60 競馬場は紳士淑女の社交場
土曜日、京都競馬場に来ていた。
サークルの活動ではない。競馬場に全員集合は日曜日のみ。
一週間前、ハルニナから手渡されたメモ。
そこには、こう記されてあった。
来週の土曜日、競馬場に来られますか?
来られるようでしたら、お話ししたいことがあります。
もちろん、内緒で、ということだ。
彼女の単位、つまり卒業のことだろう。
個室を持たない非常勤講師。学内で誰にも聞かれず二人だけで話すのは難しい。
一昔前ならいざ知らず、今や学内にどんな仕掛けが散りばめてあるか、知れたものではない。
ハルニナもそれを恐れて、競馬場を選んだのだろう。
相談に乗ろうと思った。
それに、ルリイアとも会っておきたいと思った。
事件を嗅ぎまわるという大それたことが、競馬場職員ルリイアにとって、迷惑なことではないのか、という危惧がある。
先日のミーティングの空気では、反対意見を出すことは難しい。
しかも、ルリイアはあの事故の関係者でもあるのだ。
迷惑だと思っているなら、フウカに一言、忠告しておかねばならない。
ルリイアとは昼一番のレース、第五レースの前に、スタンド三階中央の売店の付近で、ハルニナとは全レース終了後にポーハーハー・ワイのゲート前で、ということになった。
ルリイアは会うなり、紹介したい人があるという。
競馬場の清掃員で、あの日、そのエリアを担当していた女性。
もう一人、同じく警備員。
「清掃のおばさんはローズロズさん、警備のおじさんはコールミーさん。お二人ともいい人で」
ルリイアには迷惑なことかもという危惧は杞憂だった。
木曜の部活での結論がルリイアに伝えられているとは思えなかったが、彼女はこともなげにこう言った。
「フウカはいい提案をしたよね。私が最も頑張らなくちゃ。一部始終を一番よく知っているのは、きっと私だから」
ルリイアが清掃作業中の女性を呼び止めてくれた。
「ええ、ええ、よく覚えていますよ」
七十近いかもしれない。しかし、競馬場は紳士淑女の社交場という古き良き考えを大事に持っているのか、丁寧に化粧をし、髪のセットも完璧だ。フワリといい香りまでする。
薄っぺらい清掃員の制服や箒や塵取り。不釣り合いといえなくないが。
こちらが名乗るももどかしそうに、あるいは仕事の手を止めることに抵抗があるのか、自分からあの時のことを話し出してくれる。
事前にルリイアが声を掛けてくれていたのだろう。
「あの日の私の担当エリアは、スタンド二階の北の端。あの階段付近も含まれています。でも」
ポンポンと話し出した。
転落事故そのものを目撃したわけではないです。
私が言えることは、階段に繋がる通路に、誰もいなかったということだけ。
そもそも、あの通路。
先はスタッフオンリーの部屋が並んでいるだけで、一般のお客様には用のない通路です。トイレやベンチがあるわけじゃなし、スタンドのどこにも直接は繋がっていませんし。
それに、一応は関係者以外立ち入り禁止ですし。
ええ、ええ。三階でも同じことが言えますよ。
上の階はもっと、お客様には用がない。
そもそも三階には座席も少ないし。通るのは、ほぼ競馬場関係者だけ。
------------------------- 第31部分開始 -------------------------
【サブタイトル】
61 うちの課長の娘さん
もとより、俺はは現場の構造を把握している。
ケイキちゃんに入ったノーウェがルリイアを待ち、立っていた通路。
スタンドの裏側、すなわちパドック側にあたるが、ここからパドックは見えない。
しかも、馬場側もゴールをとうに過ぎた第一コーナー手前のあたりで、ファンが好んで席を確保したいフロアでもない。
おのずと閑散とした不人気エリアということになる。
競馬が人気レジャーだった時代ならいざ知らず、今はG1レースが催される日であったとしても、人の姿はほとんどなかったと思われる。
そして、ノーウェの足元にあった階段。
一直線に一階に降りていく。
幅は三メートルほどとそれなりに広いが、途中、ごく短い踊り場があるのみ。
あくまで、スタッフ動線の位置づけだ。
一階の登り口には、ここにもスタッフオンリーのテープフェンス。
その階段が通路に直交して設けられている。
しかも、通路から最初の一段目まで踏み代がない。
通常、ある程度のスペースを設けて足を踏み外す危険を回避するものだが、わずか三十五センチほどの奥行きがあるだけだ。
通路の反対側はどうか。
下へ降りる階段に対峙する形で、三階へ通じる上り階段。
つまり、三階から二階、一階へと結ぶ直線状の階段があって、その中央に二階の通路が、いわば踊り場的に横断しているというわけだ。
清掃員の話では、この階段付近に、すなわち二階の通路に客はいなかった、ということになる。
警察もこの女性の証言を受けて、一旦は事故死と判断したわけだ。
しかし、女性が面白いことを言い出した。
当然、俺にではなく、ルリイアに。
「ルリイアさん、亡くなった娘さんですけど、先日まで知らなかったんですが」
と前置きして、
「うちの課長の娘さん、なんだそうですよ」
「え、誰が?」
「亡くなった娘さんが」
「えっ、課長さんって、キオウミさんのこと?」
「はい。支社でそんな噂が」
「へえ!」
清掃員の情報提供に謝意を表すためか、ルリイアは大げさに驚いてみせている。
ん?
ルリイアの背後、背広姿の男が顔を向けていることに気づいた。
何をするわけでもなく、一人立ち止まっている。
こちらを窺っているのか。
視線の先に気づいた清掃員が声をひそめた。
「ああ、あいつ、ですね」
清掃員にあいつ呼ばわりされた男。
振り向きながら遠ざかっていく。
「アサツリ、ってやつです。ルリイアさんにすり寄って」
「やめてください」
ルリイアは厳しく言ったわけではない。
むしろ、笑いながら。
いつもの会話なのかもしれない。
「へえ!」
こちらの反応に気をよくしたのか、清掃員が付け加えてくれる。
「ルリイアさん、気を付けた方がいいですよ。あいつ、何をしでかすか、分かったものじゃない」




