ぼくのおよめさん
小さな手が、アレクシスの人差し指をぎゅっと握っていた。
生まれてまだ数日しか経っていない赤ん坊の手は、驚くほど小さかった。
柔らかな頬に、小さな鼻。額には、淡いピンクシャンパン色の髪がふわふわとかかっている。
白い産着に包まれた赤ん坊は、ときおり小さな唇をもぞもぞと動かしていた。
イザベラ・アルヴェイン。
アルヴェイン公爵家に生まれたばかりの、小さな令嬢である。
その傍らで、王太子アレクシスは不思議なほど静かだった。
わずか二歳の王太子は、赤ん坊に握られた指を動かすこともなく、ただじっと、その小さな顔を見つめている。
少し離れたところに控えていたベリアルは、そんな王太子の様子を興味深く眺めていた。
今夜、この二人が顔を合わせることになったのは、王妃ジュリエットの、ほんの気まぐれとも思えるひと言がきっかけだった。
「ねえ、マクシ。私、ちょっとお出掛けしたいわ」
王宮の晩餐室。
夕食も終わりに近づいた頃、ジュリエットがふと思い出したように口を開いた。
国王マクシミリアンは食事の手を止め、愛する妻へ微笑みかけた。
「いいね、ジュリ。どこへ行きたいんだい?」
「カメリアのところよ!」
「ああ、レオンのところだね」
「そうなの! 赤ちゃんが生まれたでしょう?」
ジュリエットは嬉しそうに両手を合わせた。
「女の子ですって! きっと、とびきり可愛らしいに違いないわ!」
「でしょう!? だから私、早く会いたいの!」
「それなら、明日にでも訪ねようか」
「今からよ!」
ジュリエットは、きっぱりと言い切った。
「私、もう二週間も我慢したのよ! これ以上は待てないわ!」
マクシミリアンは、そんな妻を愛おしそうに見つめた。
「そうか。ずいぶん我慢したんだね、ジュリ」
「そうなの!」
「それなら、今から行こうか」
「まあ、マクシ! 大好き!」
マクシミリアンは、少しも迷わなかった。
そのやり取りを聞いていた侍従が、ほんの一瞬だけ動きを止める。
しかし、すぐに何事もなかったように姿勢を正した。
この王宮では、王妃の突然の思いつきによって予定が変わることなど、今さら珍しくもない。
そのとき、控えていた侍女が遠慮がちに口を開いた。
「王妃殿下、ヴィクトリア王女殿下はいかがいたしましょう?」
「あの子はもう眠っているでしょう? 今夜は乳母に任せておいてちょうだい」
「かしこまりました」
ジュリエットは王太子の後ろに控えていた青年へ視線を移した。
「ベリアル、アレクのお支度をお願いね!」
「かしこまりました、王妃殿下」
ベリアルは優雅に一礼した。
王妃が外出を決め、国王が賛成し、王太子が従う。
実に簡潔な意思決定である。
もっとも、その決定によって忙しくなるのは、王宮に仕える者たちなのだが。
「そうそう、マクシ」
「何だい、ジュリ?」
「贈り物も一緒に運んでいただける?」
「もちろんだよ。どこに用意してあるんだい?」
「西の倉庫よ!」
ジュリエットは、にっこりと微笑んだ。
「馬車三台分あるの!」
侍従が、今度こそ目に見えて硬直した。
「……三台分?」
マクシミリアンは穏やかに聞き返す。
「ええ! どれも素敵で、選びきれなかったのよ!」
「そうか。それなら、全部持っていこう」
「まあ、マクシ! 大好き!」
ジュリエットが夫の頬に口づける。
マクシミリアンの表情が、ますます柔らかくなった。
「私も愛しているよ、ジュリ」
ベリアルは、二人を眺めながら微笑んだ。
なるほど。
王妃殿下は、今夜突然思いついたようにお話しになったが、贈り物の準備だけはとうに済ませていたらしい。
