第3話 助けに行くだけなのに
それから数日。
俺は銀色のアレを、机の引き出しの一番奥へしまった。
「もう使わん」
一度目。
推定被害総額、約八千七百万円。
二度目。
推定被害総額、約一億四千六百万円。
合計、二億三千三百万円。
「…………」
たった二回で二億超え。
「無理」
引き出しを閉めた。
これが一番いい。
怪獣はいない。
宇宙人も攻めてこない。
だったら、俺が四十五メートルになる必要もない。
そういう結論になった。
◇
翌朝。
仕事へ行く準備をして、鞄を持つ。
「…………」
玄関へ向かう。
三歩。
止まった。
机を見る。
引き出し。
「いや」
使わない。
必要ない。
昨日そう決めた。
「…………」
何があるか分からないし。
引き出しを開けた。
銀色のアレを取り出す。
「持ってるだけなら……」
鞄へ入れた。
使わない。
これは使うためじゃない。
念のため。
「…………何の念だよ」
◇
世間では、俺の意思とは関係なく、へぁさんがすっかり有名になっていた。
『北海道に出現した巨大人型存在、通称「へぁさん」について――』
昼休み。
休憩室のテレビから、また俺の話が聞こえてくる。
『最初の出現では、土砂崩れから住宅を守るような行動が確認された一方、道路や航空機への被害も発生しています』
「ヒーローなのか?」
佐々木が弁当を食べながら言った。
「知らん」
『また二度目の出現では、沖合へ向けて高エネルギーとみられる発光現象を発生させ――』
「これな」
佐々木がテレビを指す。
「何と戦ってたんだ?」
「…………」
「海?」
「俺に聞くなよ」
「怪獣いないのに光線撃つ必要ある?」
「…………」
ない。
まったくない。
『専門家からは、現時点でこの巨大人型存在に明確な敵対意思は確認できないものの、その行動自体が重大な危険を生じさせる可能性があるとの指摘も――』
「悪気はなさそうなんだけどな」
「…………」
「悪気のない千二百トンって、一番怖くね?」
「…………」
俺は黙って味噌汁を飲んだ。
◇
その日の仕事帰り。
「…………動かねえ」
渋滞。
さっきから、ほとんど進んでいない。
前には車。
その先にも車。
対向車線まで詰まっている。
「事故か?」
その時、後ろからサイレンが近づいてきた。
救急車が路肩を抜けていく。
続いて消防車。
さらにパトカー。
「結構デカいな……」
少し待った。
それでも動かない。
スマホで交通情報を確認する。
「…………」
近くの橋。
大型バスの事故。
ニュースを開いた。
『大型バスが橋の欄干を突き破り、車体の一部が橋から転落しかけているということです』
「マジか……」
画面に映っているのは、見覚えのある橋だった。
川幅は三、四十メートルほど。
片側一車線の道路橋。
大型バスが欄干を突き破り、車体の前半分を川の上へ飛び出させている。
消防隊員が救助活動をしていた。
『バスには乗客、乗員合わせて三十二人が乗っているとの情報が――』
「…………」
スマホを下ろす。
消防がいる。
救急もいる。
警察もいる。
プロがやっている。
「俺には関係ない」
そう言って前を見る。
車は動かない。
「…………」
もう一度、スマホを見る。
バスが。
さっきより傾いている気がした。
「…………」
助手席の鞄を見る。
中には銀色のアレ。
「いや」
二億三千三百万円。
頭に浮かぶ。
「俺が行った方が危ないだろ」
俺は救助隊員じゃない。
ただ巨大化できるだけの損保会社員だ。
余計なことをするな。
プロに任せろ。
そう思っていた時。
スマホの中で。
ギギッ――。
バスが動いた。
車体がさらに川側へ傾く。
現場の消防隊員たちが一斉に動いた。
「…………」
もし。
落ちたら。
川まで十メートル近くある。
三十二人。
「…………」
鞄を開けた。
銀色のアレを握る。
「バスだけ」
自分に言い聞かせた。
「バスだけだからな」
◇
問題は。
どこで変身するかだった。
周囲は渋滞した車。
歩道には人。
住宅。
電柱。
電線。
少し先には消防車と警察車両。
マスコミらしき車までいる。
「ここで四十五メートルは無理だろ……」
変身した瞬間に事故を増やす。
俺は渋滞から抜けられる道を探し、事故現場からいったん離れる方向へ迂回した。
焦る。
でも飛ばせない。
俺が事故を起こしたら、何をしに行くのか分からない。
ようやく人目につきにくい河川敷を見つけた。
橋までは、およそ二キロ。
車を止める。
外へ出て、周囲を見る。
少なくとも、変身する瞬間を見ている人はいない。
「…………よし」
銀色のアレを握った。
「余計なことはしない」
飛ばない。
走らない。
光線なんて絶対に撃たない。
「支えるだけ」
構える。
閃光。
視界が一気に高くなる。
「うっ……!」
『へぁっ!』
何度やっても慣れない。
四十五メートル。
遠くの橋が、さっきよりはっきり見えた。
「あれか」
『へぁ』
行こうとして。
止まった。
「…………」
道路を見る。
車。
住宅。
電柱。
標識。
信号。
人。
「…………どこ歩くんだよ」
『へぁ?』
道路は無理。
走るのはもっと無理。
空を見る。
「…………」
飛ぶ?
