」
「当然ですわ!」
ヴィクトリアは、ぎゅっと拳を握りしめた。
「お兄様ったら、いつもいつも意地悪ばかり! わたくしのことを子ども扱いして、ベラのことまで独り占めして!」
「あらあら」
ジュリエットは頬に手を添え、楽しそうに娘を見つめた。
「でも、ヴィー。お茶会ではベラのお人形を壊してしまったのでしょう?」
「……っ!」
ヴィクトリアの勢いが、ぴたりと止まった。
「……それは、わかっています」
小さな声で答える。
「わたくしが悪かったんです。ベラのお人形を壊して、泣かせてしまって……」
あのときのベラの泣き顔を思い出すと、今でも胸がきゅっと苦しくなる。
「ちゃんと謝りたいんです。ベラに、もう一度笑ってほしいんです」
「そう」
ジュリエットは穏やかに微笑んだ。
「だったら、謝りに行けばいいじゃない」
「それができれば苦労しませんわ!」
ヴィクトリアは、再び顔を上げた。
「お兄様が、ベラに近づかせてくださらないんですもの!」
「まあ、アレクったら」
ジュリエットは、くすりと笑った。
あの息子が、大好きなベラを手放したがらないことくらい、よく知っている。
けれど、そんな息子を相手に、どうにかして一泡吹かせたいという娘の必死な様子が、なんとも可愛らしい。
それに。
あのアレクを、ぎゃふんと言わせる?
なんて楽しそうなのかしら!
ジュリエットの赤い瞳が、きらきらと輝き始めた。
「ねえ、ヴィー」
「はい、お母様!」
「お母様も、仲間に入れてくれる?」
「……え?」
ヴィクトリアは目を丸くした。
「仲間、ですか?」
「ええ!」
ジュリエットは、まるで素敵な遊びを思いついた少女のように、にっこりと笑った。
「だって、アレクをびっくりさせるなんて、きっと楽しいもの!」
「お母様……!」
ヴィクトリアの顔が、ぱあっと明るくなった。
「もちろんですわ!」
「ふふっ。それじゃあ、とびきり素敵な作戦を考えてあげる♡」
こうして、王宮の一室で。
王妃と王女による、王太子へのささやかな反撃計画が始まった。
「楽しみにしていてちょうだいね、ヴィー♡」
「はい、お母様!」
母の頼もしい言葉に、ヴィクトリアは満面の笑みで頷いた。
きっと、お兄様を驚かせる素敵な作戦を考えてくださるに違いない。
そう信じて疑わない娘を見送ると、ジュリエットはさっそく立ち上がった。
「さて、と♡」
まるで足に羽でも生えたかのような、軽やかな足取りだった。
向かう先は、国王の執務室である。
◇ ◇ ◇
「マクシ!」
勢いよく扉が開いた。
執務机に向かっていたマクシミリアンが顔を上げる。
「ジュリ! どうしたんだい?」
愛する妻の突然の訪問に、国王は嬉しそうに微笑んだ。
その傍らで書類を確認していた宰相レオンハルトは、嫌な予感を覚えた。
ジュリエットがこのように目を輝かせて現れるときは、決まって何かが起こる。
「お願いがあるの♡」
ジュリエットは夫の傍らへ歩み寄ると、その頬にそっと手を添えた。
マクシミリアンは嬉しそうに目を細め、彼女の腰へ腕を回す。
「何だい? ジュリ」
「騎士団を貸してちょうだい♡」
「もちろんだよ」
「陛下!?」
レオンハルトの手から、書類が一枚滑り落ちた。
「まだ何のために必要なのか、お聞きになっておりませんっ!」
「ジュリのお願いだからね」
「理由になっておりません!」
「まあ、レオン。そんなに心配しなくても大丈夫よ♡」
ジュリエットは、楽しそうに微笑んだ。
「ちょっとアレクを捕まえていただきたいだけなの」
「……王太子殿下を、ですか?」
「ええ♡」
「……それで、なぜ騎士団が必要になるのでしょうか」
「だって、普通に追いかけてもアレクは捕まらないでしょう?」
それは、否定できなかった。
七歳にして妙に落ち着き払った王太子は、大人の思惑を見透かしたように振る舞うことがある。
「ヴィーがね、ベラに謝りたいんですって。でも、アレクったら、あの子をベラに近づけようとしないのよ」
「そうなんだね」
「だから、ちょっと捕まえてもらおうと思って♡」
「なるほど。いいじゃないか」
マクシミリアンは、愛おしそうに妻を見つめた。
「ジュリがそんなに楽しみにしているなら、盛大にやろうか」
「まあ、マクシ! 大好きよ♡」
「僕も愛しているよ、ジュリ」
「……陛下。お待ちください」
レオンハルトが、静かに口を挟む。
「王宮騎士団は、王太子殿下を追いかけ回すために存在するのではありません」
「まあ、レオン。もちろんわかっているわ」
ジュリエットは、あっさりと答えた。
そして、少しだけ声を落とす。
