第10話:定義の外側
違和感は、
言葉になった瞬間、
もう戻らない。
「……おい、何してる」
商人の声だった。
表情が、明らかに崩れている。
その視線は、男に向けられていた。
「勝手に近づくな」
短く言い放つ。
「そいつらは商品だ」
空気が、わずかに張り詰める。
「……価値ね」
男は静かに繰り返した。
「それは、誰にとっての価値だ」
「……は?」
「お前か。買う側か。
それとも——こいつら自身か」
「……何言ってんだお前」
商人の声が低くなる。
「決まってるだろ。売れるかどうかだ」
「なら、それは価値じゃない。交換条件だ」
周囲のざわめきが、ほんのわずかに薄れる。
近くの台には、硬貨と数字が並んでいる。
まるで、人間と同じ並び方で。
「……屁理屈だな」
商人は吐き捨てる。
「どう呼ぼうが同じだ。売れるものは売る」
「そうだな」
男は頷いた。
「ここでは、それで成立している」
⸻
「だが」
「それは“前提”だ」
「……何?」
「こいつらが商品である、という前提があるから成立している」
「前提がなければ?」
「成立しない」
静かな声だった。
だが、妙に残る。
縄で繋がれた一人が、わずかに顔を上げる。
「おい、余計なこと言うな!」
商人が声を荒げる。
「黙って見てろ!」
「見ているだけだ」
男は答える。
「構造をな」
「……気味が悪いな」
商人は舌打ちした。
「……ねえ」
後ろで、小さな声。
先程の女の声だ。
「嫌じゃないのかな」
⸻
その一言で、空気が止まる。
誰も、答えない。
そのときだった。
縄が——意味を失っていた。
そこにあるはずなのに、何も拘束していない。
縛られているという前提だけが、残っている。
「……な……」
商人の声が震える。
「何してやがる……!」
だが、誰も動かない。
一人が、ゆっくりと立ち上がる。
迷うように。
次に、もう一人。
そして、また一人。
「……おい、戻れ!」
商人が叫ぶ。
「勝手に動くな!」
だが、止まらない。
誰も、どこに行けばいいのか分からない。
それでも、立ってしまった。
商品ではなくなった。
だが、人間としても定義されていない。
「……チッ、ふざけやがって……!」
商人の声には、怒りと焦りが混ざっていた。
だが、もう元には戻らない。
「……行くぞ」
男が言う。振り返らない。
⸻
残されたものだけが、そこにある。
自由。
だが、行き先はない。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
壊れたのは世界ではなく、
“前提”でした。