一度目。
旅客機。
「ない」
『へぁ』
却下。
「じゃあ……」
橋まで約二キロ。
ふと思いついた。
「ジャンプ?」
『へぁ?』
これなら一回。
いや、二回くらいで行けるかもしれない。
軽く膝を曲げる。
「…………」
足元を見る。
俺。
千二百トン。
「…………」
ゆっくり膝を戻した。
「いやいやいや」
『へぁ?』
「地震来るだろ!」
『へぁ』
それ以前に。
着地した場所はどうなる。
「飛ぶより駄目だわ……」
その時。
遠くで車が一台、止まった。
「…………」
運転席から人が降りてくる。
こっちを見た。
スマホを構えた。
「早っ」
『へぁ……』
さらに一台。
道路脇に止まる。
人が降りる。
「…………」
人がいない場所を選んだ。
人が来ない場所ではなかった。
「行こ」
『へぁ』
これ以上増える前に。
辺りを見る。
道路は無理。
空は怖い。
地面を跳ぶのも駄目。
そして。
目の前を川が流れていた。
「…………川」
『へぁ?』
その川の先に、事故現場の橋がある。
「川なら行ける」
『へぁ』
◇
川へ入る。
ゆっくり。
一歩。
ズブッ。
「…………」
『…………へぁ』
足が沈んだ。
「これも駄目なの?」
川底は思ったより柔らかい。
巨大な足が泥と砂利へ食い込んでいる。
足を抜く。
ズボッ。
濁った水が広がった。
「…………」
今度は慎重に。
一歩。
ザバァ……。
水が大きく押し退けられる。
「ゆっくり……」
『へぁ……』
もう一歩。
ザバァ……。
「もっとゆっくり」
『へぁ……』
遠くには、落ちかけたバス。
急ぎたい。
でも急げない。
俺が一歩踏み出すだけで、川が大きく動く。
しかも。
土手を見る。
「…………」
人が増えていた。
さっきスマホを向けていた人だけじゃない。
車を止める人。
走ってくる人。
俺と同じ方向へ移動しながら撮影している人までいる。
「ついて来んなよ……」
『へぁ……』
俺が事故現場へ近づくほど。
人も事故現場へ近づいていく。
「…………」
救助しに行って。
野次馬増やしてない?
