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王太子殿下、婚約いたします

 アルヴェイン公爵邸の応接室には、穏やかな午後の日差しが差し込んでいた。

「レオン、今日はずいぶん歓迎してくれるんだね」

「正式にご連絡をいただいておりましたので」

「前回も歓迎してくれたじゃないか」

「ええ。夜分に突然お越しになられた国王陛下を、精いっぱいお迎えいたしましたとも」

 にこやかに微笑む国王マクシミリアンに、宰相レオンハルトも負けじと微笑み返す。

 もっとも、後者の笑顔には、少々力が入っているようだった。

 ベリアルは、二人のやり取りを静かに眺めていた。

 王国の頂点に立つ国王と、その右腕を務める宰相。

 互いの能力を認め合う幼なじみでありながら、どうにも相性がよいのか悪いのか判断に困る二人である。

「もう、二人とも。せっかくカメリアに会いに来たのに、いつまでお話ししているの?」

 ジュリエットが呆れたように言った。

「ジュリ。今日は王太子の婚約について話し合うために来たんだよ」

「あら、もちろん覚えているわ。でも、まずはベラにご挨拶しなくちゃ」

 言うが早いか、ジュリエットは親友のもとへ歩み寄った。

「カメリア! ベラ、見せて!」

「ふふっ。いらっしゃい、ジュリ」

 カメリアは、腕に抱いたイザベラをそっと見せた。

 淡い桃色の髪に、澄んだエメラルド色の瞳。

 生まれてまだ間もない公爵令嬢は、母親の腕の中で機嫌よく手足を動かしている。

「まあ、可愛い! 前より少し大きくなったんじゃない?」

「ええ。最近はよく笑ってくれるのよ」

「本当? ああ、もう、なんて可愛いのかしら!」

「ふふっ。今度はヴィーも連れていらしてね」

「ええ、そうするわ!」

「……母上」

 そのとき、小さな声がした。

 アレクシスである。

 王太子は、母親のドレスの裾を軽く引いた。

「ぼくも、ベラにあいさつしたい」

「あら、ごめんなさい。そうよね」

 ジュリエットが笑って道を譲ると、アレクシスはすぐにカメリアの前へ進んだ。

「こんにちは、カメリア」

「こんにちは、アレクシス殿下」

「ベラ、起きてる?」

「ええ。今日はご機嫌なの」

 カメリアが少し身をかがめると、アレクシスは嬉しそうに顔を近づけた。

「ベラ、ぼくだよ」

 イザベラが「あぅ」と声を上げる。

 小さな手に指を差し出せば、イザベラはその指をきゅっと握った。

 アレクシスは、まるで宝物を見つけたかのように微笑んだ。

「……かわいい」

 その表情を見たマクシミリアンが、満足そうに頷く。

「やはり私の息子だね」

「どのあたりがでしょうか、陛下」

 眉間に深いしわを寄せたレオンの問いに、国王は当然のように答えた。

「大切な女性を見る目だよ」

「……まだ生後数か月の赤子ですが」

「それが何か?」

 レオンはうなだれながら口を閉じた。

 ベリアルは、危うく笑いそうになった。

 なるほど。父子の共通点は、容姿だけではないらしい。

 もっとも、国王陛下の場合、その視線の先には常に王妃殿下がいるのだが。

     ◇

「さて、そろそろ本題に入ろうか」

 マクシミリアンが口を開いた。

 応接室の中央では、レオンが姿勢を正している。

 その向かいには国王夫妻。

 カメリアはイザベラを抱いたまま、夫の隣に腰掛けていた。

 そしてアレクシスは、カメリアのすぐそばに用意された椅子に座っている。

 当然ながら、本人の希望である。

 ベリアルはその背後に控えていた。

「王太子妃候補については、先日申し上げたとおりです」

 レオンが切り出した。

「殿下のお気持ちは理解しております。しかし、正式な婚約となれば話は別です」

「わかっているよ」

「娘はまだ、自分の意思を示せません」

「それも承知している」

「でしたら、なぜそこまで急がれるのです?」

 マクシミリアンは穏やかに答えた。

「ほかの候補を立てるつもりがない以上、いつまでも曖昧にはしておけないからね」