「でも、ちょうどいいと思わない?」
その一言に、執務室の空気がわずかに変わった。
マクシミリアンは一瞬だけ目を細め、それから口元に笑みを浮かべた。
「……なるほど。そういうことか」
「ふふっ。どうかしら?」
「さすがだね、ジュリ。僕が心から愛した女性は、いつだって僕の想像を超えていく。君は本当に、僕の最高の誇りだよ」
「ふふっ、そんなことを言って……今さら気づいたの? 私はずっと、あなたの隣にいるために最高の女でいるのよ♡」
マクシミリアンは嬉しそうに笑い、妻の手を取った。
「もちろん知っているさ。だからこそ、何度でも惚れ直すんだよ」
「まあ、マクシったら♡」
「……陛下、王妃殿下。お話を進めてもよろしいでしょうか」
レオンハルトの声に、二人は揃って振り返った。
「ああ、そうだったね。レオン、君はどう思う?」
問いかけられたレオンハルトは、深く息を吐いた。
「……警備の配置と、王太子殿下の安全を確保できるのであれば、策としては成立いたします」
「まあ! レオンも賛成ね!」
「賛成とは申し上げておりません」
「では、決まりだね」
「陛下!」
マクシミリアンは、妻に向かって微笑んだ。
「ジュリ。ヴォルフラムを呼ぼう。詳しい段取りを詰めなくてはね」
「ありがとう、マクシ♡」
ジュリエットは嬉しそうに夫の頬へ口づけた。
「君のためなら、いつでも」
マクシミリアンは満足そうに微笑み、その細い腰を抱き寄せる。
いつの間にか、ジュリエットは国王の膝の上に収まっていた。
「……せめて、騎士団長には正確な指示をお願いいたします」
レオンハルトは、もはや二人の姿を見ようともしなかった。
それが、宰相にできる精一杯の抵抗だった。
◇ ◇ ◇
ほどなくして、執務室に一人の男が姿を現した。
王国騎士団長、ヴォルフラム・グランフェルト。
グランフェルト侯爵家の当主であり、代々王家に仕える騎士を輩出してきた名門の出身である。
鍛え抜かれた体躯に、隙のない立ち姿。
その厳格な佇まいは、まさに騎士団長という言葉を体現していた。
「お召しにより参上いたしました、陛下」
ヴォルフラムは片膝をつき、深く頭を垂れた。
マクシミリアンは穏やかに頷く。
「顔を上げてくれ、ヴォルフラム。君に頼みたいことがあるんだ」
「はっ。いかなるご命令も」
そう答えたヴォルフラムの視線が、国王の膝の上に収まったジュリエットへと向けられた。
王妃は、たいそう楽しそうに微笑んでいる。
その姿を認めた瞬間、ヴォルフラムは胸の内で静かに覚悟を決めた。
……どうやら、今回も一筋縄ではいかないらしい。
「ねえ、ヴォルフラム。わたしたち、アレクを捕まえることにしたの♡」
「…………」
「騎士団にも手伝ってほしいのよ!」
ヴォルフラムは、静かにマクシミリアンへ視線を向けた。
「……陛下」
「うん。ジュリと相談して決めたんだ」
その返答に、ヴォルフラムはわずかに目を伏せた。
「……恐れながら、王太子殿下を捕縛する理由をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「ヴィーのお願いなのよ♡」
「……左様でございますか」
隣でレオンハルトが、そっと目を閉じた。
「……では、具体的な作戦内容をお聞かせください」
ヴォルフラムの声は、どこまでも冷静だった。
マクシミリアンは、ジュリエットの腰に回していた腕を緩めることなく、執務机の上に広げられた王宮の見取り図へ視線を落とした。
「実はね、ヴォルフラム。ただアレクを追いかけてもらうだけじゃないんだ」
「……と、申されますと?」
「ふふっ。ここからが大事なのよ♡」
ジュリエットが楽しそうに身を乗り出すと、マクシミリアンはその身体を支えるように抱き直した。
「ジュリ、落ちないようにね」
「大丈夫よ、マクシ♡」
「……陛下」
レオンハルトが静かに口を挟んだ。
「作戦のご説明を」
「ああ、そうだったね」
マクシミリアンは、ようやく見取り図の一点を指し示した。
「まず、騎士団長である君には、別の役目を任せたい」
ヴォルフラムの表情が引き締まる。
「承知いたしました」
「王太子の捜索は、副団長とその配下に任せよう。君には、信頼できる者たちを率いて動いてもらいたい」
「はっ」
「表向きは、騎士団がアレクの捜索に総力を挙げていることになる」
ヴォルフラムは王宮の見取り図へ目を落とした。
しばしの沈黙。
「……なるほど」
その声が、わずかに低くなる。
レオンハルトもまた、見取り図へ視線を向けた。
先ほどまで、王太子を追いかけ回すという話だったはずだ。