そして国王陛下は、その量について何一つ疑問を抱いていないようだった。
実に興味深いご夫婦である。
一方、その頃。
アルヴェイン公爵邸には、穏やかな夜が訪れていた。
「カメリア、寒くはないかい?」
「大丈夫よ、あなた」
「疲れていない?」
「少しだけ。でも、平気よ」
「無理をしてはいけないよ。何かあれば、すぐに呼んでほしい」
レオンハルト・アルヴェインは、妻の寝台の傍らに腰を下ろしていた。
つい数日前、愛する妻は無事に娘を出産した。
母子ともに健康。
医師からそう告げられたとき、レオンハルトがどれほど安堵したことか。
妻の手を握るその表情には、今も深い愛情と、わずかな心配が入り混じっていた。
「あなたったら。もう何度も聞いたわ」
カメリアがくすくすと笑う。
「何度だって聞くさ。君はまだ産後なんだから」
「ええ、わかっているわ」
「今夜はイザベラと一緒に、ゆっくり休んで……」
コンコン。
控えめなノックが、言葉を遮った。
「失礼いたします、旦那様」
「どうした?」
レオンハルトが答えると、執事が扉を開けて入室した。
「王宮より、急ぎのお知らせが届いております」
「王宮? 何かあったのか?」
「国王陛下ご一家が、これより当家へお越しになるとのことでございます」
「…………は?」
レオンハルトは固まった。
寝台にいたカメリアも、驚いたように目を丸くする。
「まあ、マクシとジュリが?」
「……今からですか?」
「はい。王妃殿下が、お嬢様にお会いになりたいとのことでございます」
レオンハルトは、ゆっくりと天井を仰いだ。
「……王妃殿下か」
その声には、長年積み重ねてきた苦労が滲んでいた。
カメリアは、そんな夫を見てくすくすと笑った。
「ふふ。ジュリったら、そんなにイザベラに会いたかったのね」
「笑い事じゃないよ、カメリア」
レオンハルトは妻の手を取った。
「君はまだ産後なんだ。無理をさせるわけにはいかない」
「ええ。でも、少しお顔を見せるくらいなら大丈夫よ」
「しかし……」
「あなた」
カメリアが穏やかに名を呼ぶ。
レオンハルトは口を閉じた。
「私もジュリに会いたいわ。それに、娘の誕生を喜んでくれているのは嬉しいことじゃない?」
「……それは、そうだが」
「疲れたら、ちゃんと休ませてもらうから」
カメリアは安心させるように微笑んだ。
レオンハルトはしばらく妻を見つめ、やがて諦めたように肩を落とした。
「……わかった」
それから、家令へ向き直る。
「客間を整えてくれ。それから、厨房にも伝えておいてほしい」
「かしこまりました」
「カメリアの部屋には、必要以上に人を入れないように。それと、イザベラが眠っていたら、無理に起こさなくていい。王妃殿下にも、そのことは……」
「あなた」
再び、妻の声がした。
振り返ると、カメリアがにっこりと微笑んでいる。
「落ち着いて?」
「……はい」
アルヴェイン公爵は、おとなしく頷いた。
夜のアルヴェイン公爵邸に、王家の馬車が到着した。
正面玄関には、すでにレオンハルトが出迎えのために立っていた。
馬車が止まると、まずマクシミリアンが降り立つ。
続いて、差し出された手を取ってジュリエットが姿を現した。
その後ろから、小さな王太子アレクシスとベリアルも降りてくる。
「ようこそお越しくださいました、陛下。王妃殿下」
レオンハルトは恭しく頭を下げた。
「レオン! 久しぶりね!」
ジュリエットは嬉しそうに微笑む。
「……昨日もお会いしましたが」
「あら、そうだったかしら?」
「王宮でお話ししたばかりでしょう」
「ふふ、そうね!」
悪びれる様子など、まるでない。