「候補の選定を終えることと、婚約を成立させることは別問題でしょう」

「もちろん。だから今日は、その条件を話し合いに来たんだよ」

 レオンは一瞬、言葉を詰まらせた。

 言っていることは正しい。

 悔しいことに、実に正しい。

 ベリアルは、その微妙な表情の変化を興味深く眺めていた。

 この国の宰相は、感情だけで国王に反論する人物ではない。

 だからこそ、理屈が通っているときほど厄介なのだろう。

「レオン、そんなに心配しなくてもいいじゃない」

 ジュリエットが口を挟んだ。

「私たちだって、ベラが嫌がる結婚をさせたいわけじゃないわ」

「王妃殿下。そのお気持ちはありがたいのですが……」

「でも?」

「婚約した後に娘が拒否した場合、その意思が本当に尊重されるのかという問題がございます」

「だったら、婚約をやめればいいでしょう?」

「……王太子殿下との婚約を、そう簡単に解消できるとお思いですか?」

「だから、簡単にできるようにしておけばいいじゃない」

 ジュリエットはさらりと言った。

 レオンが目を瞬かせる。

「……王妃殿下」

「なあに?」

「もう少し、王太子殿下との婚約が持つ政治的な意味を……」

「わかっているわよ」

 ジュリエットは笑った。

「王家との婚約を公爵家から断れば、余計な噂も立つし、レオンの立場にも影響するかもしれない。そういうことでしょう?」

「……ええ」

「なら、そんなことにならないようにすればいいのよ」

 簡単に言ってくれる。

 しかし、王妃の発言に間違いはない。

 ベリアルは、わずかに目を細めた。

 自由奔放な王妃殿下は、政治的な問題を理解したうえで、実にあっさりと解決の方向を示してしまった。

 もっとも、国王陛下にとっては、妻の聡明さなど今さら驚くことでもないのだろう。

 その横顔は、相変わらず満足げだった。

「ジュリの言うとおりだね」

 案の定、マクシミリアンが頷いた。

「……陛下」

「何かな?」

「王妃殿下のお考えに賛成なさるのは結構ですが、具体的な条件を……」

「もちろん、これから決めるよ」

 レオンは静かに目を閉じ、懐へ手を入れた。

 指先が、使い慣れた小さな薬入れに触れる。

「ふふっ。レオンったら、そんなに難しく考えなくてもいいのよ」

 妻の柔らかな声に、レオンの手が止まった。

「カメリア?」

「私はね、この婚約のお話、お受けしてもいいと思っているの」

「……本気かい?」

「ええ、もちろん」

 カメリアはにこにこと微笑んでいる。

「だって、アレクシス殿下はベラをとても大切にしてくださるでしょう?」

 アレクシスはカメリアを見上げた。

「カメリアとも、やくそくしたよ。ベラを大事にするって」

「ふふっ。そうだったわね」

 カメリアは嬉しそうに微笑んだ。

「……カメリア?」

 レオンはゆっくりと妻を振り返った。

「いつの間に、そんな約束を……」

 思わずこめかみに手を当てるレオンに、カメリアはいつものように微笑んだ。

「ふふっ。レオン、心配しなくても大丈夫よ」

 そして、国王夫妻へ顔を向ける。

「一つだけお願いがあります。国王陛下、王妃殿下」

 そう言いながら、カメリアはそっと目を開いた。

 その呼びかけに、レオンとジュリエットはすっと姿勢を正し、先ほどまでの和やかな空気が、静かに引き締まった。

「もし将来、イザベラがこの婚約を望まないと申し出た場合は、即座に解消していただきたいのです」

 カメリアは静かに続けた。

「そして、その際は王家のご判断によって婚約を解消したことにしていただけませんか?」

 レオンが妻を見つめた。

 なるほど。

 そういうことか。

 娘が婚約を望まなくなったとしても、表向きは王家の決定として扱う。

 公爵家が王太子を拒絶したという形にはならない。

 さらに、婚約解消の理由についても王家が責任を持つことになる。

 実に、よく考えられた条件だった。

「……カメリア」

 マクシミリアンが静かに口を開いた。

「その場合、ベラ本人の希望だけで婚約を解消することになる。それでいいんだね?」

