小さな王太子
柔らかな陽光が差し込む王太子の私室で、一人の侍女が花瓶に花を生けていた。
淡い黄色に白、薄桃色。春の訪れを感じさせる花々が、可憐に咲き誇っている。
「ねえ、そのお花、だれがえらんだの?」
不意にかけられた幼い声に、侍女は振り返った。
そこには、銀糸を束ねたような美しい髪と、宝石を思わせる紫の瞳を持つ、小さな王子がいた。
アレクシス・ヴァレンティア。
ヴァレンティア王国の王太子であり、国王マクシミリアンと王妃ジュリエットの愛息子。
齢、わずか二つ。
父王をそのまま小さくしたような容姿は、宮廷に仕える者たちの目を楽しませていた。
「私でございます、殿下。お部屋が明るくなるかと思いまして」
「そっか。きれいだね」
「ありがとうございます」
「でも、お花と花びんのお色、あってないね? 」
「……っ! 申し訳ございません!」
「おこってないよ? ちょっと気になっただけだよ」
侍女は恭しく頭を下げる。再び向けられた笑顔は、どこまでも可愛らしい。
それなのに、侍女は花瓶を抱えると、逃げるように部屋を出ていった。
その背中を見送り、アレクシスは小さく息を吐いた。
「……なんでそんなにあわてるの?」
「殿下が怖かったのでは?」
背後から、穏やかな声がした。
アレクシスが振り返る。
扉の近くに、一人の青年が立っていた。
艶やかな黒髪に、鮮やかな赤い瞳。
整いすぎたと言ってもよいほど端正な顔立ちに、柔らかな微笑みを浮かべている。
黒を基調とした上品な衣服をまとい、その立ち姿には奇妙なほど隙がなかった。
「……だあれ?」
青年は優雅に一礼した。
「ベリアルと申します、王太子殿下」
「ベリアル?」
「はい。本日より、こちらでお世話になることになりました」
「だれがいいって言ったの?」
「王妃殿下でございます」
アレクシスは、わずかに眉を動かした。
「……母上が?」
「ええ。たいへんありがたいことに、気に入っていただけまして」
「なにしたの?」
「少々、お話を」
「お話?」
「美しいものについて、でございます」
アレクシスは黙った。
青年は相変わらず、にこにこと微笑んでいる。
「……それだけ?」
「殿下。美について語り合うのは、実に奥深いものですよ」
「ふうん」
二歳の王太子は、小さく首を傾げながら青年を見つめた。
「君は、なにができるの?」
「お望みのことであれば、大抵のことは」
「なんでもできるの?」
「自信のない者を、お側に置きたいとは思われないでしょう?」
アレクシスの口元がわずかに緩む。
「……おもしろいこと言うね」
「お褒めにあずかり、光栄でございます」
ちょうどそのとき、明るい声とともに、扉が開かれた。
「アレク! ベリアル!」
現れたのは、艶やかな黒髪と鮮烈な赤い瞳を持つ、美しい女性。
ヴァレンティア王国王妃、ジュリエットである。
その後ろには、銀髪に紫の瞳を持つ国王マクシミリアンが、当然のように付き従っていた。
ジュリエットは青年を見つけると、ぱっと表情を輝かせる。
「あら! もうご挨拶は済んでいたのね!」
「はい、王妃殿下」
ベリアルが恭しく頭を下げた。
「ちょうどよかったわ。アレク!この方、今日からあなたの側近になっていただくことにしたわ!」
ジュリエットは息子のそばにしゃがみ込み、小さな頬を両手で包んだ。
アレクシスは瞬きをし、ゆっくりと青年へ視線を向ける。
「母上がきめたの?」
「ええ、もちろん!」
ジュリエットは実に満足そうだった。
「とっても優秀な方なの。それに、美しいものへの造詣も深くていらっしゃるのよ!」
「……でも、それって、ぼくのお世話と関係あるの?」
「あら、あるに決まっているでしょう?」
ジュリエットは不思議そうに首を傾げた。
アレクシスは小さく息を吐く。
「……母上」
「なあに?」
「ぼく、まだこの人のこと、なにも知らないよ?」
「ベリアルよ?」
「………」
そのやり取りを聞いていたマクシミリアンが、くすりと笑った。
「ジュリ。アレクも突然のことで驚いているんじゃないかな」
「あら、そうかしら?」
「まだ二歳だからね」
「アレクは賢いもの。きっとすぐにわかってくれるわ」
王妃は少しも悪びれる様子がない。
アレクシスは父を見上げた。
「父上は、知ってたの?」
「もちろん。ジュリから聞いていたよ」
「……いいの?」
「ジュリが気に入った人だからね」
実に穏やかな返答だった。
アレクシスは、しばらく父を見つめていた。
「……そっか」
それ以上、何も言わなかった。
ジュリエットは嬉しそうに手を合わせる。