レオンハルトは小さく息を吐いた。
「王妃殿下。こんな時間に突然いらっしゃるのは、さすがにお控えいただきたいのですが」
「あら、ちゃんと知らせたじゃない!」
「ご連絡をいただいたのは、ほんの少し前です!」
「でも、間に合ったでしょう?」
「そういう問題ではありません!」
マクシミリアンが穏やかに微笑んだ。
「まあまあ、レオン。ジュリも楽しみにしていたんだよ」
「陛下も陛下です! 少しはお止めになってください!」
「どうして?」
「カメリアはまだ産後なのです。イザベラだって生まれたばかりなんですよ」
「だから、私たちから会いに来たのよ?」
ジュリエットが当然のように答えた。
「……お心遣い、痛み入ります」
「ふふ、どういたしまして!」
レオンハルトは、一瞬だけ目を閉じた。
「……誰が礼を言ってると思ってるんだ」
その呟きは、幸いにも王妃には届かなかった。
しかし、ベリアルには聞こえていた。
青年は何も言わず、静かに微笑む。
どうやら公爵閣下は、長年にわたり国王夫妻に振り回されてきたらしい。
そのときだった。
門の向こうから、さらに馬車が入ってきた。
一台。
二台。
三台。
レオンハルトが目を細める。
「……ん?」
馬車から降りてきた従者たちは、次々と大きな箱や包みを運び始めた。
色鮮やかな包装紙に、繊細なリボン。
大小さまざまな贈り物が、玄関先へと並べられていく。
「……王妃殿下」
「なあに、レオン?」
「あちらは、何でしょうか」
「あら、イザベラへの贈り物よ!」
ジュリエットは当然のように答えた。
「可愛いものを見つけたら、ついつい買ってしまって!」
「……あれを、全部ですか?」
「ええ!」
レオンハルトは、積み上がっていく箱を見つめた。
そして、ゆっくりと深呼吸する。
「……王妃殿下」
「なあに?」
「夜分に突然お越しになったうえに、馬車三台分もの贈り物をお持ちになるとは……」
「あら、せっかくのお祝いですもの!」
「お気持ちは大変ありがたいのですが、時間というものを少しはお考えください! 荷を運ぶ者たちもおりますし、そもそもイザベラはまだ生まれたばかりなのです!」
「だって、どれも可愛かったんですもの!」
レオンハルトは額を押さえた。
「……まったく。昔から何ひとつ変わらない……」
マクシミリアンが、妻の肩をそっと抱き寄せる。
「ジュリが一生懸命選んだんだ。きっとイザベラも喜ぶよ」
「生後数日の赤ん坊にわかるわけないだろう!!」
ぴたり。
辺りが静かになった。
レオンハルトは、はっと我に返る。
「……失礼いたしました、陛下」
「構わないよ、レオン」
マクシミリアンは少しも気にした様子がなかった。
むしろ、どこか楽しそうである。
その隣で、ジュリエットがぱん、と手を合わせた。
「そうだわ! レオン、贈り物は全部イザベラのお部屋に運んでちょうだいね!」
「……王妃殿下」
「なあに?」
「まだ娘の部屋の準備も、すべて整っているわけではないのですが……」
「じゃあ、ちょうどいいじゃない!」
「何がですか!?」
ベリアルは、今度こそ口元を緩めた。
国王夫妻は実に楽しそうだ。
一方、公爵の額には、うっすらと疲労の色が浮かんでいる。
この屋敷の夜は、まだまだ長くなりそうだった。
国王一家は、ひとまず客間へ案内された。
レオンハルトはすぐに侍女を呼び、カメリアの様子を確認させる。
その間も、ジュリエットは落ち着かない様子だった。
「ねえ、レオン。カメリアにはまだ会えないの?」
「今、侍女に確認させております。少々お待ちください」
「もう待ちきれないわ!」
「……どうか、もう少しだけご辛抱を」