「はい」

「アレクの意思とは関係なく?」

「ええ。どちらか一人の気持ちだけで、決めてしまうことはできませんもの」

 カメリアは柔らかく微笑んだ。

「それに、国王陛下。もしもイザベラが殿下のお気持ちに応えられなかったとして、その責任をあの子に負わせるおつもりはないでしょう?」

「もちろん、そんなつもりはないよ」

「ふふっ。安心いたしました。では、そのこともお約束いただけますね?」

 マクシミリアンはしばらくカメリアを見つめていた。

 やがて、その口元に笑みが浮かぶ。

「なるほど。最初から、そこまで考えていたんだね」

「ふふっ。娘のことですもの」

 マクシミリアンは少し考えた。

 そして、隣のジュリエットに目を向けた。

「ジュリはどう思う?」

「私は賛成よ」

 ジュリエットはあっさり答えた。

「ベラが嫌だって言うなら、仕方がないじゃない。それに、アレクだって嫌がるベラをお嫁さんにしたいわけじゃないでしょう?」

 アレクシスが顔を上げた。

「ベラは、いやって言わないよ」

 その返事に、ジュリエットは小さく笑った。

「ふふっ。そうだといいわね。でも、ベラの気持ちはベラが決めることよ」

「……うん」

 アレクシスは頷き、再びイザベラの手を優しく撫でた。

「では、その条件を認めよう」

 マクシミリアンが口を開いた。

「レオン。婚約を解消する際の取り決めについては、君と文書にまとめる。それでいいかな?」

「……はい。異存ございません」

 レオンは静かに頷いた。

 娘の意思が守られるのであれば、婚約そのものを否定する必要はない。

「ただし、陛下」

「何かな?」

「王家から婚約を解消したと公表される場合、娘に落ち度があったと受け取られないよう、理由についても十分ご配慮いただきたく存じます」

「もちろんだ。公爵家の名誉を傷つけるようなことにはしないよ」

「ありがとうございます」

 ようやくレオンの肩から力が抜けた。

「ふふっ。よかったわね、レオン」

 カメリアが嬉しそうに笑う。

「……そうだな」

 レオンハルトは深く息をついた。

 王太子との婚約がまとまったというのに、不思議と敗北感はなかった。

 むしろ、最も重要なものは守れた気がしていた。

      ◇

 そろそろ帰る時間になり、カメリアの腕の中では、イザベラがうとうとと眠り始めていた。

 アレクシスはその小さな顔を見つめ、そっと手を取った。

 そして、柔らかな手のひらに唇を寄せる。

「また、あいにくるね。ベラ」

 名残惜しそうに指先を離すと、イザベラが眠たげに小さな手を動かした。

 アレクシスは満足そうに微笑んだ。

 レオンはその光景を黙って見守っていた。

 幼い王太子の、あまりにも自然な愛情表現。

 その姿は微笑ましく、そして少々複雑でもある。

「ふふっ。まるで小さな騎士様ね」

 ジュリエットが笑った。

「マクシの小さい頃も、こんな感じだったのかしら?」

「どうだろうね。私はジュリと出会ってからだから」

 そう言って、マクシミリアンは妻の頬にそっと口づけた。

「まあ、そうだったわね♡」

 ジュリエットは嬉しそうに微笑んだ。

そんな両親をよそに、アレクシスはレオンを見上げた。

「レオン」

「はい、殿下」

「また、ベラに会いに来てもいい?」

「……もちろんでございます。ただ、事前にご連絡をいただければ」

 アレクシスは満足そうに頷き、ベリアルを見上げた。

「ベリアル、あした来よう」

「かしこまりました。では、アルヴェイン公爵閣下に明日のご都合を伺いましょう」

「…………」

 レオンハルトは懐に手を入れ、使い慣れた小さな薬入れをぎゅっと握りしめた。

 そして、明日からは頭痛薬も持ち歩こうと、固く心に誓った。


 さて、宰相閣下に平穏な日々が訪れるのは、いったいいつになるのでしょうね。

 ベリアルは口元に優雅な笑みを浮かべた。



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