それがいつの間にか、王宮の警備配置を大きく組み替える作戦になっている。
しかも、国王の膝の上では王妃が嬉しそうに微笑んでいた。
「ふふっ。楽しみね、マクシ♡」
「そうだね、ジュリ」
マクシミリアンは妻の髪をそっと撫でた。
「……陛下」
「何かな、レオン?」
「……いえ。続けてください」
レオンハルトは、もう何も言うまいと心に決めた。
そこから先の話は、具体的な配置や連絡手順に及んだ。
ヴォルフラムは一度も話を遮らず、必要な点だけを確認していく。
やがて説明が終わると、彼は静かに頭を下げた。
「……陛下のご意向、確かに承りました。騎士団長として、責務を果たしてまいります」
「頼りにしているよ、ヴォルフラム」
「よろしくね♡」
ジュリエットがひらひらと手を振る。
ヴォルフラムは深く一礼し、執務室を後にした。
扉が閉まると、レオンハルトがぽつりと呟いた。
「……騎士団長の心中、お察しいたします」
「あら、レオン。何か言いたいことでもあるの?」
「……いえ。何でもございません」
マクシミリアンは不思議そうに首を傾げたが、すぐに妻へと視線を戻した。
「さて、ジュリ。準備が整うまで、少し時間があるね」
「そうね♡」
「せっかくだから、お茶でも飲もうか」
「それじゃあ、今日はダージリンがいいわ♡」
「もちろん。君の好きなお菓子も用意させよう」
レオンハルトは、机に積まれた書類を見つめた。
……仕事は、まだ山ほど残っている。
しかし、国王夫妻は今日も幸せそうだった。
◇ ◇ ◇
そして現在。
「さて、諸君」
マクシミリアンが穏やかに声をかけると、騎士たちが一斉に姿勢を正した。
「本日は、王太子アレクシスの身柄を確保してもらいたい」
「はっ!」
「くれぐれも怪我をさせないように。それ以外は、君たちに任せるよ」
「承知いたしました!」
その隣で、ジュリエットが嬉しそうに手を合わせた。
「まあ! 楽しみね、マクシ♡」
「そうだね、ジュリ」
マクシミリアンは愛おしそうに妻へ視線を向けた。
その横で、ヴィクトリアはまだ呆然としていた。
「……お母様。本当に始めるんですの?」
「もちろんよ、ヴィー♡」
……もう、何を申し上げても無駄なのね。
ヴィクトリアは、そっと肩を落とした。
やがて、副団長の指示を受けた騎士が一歩前へ進み出た。
「各員、聞け!」
騎士たちが一斉に向き直る。
「王太子殿下のお身体に傷ひとつつけることは許されん! だが、手加減は無用だ。必ずお連れせよ!」
「はっ!!」
「では、各員、行動を開始せよ!」
号令とともに、騎士たちが一斉に動き出した。
「……本当に、始まってしまいましたわ……」
ヴィクトリアは、遠ざかっていく騎士たちの背中を見つめた。
「ふふっ。楽しみね、ヴィー♡」
「……お母様」
「なあに?」
「……これで、お兄様はベラに会わせてくださるのかしら……?」
ジュリエットは、にっこりと微笑んだ。
「それは、捕まえてからのお楽しみね♡」
「…………」
ヴィクトリアは、深く息を吐いた。
……お兄様。
せめて、少しは大人しく捕まってくださいませ。
◇ ◇ ◇
その頃。
王太子宮では、アレクシスが窓辺の長椅子に腰掛け、本を読んでいた。
「殿下」
傍らに控えていたベリアルが、静かに声をかける。
「王妃殿下が、騎士団に殿下の捜索をお命じになりました」
アレクシスは、ページをめくる手を止めなかった。
「……母上は、ずいぶん大がかりなことを始めたね」
「大変お楽しみのご様子でございます」
「父上も、さぞご機嫌だろうね」
「はい。王妃殿下のおそばで、たいそうご満悦のご様子でした」
「そう」
アレクシスは短く答えると、ページの端に指を添えた。
そのまま次のページをめくろうとして、ふと手を止める。
窓の外へ目を向けた。
庭園の向こうには、王宮本殿の尖塔が見える。
しばらく、その方角を見つめていた。
ベリアルは、主人の横顔を静かに眺めた。
先ほどまでと変わらぬ、穏やかな表情。
けれど、次のページがめくられることはなかった。
どうやら、殿下には騎士団よりも気にかかることがおありのようだ。
ベリアルの口元に、ごく薄い笑みが浮かぶ。
アレクシスは、やがて本を閉じた。
「……母上には、少し付き合ってあげようかな」
「かしこまりました」
立ち上がったアレクシスは、ベリアルへ視線を向けた。
その紫水晶の瞳には、いつもの穏やかな光が戻っている。
「簡単に捕まってあげるとは言っていないけどね」
アレクシスは、口元に涼しげな笑みを浮かべた。