そのとき、控えめなノックが響いた。
「失礼いたします」
入室した侍女は、国王夫妻に深く一礼したのち、主人であるレオンハルトへ向き直った。
「旦那様、奥様のお支度が整いました。お嬢様もお目覚めでございます」
「そうか。カメリアの具合は?」
「お変わりなく、お元気でいらっしゃいます」
レオンハルトは安堵したように頷き、国王夫妻へ向き直った。
「陛下、王妃殿下。カメリアの準備が整いました。よろしければ、私がご案内いたします」
「まあ! ようやく会えるのね!」
ジュリエットが嬉しそうに立ち上がる。
マクシミリアンも微笑みながら、その手を取った。
レオンハルトは、二人の様子を見つめて小さく息を吐く。
どうか、少しだけ静かにしていただきたい。
そんな願いが、果たして届くかどうか。
カメリアの部屋には、柔らかな灯りがともされていた。
夜の冷え込みを避けるため、暖炉には小さな火が入れられている。
室内には、清潔なリネンと、ほのかな花の香りが漂っていた。
「カメリア!」
扉が開くなり、ジュリエットが親友の名を呼んだ。
「ジュリ。来てくれたのね」
カメリアは寝台に身を起こし、嬉しそうに微笑んだ。
淡い色の上質な室内着に身を包み、肩には繊細な刺繍を施したショールを羽織っている。
産後の身体に負担をかけない装いながら、髪は丁寧に整えられ、公爵夫人らしい気品が漂っていた。
少し疲れた様子はあるものの、その表情は穏やかだった。
「もちろんよ! だって、あなたの赤ちゃんが生まれたんですもの!」
ジュリエットは寝台へ歩み寄ると、カメリアの手を握った。
「本当におめでとう、カメリア!」
「ありがとう、ジュリ」
「私、ずっと楽しみにしていたのよ!」
「ふふ。知っているわ」
カメリアは親友の手を握り返した。
「でも、こんな時間に来るとは思わなかったわ」
「あら、待ちきれなかったんですもの!」
レオンハルトが深いため息をついた。
「王妃殿下。カメリアはまだ産後ですので、どうかお静かにお願いいたします」
「わかっているわ!」
その返事は、少々大きかった。
カメリアがくすくすと笑う。
「あなた、大丈夫よ」
「……君がそう言うなら」
レオンハルトは、妻を見つめて柔らかく微笑んだ。
マクシミリアンも、穏やかな声で挨拶をする。
「久しぶりだね、カメリア。体調はどうだい?」
「ありがとうございます、陛下。おかげさまで、順調に回復しております」
「それはよかった」
国王は微笑んだ。
「レオンがずいぶん心配していたからね」
「……今も心配しております」
「ふふ。あなたったら」
カメリアが夫を見上げる。
レオンハルトは、その笑顔を見た途端、すっかり表情を緩めてしまった。
ベリアルは、その変化を静かに眺めていた。
どうやら、この公爵もまた、妻の前では随分と表情が変わるらしい。
その点では、国王陛下とよく似ている。
「それで!」
ジュリエットが、待ちきれない様子で身を乗り出した。
「赤ちゃんはどこ?」
「王妃殿下、声が……」
レオンハルトが言いかけたところで、カメリアが小さく笑った。
「こちらよ、ジュリ」
寝台の傍らには、小さな揺り籠が置かれていた。
白い柔らかな布に包まれて、生まれたばかりの赤ん坊が眠っている。
ジュリエットは、そっと顔を近づけた。
「……まあ」
その声が、先ほどまでとは打って変わって小さくなる。
「なんて可愛らしいの……!」
赤ん坊は、ふわふわとした淡いピンクシャンパン色の髪をしていた。
小さな頬はほんのりと薔薇色で、長い睫毛が柔らかな影を落としている。
「カメリア、この子、本当にお人形みたいだわ!」
