宰相閣下の胃痛は止まらない
「王太子の婚約者は、アルヴェイン公爵令嬢に決めたよ」
朝のさわやかな風が吹く執務室に、国王マクシミリアンの穏やかな声が響いた。
その向かいで書類を確認していた宰相、レオンハルト・アルヴェイン公爵の手が止まる。
紙をめくろうとしていた指先が、ぴたりと静止した。
「……恐れ入ります、陛下。今、何とおっしゃいましたか?」
「アレクの婚約者は、イザベラ嬢にしようと思うんだ」
「…………」
レオンハルトは、そっと書類を机に戻した。
聞き間違いではなかったらしい。
「……陛下。先日のことでしたら、あれは二歳のお子様の可愛らしい発言です。お気持ちはありがたく存じますが、正式な婚約とは別のお話でございまして」
「うん。だから正式に進めようと思ってね」
「ですから、その正式なお話をするには、まだあまりにも早いと……」
「レオン」
マクシミリアンが、静かに名を呼んだ。
「君も見ただろう? あの日のアレクを」
その声音に、レオンハルトは口を閉じた。
マクシミリアンは穏やかに微笑んでいる。
いつもと変わらない表情。
だが、レオンハルトは知っていた。
この男がこうして静かに話し始めるときは、たいてい結論が出ている。
「……何をおっしゃりたいのでしょうか」
「アレクにも、運命の相手が見つかったんだよ」
嫌な予感がした。
昨夜、幼い王太子が娘へ向けていた、あの笑顔。
そしてジュリエットの言葉。
『あなたが私を見るときと、同じお顔をしているの!』
レオンハルトの背筋に、冷たいものが走った。
「……まさか」
「私にも覚えがあるからね。間違いないと思うよ」
「…………」
「よかった。アレクにも、あの幸せが訪れたんだね」
マクシミリアンは、心から嬉しそうだった。
一方、レオンハルトはゆっくりと両手を組み、その上に額を落とした。
「……よりにもよって」
「うん?」
「よりにもよって、うちの娘ですか……」
「イザベラ嬢なら、君も安心だろう?」
レオンハルトが顔を上げた。
「どこをどう考えれば、そうなるのですか!?」
「君とカメリアの娘だよ。家柄にも問題はないし、私たちもよく知っている。これほど安心できる相手は、なかなかいないと思うけれど」
「それは王家から見た場合でしょう!」
「もちろん、アルヴェイン家から見ても悪い話ではないはずだよ」
「……陛下」
レオンハルトは深く息を吸った。
相手は国王だ。
そして、自分は宰相である。
ここは冷静に、理を尽くして説得しなければならない。
「王太子殿下の婚約は、国家の将来を左右する重要事項です。候補者の選定には、各貴族家の勢力関係、外交上の利害、将来の王太子妃教育など、考慮すべき問題が山ほどございます」
「そのとおりだね」
「でしたら、まずは慎重に検討を……」
「だから、検討したよ」
「……はい?」
マクシミリアンは机の上から一枚の書類を取り上げた。
「アルヴェイン家との婚姻なら、政治的な問題は少ない。君の家は王家への忠誠も厚く、国内外からの信頼もある。アレクの相手として、条件は申し分ないと思う」
「…………」
「王太子妃教育については、本人の成長に合わせて考えればいい。今すぐ始める必要はないからね」
レオンハルトは黙った。
反論したかった。
実に反論したかった。
しかし、目の前の国王が挙げた条件には、政治的な間違いがほとんどなかった。
だからこそ腹立たしい。
「……随分と、ご準備がよろしいようで」
「君からいつも、物事は早めに検討するよう言われているからね」
「こんなときばかり私の教えを実践しないでいただきたい!」
マクシミリアンは楽しそうに笑った。
「君のおかげだよ、レオン」
「褒められている気がまったくいたしません……!」
レオンハルトは額を押さえた。
相手はわかっている。
こちらが何を心配しているかも、何を持ち出して反論するかも。
そのうえで、すでに答えを用意しているのだ。
「……では、陛下」
レオンハルトは姿勢を正した。
「政治的な条件が整っているとしても、婚約には双方の意思が必要です」
「そうだね」
「殿下のお気持ちは承知いたしました。しかし、娘はまだ生後ひと月にも満たない赤子です 。自分で意思を示すことすらできません」
「うん」
「殿下が娘を生涯愛されるとしても、娘が同じ気持ちになる保証はないでしょう」
マクシミリアンは、すぐには答えなかった。
レオンハルトも黙って国王を見つめる。
ここだけは譲れない。
王太子妃という立場の重さを、誰よりも理解している。
そして何より、イザベラは自分とカメリアの大切な娘なのだ。
「私は、あの子自身に幸せを選んでほしいのです」
静かな声だった。
マクシミリアンは、その言葉を聞いてゆっくりと頷いた。
「当然だね」
「……陛下」
「君の言うとおりだよ。イザベラ嬢がアレクを好きになるとは限らない。王太子妃という立場を望まないかもしれない」
「そうです。ですから……」
「だから、今すぐ正式な婚約を結ぶつもりはないよ」
レオンハルトは目を瞬いた。
「……え?」
「二人が成長するまで、時間はあるからね。君とカメリアの考えも尊重したい」
「…………」
レオンハルトは、ゆっくりと息を吐いた。
ようやく話が通じた。
いや、この男は最初から理解していたのだ。
「……ありがとうございます、陛下」
「ただし」
レオンハルトの肩が、ぴくりと動いた。
「候補者の選定は、今日で終了しようと思う」
「…………はい?」
