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妖精の王子さま

春も終わりに近づき、王太子宮の庭園は鮮やかな新緑に包まれていた。


柔らかな陽射しが差し込む応接室では、アレクシスが一人の少女を待っていた。


普段ならば、この時間は書類に目を通している頃だ。


しかし今日は、朝のうちに予定をすべて済ませてある。


理由は、至って単純だった。


「アレク様ーっ!」


廊下から弾むような声が聞こえた瞬間、アレクシスの表情がふわりと緩んだ。


扉が開くと、シャンパンピンクの髪を揺らしながら、小さな少女が駆け込んでくる。


「ベラ」


「アレク様!」


イザベラは満面の笑みでアレクシスのもとへ駆け寄った。


アレクシスはその小さな身体を優しく抱きとめると、そっと背中へ腕を回した。


「ふふ。そんなに会いたかった?」


「うん! とっても!」


「ぼくもだよ、ベラ」


アレクシスは愛おしそうにイザベラの髪を撫でた。


「会いたかったよ」


「えへへ! わたしも!」


その無邪気な笑顔に、アレクシスの目元がさらに甘く緩む。


やがて名残惜しそうに身体を離すと、イザベラの小さな手を取り、その甲にそっと唇を落とした。


「ようこそ、ぼくのお姫様」


「えへへ! アレク様は、わたしの妖精の王子様だもん!」


「そうだね。ベラだけの王子様だよ」


アレクシスは幸せそうに微笑んだ。


その光景を少し離れた場所から眺めていたベリアルは、静かに目を細めた。


つい先ほどまで、七歳とは思えぬ落ち着きで書類を処理しておられたというのに。


イザベラ様がお見えになった途端、この変わりよう。


……ああ、実に眼福。


できることなら、この光景を額縁に収めて飾っておきたいほどだ。




「アレク様!」


「ん? どうしたの、ベラ?」


「あのね、きょうはアレク様に読んでほしいご本をもってきたの!」


「ぼくに?」


「うん!」


イザベラは嬉しそうに頷くと、大切そうに抱えていた一冊の絵本を差し出した。


「これ!」


その表紙を見た瞬間、アレクシスの指先がわずかに止まった。


銀色の髪に、紫水晶のような瞳。


美しい王子が、一人の女性へ手を差し伸べる姿が描かれている。


『妖精王のおはなし』


ヴァレンティア王国では、古くから子どもたちに親しまれているおとぎ話だった。


「このご本ね、わたし、だーいすきなの!」


「そうなんだ」


「うん! だってね、王子様がとってもかっこいいの!」


イザベラは絵本の表紙を指さした。


「ほら! アレク様にそっくりでしょ?」


「ぼくに?」


「うん! かみのけも、おめめもおんなじ!」


アレクシスは表紙に描かれた王子を見つめた。


確かに、銀色の髪も紫の瞳も、自分と同じだった。


「ふふ。本当だね」


「でしょ!」


イザベラは得意げに胸を張った。


「だからね、アレク様に読んでほしかったの!」


「もちろん。じゃあ、一緒に読もうか」


「やったぁ!」


二人は並んでソファに腰を下ろした。


アレクシスが絵本を開くと、イザベラは嬉しそうに身を寄せる。


そこに描かれていたのは、遠い昔の妖精の王子と、美しい女神の物語だった。


銀色の髪と紫の瞳を持つ王子は、たった一人の女性を愛し、どんな困難からも守り抜く。


そして、二人は永遠の愛を誓い、幸せに暮らしたという。


アレクシスも、その物語はよく知っていた。


王国中で語り継がれてきた、妖精の王子と女神の恋物語。


「……どんなことがあっても、王子様は女神様を守り抜きました」


最後の一文を読み終え、アレクシスはそっと絵本を閉じた。


どんなことがあっても。


守り抜く。


その言葉が、胸の奥に静かに沈んでいく。


「アレク様?」


小さな声に、アレクシスは顔を上げた。


イザベラが、不思議そうにこちらを見つめている。


「……どうしたの、ベラ?」


「アレク様、このおはなし、すき?」


アレクシスは一瞬だけ目を伏せ、それから優しく微笑んだ。


「そうだね。ベラが大好きなお話だから、ぼくも好きだよ」


「えへへ! わたしもだーいすき!」


イザベラは嬉しそうに笑うと、閉じられた絵本の表紙を指さした。


「ねえ、アレク様」


「なあに?」


「アレク様も、わたしのことずーっとまもってくれる?」


アレクシスは、イザベラへ視線を向けた。