「ふふ。ありがとう」
「ねえ、マクシ! 見て!」
マクシミリアンも揺り籠へ歩み寄る。
「本当だ。可愛らしいね」
ジュリエットは幸せそうに微笑んだ。
「私、この子が大きくなるのが楽しみだわ!」
そのとき、赤ん坊が小さく身じろぎした。
唇をもぞもぞと動かし、やがて、ゆっくりと目を開く。
鮮やかな緑。
まだ焦点の定まらないその瞳は、澄んだエメラルドを思わせた。
「……まあ!」
ジュリエットが小さく息を呑む。
「なんて綺麗な瞳なの!」
「私に似たみたいなの」
カメリアが嬉しそうに微笑んだ。
「きっと、大きくなったら美人になるわ!」
「ジュリがそう言うなら、間違いないね」
マクシミリアンが穏やかに応じる。
レオンハルトは、誇らしげに娘を見つめていた。
「当然でしょう。カメリアの娘なのですから」
「まあ、あなたったら」
カメリアが少し照れたように笑う。
その様子を眺めながら、ベリアルもまた、揺り籠の中の赤ん坊へ視線を向けた。
なるほど。
確かに、たいへん美しい赤ん坊だった。
母親譲りの緑の瞳。
淡く柔らかな髪。
まだ幼いながらも、整った顔立ち。
これから成長していけば、どれほど美しくなることだろう。
ベリアルは楽しそうに目を細めた。
そのとき。
「……ねえ」
小さな声がした。
アレクシスだった。
それまで大人たちの少し後ろにいた王太子が、揺り籠を見つめている。
「ぼくも、みたい」
「あら!」
ジュリエットが振り返った。
「もちろんよ、アレク!」
カメリアも嬉しそうに微笑む。
「アレクシス殿下、こちらへどうぞ」
アレクシスは、小さな足で揺り籠へ近づいた。
ベリアルも、その後ろへ静かに歩み寄る。
まだ二歳の王太子には、揺り籠の中を覗き込むのもひと苦労だった。
カメリアが赤ん坊をそっと抱き上げる。
「ほら、アレクシス殿下」
彼女は身を屈め、腕の中の娘を見せた。
「イザベラよ。ベラって呼んであげてね」
「……ベラ」
アレクシスが、小さく名前を繰り返す。
赤ん坊が、わずかに顔を動かした。
緑の瞳が、王太子のほうを向く。
アレクシスは、じっとその瞳を見つめた。
しばらくの間、誰も何も言わなかった。
ベリアルは、幼い王太子の横顔を眺めていた。
先ほどまで、母親の突然の外出にも、馬車三台分の贈り物にも、特別な興味を示さなかった王太子。
しかし今は、目の前の赤ん坊から、ほとんど視線を外そうとしない。
その表情は、どこまでも穏やかだった。
「アレクシス殿下」
カメリアが優しく声をかける。
「お手々に触れてみますか?」
アレクシスは、ゆっくりと頷いた。
「……うん」
カメリアは娘を支えたまま、そっと王太子のほうへ近づける。
アレクシスが、小さな手を伸ばした。
そして、赤ん坊の手のひらに、人差し指をそっと触れさせる。
次の瞬間。
ぎゅっ。
小さな指が、アレクシスの指を包み込んだ。
「……!」
アレクシスの動きが止まった。
「まあ!」
ジュリエットが嬉しそうに声を上げる。
「見て、マクシ! ベラがアレクの指を握っているわ!」
「本当だね、ジュリ」
マクシミリアンも微笑んだ。
「ふふ。赤ちゃんは、こうして指を握るものなのよ」
カメリアがアレクシスに優しく説明する。
「でも、なんだかアレクシス殿下のことが気に入ったみたいね」
アレクシスは何も言わなかった。
ただ、小さな手を見つめている。
赤ん坊は、その指を握ったまま、時折ふにゃりと口元を動かした。
ベリアルは、王太子の表情に目を向けた。
アレクシスは微笑んでいた。
それは、先ほどまでの穏やかな笑顔とは、少し違っていた。
紫の瞳が柔らかく細められ、頬がほんのりと緩んでいる。