『へぁ……』
考えないことにした。
◇
橋が近づく。
消防。
警察。
救急。
マスコミ。
野次馬。
そして。
橋から半分近く飛び出したバス。
向こうも、とっくに俺に気づいていた。
警察の拡声器から声が響く。
『止まれ!』
「…………」
『それ以上、現場へ接近するな!』
止まった。
『へぁ』
当然だ。
俺は正体不明の巨大人型存在。
しかも過去二回。
結構やらかしている。
「助けに来たんです!」
『へぁ! へぁへぁ!』
『…………』
「バス!」
バスを指す。
「支えます!」
『へぁ! へぁへぁ!』
『…………』
「…………」
伝わってない。
「そうだった……」
『へぁ……』
人間には。
へぁしか聞こえない。
◇
ギギギギギ――。
「…………!」
バスが動いた。
さらに川側へ傾く。
車内から悲鳴。
消防隊員たちが動く。
俺はバスを見る。
警察を見る。
またバスを見る。
「…………どうすんの?」
『へぁ?』
現場の人たちも俺を見ている。
数秒。
やがて、一人の消防隊員が前へ出た。
バスを指す。
俺を指す。
両手を下から持ち上げるように動かした。
「…………」
分かった。
「下から支えればいいんですね?」
『へぁ?』
消防隊員が大きく頷いた。
「分かりました」
『へぁ!』
俺も大きく頷いた。
◇
一歩ずつ近づく。
橋には乗らない。
千二百トンで乗っていい橋なのかなんて、考えるまでもない。
橋脚にも近づきすぎない。
川の中からバスを見る。
「…………」
普段なら大きく見える大型バスが。
今の俺には、小さい。
手を伸ばしかけて止めた。
「これ……掴んだら駄目だよな」
『へぁ……』
握れば車体を潰すかもしれない。
手を開く。
掴まない。
下から支える。
「ゆっくり……」
『へぁ……』
巨大な手のひらを、バスの底へ近づける。
あと少し。
触れた。
ギッ――。
「…………」
止まる。
力を入れすぎるな。
持ち上げなくていい。
落ちなければいい。
「支えるだけ」
『へぁ……』
手のひらにバスの重量が乗る。
「…………」
軽い。
驚くほど軽い。
大型バスなのに。
今の俺には。
ちょっと力を入れれば、簡単に持ち上がりそうだった。
「…………」
これ。
軽い方が怖い。
力加減を間違えれば、持ち上げるどころか壊しかねない。
「動かすな……」
『へぁ……』
消防隊員が車内へ入る。
一人。
また一人。
乗客が救出されていく。
俺は動かない。
バスは重くない。
問題は。
「…………腰」
『へぁ……』
姿勢だった。
川底に両足を沈ませ。
膝を曲げ。
腰を落とし。
片腕を伸ばしたまま。
動けない。
「これ……地味に辛い……」
『へぁぁ……』
手の位置を少し変えたい。
でも。
俺にとっての数十センチは、バスにとっては大きい。
動かせない。
「…………」
消防隊員が一人を救出する。
まだ。
次。
まだ。
「腰……」
『へぁぁ……』
子供。
高齢者。
大人。
次々と橋の安全な場所へ運ばれていく。
「早く……」
『へぁ……』
そう思って。
すぐに打ち消す。
「違う。急かすな」
『へぁ……』
人命救助だ。
ゆっくりでいい。
俺が耐えればいい。
「…………腰」
『へぁぁ……』
やがて。
最後の一人が救出された。
消防隊員がバスから離れる。
そして。
俺に向かって両腕で大きな丸を作った。
「…………終わった?」
『へぁ?』
もう一度。
丸。
「全員?」
『へぁ?』
消防隊員が大きく頷いた。
「…………」
身体から力が抜けそうになった。
「よかった……」
『へぁ……』
その瞬間。
周囲から拍手が起きた。
少しずつ。
大きくなる。
消防隊員。
救急隊員。
橋の向こうにいる人たち。
「へぁさん!」
「ありがとう!」
「助かったぞ!」
「…………」
初めてだった。
この姿になって。
人から、ありがとうと言われたのは。
「…………どうも」
『…………へぁ』
歓声がさらに大きくなった。
「…………」
ちょっと。
嬉しかった。
◇
ズブッ。
「…………え?」
『…………へぁ?』
安心して力を抜いたせいか。
右足が川底へ沈んだ。
「ちょっ――」
『へぁっ!?』
バランスを取ろうとして左足へ力を入れる。
ズブッ。
「待て待て待て!」
『へぁへぁへぁ!』
身体が傾く。
「倒れる倒れる!」
『へぁぁ!』
慌てて踏ん張る。
ザバァァァン!!