「ねえ、アレク。ベリアルは本当に面白い方なのよ。お話していると、時間を忘れてしまうくらい!」
「……母上が楽しいなら、よかったね」
「ふふっ。あなたもきっと気に入るわ!」
アレクシスは再び青年を見上げた。
黒髪。
赤い瞳。
穏やかな微笑み。
そして、何を考えているのか少しも読み取れない表情。
「……ベリアル」
「はい、殿下」
「母上がきめたなら、いいよ」
「承知いたしました」
「でも、ちゃんとお仕事してね?」
ベリアルは一瞬、目を細めた。
そして、楽しそうに微笑む。
「それは、腕が鳴りますね」
「うん。よろしくね」
アレクシスも微笑み返した。
その光景を見て、ジュリエットが満足そうに頷く。
「ほら! やっぱり気が合うじゃない!」
「……そうかな?」
アレクシスの小さな呟きは、母には届かなかったらしい。
「ねえ、マクシ。アレクったら、あなたにそっくりでしょう?」
ジュリエットが夫を振り返る。
マクシミリアンは、愛する妻へ柔らかな笑みを向けた。
「そうだね、ジュリ」
「お顔だけじゃなくて、こういうところまで!」
「君にもよく似ていると思うよ」
「まあ、嬉しい!」
ジュリエットは夫の腕に絡みついた。
マクシミリアンは当然のようにその腰を抱き寄せる。
二人の距離は、あっという間になくなった。
ベリアルは、その様子を興味深く眺めていた。
どうやら、この国の王と王妃は、たいへん仲睦まじいらしい。
いや、仲睦まじいという言葉では、少々足りないかもしれない。
「ところで、ジュリ」
「なあに、マクシ?」
「せっかくここまで来たんだ。庭でお茶でもどうだい?」
「あら、素敵!」
王妃の赤い瞳が輝く。
「でも、その前にベリアルのお話をもう少し聞きたいわ」
「……彼の?」
ほんのわずかに、マクシミリアンの笑みが揺れた。
その変化を、ベリアルは見逃さなかった。
「王妃殿下とは、美についてたいへん興味深いお話をさせていただきました」
「そうなの! マクシ、あなたにも聞いていただきたいわ!」
ジュリエットは嬉しそうに夫を見上げた。
マクシミリアンは、妻の頬をそっと撫でる。
「もちろんだよ、ジュリ」
そう答えながら、青年へ視線を向けた。
艶やかな黒髪に、鮮やかな赤い瞳。
ジュリエットと同じ色彩を持つ、美しい青年だった。
しかし、妻を思わせるのは外見だけではない。
近くにいると、どこか懐かしい香りがする。
香水とも、花の香りとも違う。
いつも腕の中にいる、最愛の妻を思わせる何か。
それが何なのか、マクシミリアン自身にもわからなかった。
最初は、妻が青年を気に入ったことに、ほんの少しだけ面白くない気持ちもあった。
けれど、不思議と憎めない。
むしろ、どこか親しみすら感じるのだ。
「……不思議な男だね、君は」
「おや。何がでしょう?」
「いや、何でもないよ」
ベリアルは微笑んだ。
マクシミリアンもまた、穏やかな笑みを返す。
「では、マクシ。お茶にしましょう!」
ジュリエットはすっかり上機嫌だった。
「そうしようか」
「アレクも一緒にいかが?」
「ううん。ぼくはここにいるね、母上」
「あら、残念」
ジュリエットは息子の額に口づけた。
「それじゃあ、ベリアル。アレクのことをよろしくね」
「かしこまりました、王妃殿下」
「マクシ、行きましょう!」
「うん、ジュリ」
国王夫妻は、寄り添うように部屋を後にした。
残されたのは、二歳の王太子と、その新しい側近。
しばしの沈黙。
やがて、アレクシスが口を開いた。
「……ねえ」
「はい」
「母上と、なかよしなんだね」
「ええ。たいへん魅力的なお方ですから」
「父上、やきもちやくよ?」
「おや。それは困りましたね」
困ったような口ぶりだったが、ベリアルはまったく困っていない顔をしていた。
アレクシスはそんな青年をじっと見つめる。
「……へんな人」
「よく言われます」
「ほめてないよ」
「存じております」
にっこり。
アレクシスは、しばらく何かを考えるように黙っていた。
それから、小さな手を差し出した。
「じゃあ、ベリアル」
「はい、殿下」
「ちゃんとお仕事してね」
ベリアルは片膝をつき、その小さな手を恭しく取る。
「仰せのままに」
王太子の紫の瞳が、静かに細められた。
そこに浮かんだ感情を、青年はあえて問いたださなかった。
幼い容姿に似合わぬ聡明さ。
相手を見極めようとする鋭い眼差し。
そして、どうやら自分を簡単には信用していないらしい。
実に興味深い王太子だった。
ベリアルは穏やかな微笑みを浮かべた。
「末永く、よろしくお願いいたします。殿下」