まるで、世界で一番大切な宝物を見つけたかのような。
そんな笑顔だった。
「……まあ」
ジュリエットが、今度は別の意味で目を丸くした。
「マクシ、見て」
「どうしたんだい、ジュリ?」
「アレクのお顔!」
ジュリエットは嬉しそうに夫の腕を掴む。
「あなたにそっくりだわ!」
「私に?」
「ええ! あなたが私を見るときと、同じお顔をしているの!」
マクシミリアンは、息子へ視線を向けた。
小さな王太子は、赤ん坊に握られた指を動かさず、ただ幸せそうに微笑んでいた。
その表情を見た瞬間、マクシミリアンの紫の瞳が、わずかに見開かれる。
そして、ゆっくりと笑みを深めた。
「……そうか」
「なあに、マクシ?」
「いや。本当に、私によく似ていると思ってね」
マクシミリアンは、もう一度息子を見つめた。
それから、愛する妻へ視線を戻す。
あの笑顔を、彼はよく知っていた。
自分もまた、たった一人の女性にしか、あのように微笑んだことがないのだから。
レオンハルトは、そのやり取りを聞いて眉をひそめた。
「……陛下?」
「何だい、レオン?」
「今のは、どういう意味でしょうか」
「何が?」
「いえ、その……」
レオンハルトは、幼い王太子を見た。
そして、その小さな指を握っている娘を見る。
さらに、もう一度王太子を見る。
「……いや、まさか」
小さく首を振った。
「気のせいだろう……」
「どうしたの、レオン?」
ジュリエットが不思議そうに首を傾げる。
「……何でもございません、王妃殿下」
その間も、アレクシスは赤ん坊から目を離さなかった。
ベラの小さな手が、もう一度、きゅっと指を握り直す。
すると、アレクシスの笑みがさらに深くなった。
「……かわいい」
ぽつりと、幼い声が落ちる。
「ふふ。ありがとうございます、アレクシス殿下」
カメリアが微笑んだ。
「ベラも、きっと喜んでいるわ」
アレクシスは顔を上げた。
その紫の瞳は、いつになく柔らかかった。
そして。
「ねえ、父上」
「何だい、アレク?」
マクシミリアンが息子を見つめる。
アレクシスは、赤ん坊の手を握ったまま、にっこりと微笑んだ。
「ベラは、ぼくのおよめさん」
しん、と。
部屋が静まり返った。
ジュリエットが瞬きをする。
カメリアは、驚いたように口元へ手を当てた。
ベリアルも、思わず王太子へ視線を向ける。
そして。
「…………は?」
低い声が響いた。
レオンハルトだった。
「……殿下。今、何とおっしゃいました?」
アレクシスは、父親の友人を見上げた。
その顔には、変わらず愛らしい笑みが浮かんでいる。
「ベラは、ぼくのおよめさん」
もう一度。
今度は、はっきりと。
「ちょ、ちょっとお待ちください!」
レオンハルトが声を上げた。
「娘は、まだ生まれたばかりなのですよ!?」
「うん」
「『うん』ではありません!」
アレクシスは、不思議そうに首を傾げる。
「だめなの?」
「だめに決まって……!」
レオンハルトは、慌てて言葉を飲み込んだ。
「……いえ、殿下。何も今からそのようなことをお決めになる必要はないでしょう」
「……どうして?」
「どうしてと申されましても……!」
レオンハルトは言葉に詰まった。
その隣で、ジュリエットが突然、両手を合わせる。
「まあああっ!」
嬉しそうな声が響いた。
「マクシ! 聞いた!? アレクが!」
「うん、聞いたよ、ジュリ」
「なんて可愛らしいのかしら!」
ジュリエットは、すっかり大喜びだった。
「ねえ、カメリア! 私たち、親戚になれるかもしれないわ!」
「ふふ。そうね、ジュリ」
カメリアは柔らかく微笑む。