エメラルドグリーンの瞳には、何の疑いもない信頼が宿っている。


「……もちろんだよ」


アレクシスはその小さな手をそっと包み込んだ。


「ぼくが、ずっと守るからね」


「えへへ!」


イザベラは幸せそうに笑った。


「じゃあ、わたしもアレク様をまもってあげる!」


その言葉に、アレクシスは目を瞬かせた。


「……ベラが、ぼくを?」


「うん!」


イザベラは胸を張った。


「だって、アレク様だいすきだもん!」


あまりにもまっすぐな言葉だった。


アレクシスはしばらく少女を見つめていたが、やがて堪えきれないように笑みをこぼした。


「……ありがとう、ベラ」


その声は、ひどく優しかった。


「でもね、ベラ」


「なあに?」


「ぼくは王子様だから、ベラを守るのはぼくのお仕事だよ」


「じゃあ、わたしは?」


「ベラは、ぼくのそばで笑っていてくれればいいんだ」


イザベラは少し考えるように首を傾げた。


「んー……でも、アレク様がこまったら、わたしもたすける!」


「ふふ。そう?」


「うん! ぜったい!」


アレクシスは小さく笑った。


「じゃあ、そのときはお願いしようかな」


「まかせて!」


イザベラは得意げに胸を張った。


その姿があまりにも愛らしくて、アレクシスはもう一度、その小さな手を握り直した。


少し離れた場所に控えていたベリアルは、二人の様子を静かに眺めていた。


先ほど、絵本の最後の一節を読み上げたとき。


アレクシスの表情が、ほんの一瞬だけ翳ったことに気づいていた。


しかし、今は違う。


イザベラの言葉を聞いた王太子は、年相応の少年のように、ただ嬉しそうに笑っている。


やはり、イザベラ様は実に興味深い。


あれほど聡明で、何事にも動じない王太子殿下を、たった一言でこんなにも幸せそうなお顔にしてしまうのだから。


……まったく、見飽きることがない。


「あっ! そうだ!」


不意に、イザベラが顔を上げた。


「アレク様!」


「ん? 今度はどうしたの?」


「お人形、もうなおった?」


アレクシスの笑みが、わずかに止まった。


「アレク様とわたしのお人形!」


イザベラは嬉しそうに両手を広げた。


「もうなおったかなぁって!」


アレクシスは、小さな少女をじっと見つめた。


あの日、涙をこぼしていたイザベラ。


その姿を思い出すたび、胸の奥が冷たくなる。


人形の修理は、とっくに終わっていた。


けれど、あの日のことを思い出させたくなくて、まだ渡せずにいたのだ。


「……うん。ちゃんと直っているよ」


「ほんと!?」


イザベラの顔が、ぱっと輝いた。


その笑顔を見つめながら、アレクシスは静かに尋ねた。


「……ベラ。また、もらってくれる?」


「うん! もちろん!」


「だって、アレク様がくれたお人形だもん!」


元気いっぱいに頷いたベラを見てアレクシスは、思わず目を瞬かせた。


そこには、彼が恐れていた悲しみの影などどこにもなかった。


大好きな人からもらった人形を、嬉しそうに抱きしめる五歳の女の子がいるだけだった。


「あっ! そうだ!」


イザベラが何かを思い出したように、ぱっと顔を上げて

「アレク様! ヴィーお姉様のとこ、いこ!」


「……ヴィーの?」


アレクシスの表情がわずかに強張った。


「うん!ヴィーお姉様もね、お人形みせてくれるって言ってた!」


イザベラは嬉しそうに笑った。


「だから、いっしょにあそぼ!」


アレクシスは、すぐには答えなかった。


ヴィクトリア。


あの日、ベラを泣かせた妹。


その光景を、今も忘れることはできない。


「……ベラ」


「なあに?」


「ヴィーに、会いたいの?」


「うん!あいたい!」


何の迷いもない返事だった。


アレクシスは目の前の少女を見つめ、やがて優しく微笑んだ。


「そう。じゃあ、一緒に行こうか」


「ほんと!?」


「もちろん。ベラが行きたいなら、どこへでも連れていくよ」


「やったぁ!アレク様だいすき!」


嬉しそうに抱きついてくるイザベラを、アレクシスは優しく抱きとめた。


「ふふ。ぼくも大好きだよ、ベラ」


その笑顔は、どこまでも甘く、幸せそうだった。


ただし。


ヴィクトリアに対する怒りが消えたわけでは、もちろんない。


それとこれとは、まったく別の話である。

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