「ほかの令嬢たちは、すべて候補から外しておいてくれるかな」
「お待ちください!」
レオンハルトは、思わず身を乗り出した。
「今、正式な婚約は結ばないとおっしゃいましたよね!?」
「うん」
「では、なぜ候補者の選定を終了するのですか!?」
「ほかの令嬢を選ぶことはないからね」
「それは、まだわからないでしょう!」
「アレクがほかの女性を愛すると思うかい?」
「…………」
答えられなかった。
王家に受け継がれる、特別な性質。
生涯でただ一人の相手を見つければ、その想いがほかの誰かへ移ることはない。
レオンハルトは、その厄介さを目の前の国王によって嫌というほど思い知らされていた。
「……まさか、その性質がアレクシス殿下にも現れるとは」
「私も嬉しいよ」
「私はまったく嬉しくありません!」
マクシミリアンは苦笑する。
「君には申し訳ないと思っているよ」
「でしたら……!」
「けれど、アレクの想いを知りながら、ほかの令嬢たちに期待を持たせるわけにはいかないだろう?」
「……っ」
「それは彼女たちに対しても、不誠実なことだと思うんだ」
レオンハルトは、返す言葉を探した。
しかし、見つからない。
憎らしいほど正論だった。
マクシミリアンは、書類を机に置いた。
「だから、婚約そのものは急がなくてもいい。ただ、候補者の選定を続ける必要はないと思っている」
「…………」
「イザベラ嬢の意思を尊重することと、アレクにほかの相手を探さないことは、別の問題だからね」
レオンハルトは、長い沈黙のあと、ようやく口を開いた。
「……陛下」
「うん?」
「本当に、昔からそういうところだけは抜け目がありませんね」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
「褒めておりません」
マクシミリアンは楽しそうに笑った。
その笑顔が、また腹立たしい。
「……それで、レオン」
「まだ何かございますか」
「カメリアにも、きちんと話をしておきたいんだ」
「もちろんです。妻の意向も大切ですから」
「そうだね。近いうちに、また屋敷を訪ねようか」
「……また、ですか?」
「うん。今度は事前に約束するよ」
レオンハルトは、ほっとした。
昨日のような突然の訪問は、どうやら避けられるらしい。
「それならば、日程を調整いたします」
「ありがとう。ジュリも楽しみにしていると思うよ」
「…………」
レオンハルトが顔を上げた。
「……陛下」
「何だい?」
「まさか、王妃殿下もご一緒に?」
「もちろんだよ」
「…………」
「ジュリもカメリアと話したいだろうし、イザベラ嬢にもまた会いたがっているからね」
「……陛下。大変申し上げにくいのですが」
「うん?」
「今回ばかりは、王妃殿下のご同席をご遠慮いただくわけにはまいりませんか」
その瞬間。
マクシミリアンの笑顔が、すっと消えた。
「それはできないよ、レオン」
静かな声だった。
先ほどまでの穏やかな国王とは、明らかに空気が違う。
レオンハルトは、一瞬だけ息を止めた。
「……左様でございますか」
「ジュリは、私の妻だからね」
「……承知いたしました」
マクシミリアンは、再び柔らかく微笑んだ。
「それに、君たちと親戚になれたら、ジュリも喜ぶと思うんだ」
「…………」
レオンハルトは天井を仰いだ。
政治的な問題。
娘の意思。
両家の同意。
そのすべてについて、この国王とは話し合うことができる。
だが、王妃ジュリエットのことになると、それまでの理屈が一瞬で通じなくなる。
高等部でジュリエットと出会って以来、幾度となく経験してきたことだった。
「……陛下」
「うん?」
「お願いですから、次は馬車三台分の贈り物をお持ちになるのだけはお控えください」
「それはジュリに聞いてみないと」
「陛下からお伝えいただくわけには……」
「ジュリが持っていきたいなら、私は止めないよ」
「…………」
レオンハルトは、静かに目を閉じた。
先日、娘が生まれたばかりだというのに。
どうして自分は、今日もこの男の相手をしているのだろう。
レオンハルトは、静かに目を閉じ懐へ手を入れ使い慣れた小さな薬入れを取り出した。
蓋を開け、胃薬を取り出す。
そのまま卓上の水を手に取り、慣れた動作で飲み下した。
「……レオン」
「何でしょう、陛下」
「また胃が痛むのかい?」
「ええ」
「無理はよくないよ。少し休んだらどうだい?」
「…………」
レオンハルトは無言で薬入れを懐へ戻した。
マクシミリアンは心配そうに眉を下げる。
「君にはいつも苦労をかけているからね」
「……ご理解いただけているのでしたら、何よりです」
「そうだ。今日は早めに帰るといい。カメリアとイザベラ嬢も待っているだろう?」
レオンハルトは、ゆっくりと国王を見た。
「……陛下」
「うん?」
「でしたら、これ以上仕事を増やさないでいただけますか」
「もちろん。ところで、次の訪問の日程なんだけど」
「…………」
レオンハルトは、再び薬入れに手を伸ばしかけた。
「……陛下」
「何だい?」
「今日は、もうお帰りになっていただけませんか」
「ここは私の執務室だよ?」
「…………」
宰相レオンハルト・アルヴェインは、とうとう机に突っ伏した。
王国随一の政治手腕を誇る男が、この日、最も強く願ったこと。
それは、ただ一つ。
どうか今日だけは、平穏に仕事をさせてほしい。
そんなささやかな願いであった。