「でも、まだ二人とも小さいわ」
「そんなの、すぐに大きくなるわよ!」
「王妃殿下!」
レオンハルトが悲鳴のような声を上げた。
「どうか、話を進めないでいただけますか!」
「あら、いいじゃない! とってもお似合いよ!」
「まだ生まれたばかりなのです!」
「だから、これからが楽しみなのよ!」
マクシミリアンは、愛する妻の肩を抱きながら穏やかに微笑んでいた。
「ジュリが喜んでいるなら、私も嬉しいよ」
「陛下も少しはお止めになってください!」
「どうして?」
「どうしてって……!」
レオンハルトは、再び言葉を失った。
「……お前たちは、本当に……!」
とうとう漏れた本音に、マクシミリアンが小さく笑う。
「久しぶりに聞いたね、それ」
「……失礼いたしました」
レオンハルトは、深々とため息をついた。
カメリアが、そんな夫を見てくすくすと笑う。
「あなた、そんなに慌てなくても大丈夫よ」
「カメリアまで……」
「ふふ。アレクシス殿下がベラを気に入ってくださったのは、嬉しいことじゃない?」
「それと婚約の話は別だよ、カメリア!」
賑やかな大人たちの声が、部屋に響く。
その中心で、アレクシスは相変わらず赤ん坊の指を握っていた。
ベラは、大人たちの騒ぎなど知らないというように、小さな欠伸をした。
そして、再び目を閉じる。
アレクシスは、その寝顔をじっと見つめた。
しばらくして、小さな手の力が緩む。
赤ん坊の指が、そっとほどけた。
けれど、アレクシスはすぐには手を引かなかった。
小さな手に、もう一度だけ指先を触れさせる。
ベラは眠ったまま、かすかに指を動かした。
「……おや」
ベリアルが小さく呟く。
王太子は、赤ん坊の顔を見つめたまま、柔らかく微笑んでいた。
その横顔は、先ほどまでと同じように愛らしい。
けれど、ベリアルには一つだけ気になることがあった。
王太子は、誰かに何かを与えられても、これほど嬉しそうな顔をすることは滅多にない。
それなのに、今夜はどうだろう。
たった一人の赤ん坊が、小さな指を握っただけ。
それだけで、まるで何よりも素晴らしい贈り物を受け取ったような顔をしている。
ベリアルは、楽しそうに目を細めた。
どうやら、この小さな公爵令嬢は、たいへん興味深い存在らしい。
そのとき、レオンハルトの声が再び響いた。
「とにかく! 婚約など、まだ早すぎます!」
「あら、レオン。誰も今すぐ婚約しろなんて言っていないわよ?」
ジュリエットが涼しい顔で答える。
「……本当ですね、王妃殿下?」
「ええ、もちろん!」
レオンハルトは、ようやく胸を撫で下ろしかけた。
だが。
「まずは二人が仲良くなるところからよね!」
「王妃殿下!!」
カメリアが楽しそうに笑う。
マクシミリアンも、妻の笑顔を見つめながら微笑んでいる。
そしてアレクシスは、そんな大人たちの騒ぎなど気にも留めず、眠るベラへそっと顔を近づけた。
「……また、あそぼうね」
囁くような、小さな声だった。
赤ん坊は答えない。
ただ、柔らかな寝息を立てている。
アレクシスは満足そうに微笑むと、ようやく指を離した。
ベリアルは、その様子を静かに見守っていた。
王妃の突然の思いつきで始まった、夜の訪問。
公爵は終始、頭を抱えていたが、王妃は大満足のようだった。
そして幼い王太子は、どうやら生まれたばかりの公爵令嬢を、たいそう気に入ったらしい。
これから先、この二人がどのように成長していくのか。
ベリアルは、今から楽しみで仕方がなかった。
その夜、アルヴェイン公爵家に生まれた小さな令嬢は、二歳の王太子から、思いがけない求婚を受けたのだった。