大量の水が押し退けられ、川岸へ向かう。
「…………」
『…………へぁ』
橋の上から。
消防隊員たちが俺を見ている。
「…………動かない方がいい?」
『へぁ?』
消防隊員たちが。
一斉に頷いた。
「…………」
『…………へぁ』
◇
しばらく。
本当に動かなかった。
消防がバスを固定する。
救助された人たちは、救急隊員に引き渡されていく。
その間にも。
土手の人だかりは、さらに増えていた。
「…………」
テレビカメラ。
スマホ。
警察。
消防。
マスコミ。
ものすごい人数が俺を見ている。
「帰ろ……」
来た道を見る。
川。
二キロ。
ゆっくり戻ればいい。
そう思った時。
ピコン。
「…………」
胸を見る。
ピコン。
ピコン。
「…………あ」
『へぁ?』
来た。
活動限界。
川を見る。
二キロ。
行きは、周囲に波を立てないようにかなり時間をかけて歩いてきた。
ピコン。
ピコン。
「…………間に合わなくね?」
『へぁ……』
ここで時間切れになったら。
どうなる。
消防。
警察。
マスコミ。
テレビカメラ。
野次馬。
その真ん中に。
高橋直人。
三十五歳。
損害保険会社勤務。
「…………」
一度目。
八千七百万円。
二度目。
一億四千六百万円。
それから。
今日の分。
「…………」
請求。
されるよな。
『へぁ……』
「絶対駄目だ」
『へぁ』
いや。
請求だけで済むのか?
道路。
航空機。
船舶。
漁業設備。
河川設備。
「…………」
考えるのやめよう。
とにかく。
ここでは戻れない。
急いで川を歩く?
駄目。
波が出る。
走る?
もっと駄目。
「…………ジャンプ」
膝を見る。
「だから地震」
『へぁ』
残るのは。
空。
「…………嫌だ」
『へぁ……』
一度目。
旅客機。
そして。
俺は高所恐怖症。
ピコン。
ピコン。
ピコン。
「…………」
空を見る。
「飛ぶしかないの?」
『へぁ……』
誰に聞いても答えてくれない。
覚悟を決める。
「低く」
『へぁ』
「川の上」
『へぁ』
「ゆっくり」
『へぁ』
「絶対叫ばない」
『へぁ』
腕を前へ伸ばす。
「…………よし」
『へぁ!』
身体が川面から浮いた。
両脚が水から抜ける。
脚にまとわりついていた大量の水が、一気に川へ落ちた。
ザバァァァァァン!!
「うわっ」
『へぁっ!』
巨体が前方へ加速する。
四十五メートルの身体が周囲の空気を押し退けた。
ゴォッ――!!
川面が大きく乱れる。
岸辺の草が一斉になびく。
現場に張られていたブルーシートが大きく膨らんだ。
「押さえろ!」
警察官の帽子が飛ぶ。
書類が宙を舞う。
カラーコーンが転がる。
マスコミの三脚が倒れ、慌てて記者が押さえた。
川から持ち上がった水滴が風に乗り、岸辺へ降り注ぐ。
「…………」
上昇しながら下を見る。
「ごめんなさい!」
『へぁぁぁぁぁぁぁ!!』
「…………」
叫んだ。
「やっぱ怖ぇぇぇぇ!!」
『へぁぁぁぁぁぁぁ!!』
川に沿って、できるだけ低く飛ぶ。
下を見るな。
前だけ見ろ。
「怖い怖い怖い!」
『へぁへぁへぁへぁ!!』
結局。
行きよりずっと騒がしく。
俺は現場から飛び去った。
◇
翌朝。
『昨日発生した大型バスの事故について、乗客乗員三十二人全員の救助が確認されました』
「…………」
テレビの前。
俺は、また正座していた。
『事故では複数の負傷者が出ていますが、死者はいません』
「…………」
大きく息を吐く。
「よかった……」
本当に。
よかった。
画面が変わる。
川の中にいる俺。
バスを支えている。
『救助には、これまで北海道内で目撃されている巨大人型存在、通称「へぁさん」が関与したとみられ――』
「みられって」
完全に俺だろ。
『消防によりますと、巨大人型存在がバスを支えている間に救助活動を行い、全員を車外へ避難させたということです』
映像。
消防隊員が俺へ大きな丸を作っている。
次。
拍手されている俺。
「…………」
少し。
口元が緩んだ。
『一方――』
「…………」
来た。
『巨大人型存在の移動に伴い、河川設備や護岸の一部に損傷が確認されています』
「…………」
川底。
護岸。
壊れた設備。
『また、現場から飛び去った際に発生した強い風により、報道機材や警察の仮設設備などにも被害が――』
「…………」
飛んでいる俺。
『へぁぁぁぁぁぁぁ!!』
「そこ使うなよ……」
テレビを消した。
◇
赤本。
資料。
スマホ。
電卓。
三度目。
もう。
慣れてきた自分が嫌になる。
河川設備。
護岸。
河床。
仮設設備。
報道機材。
その他。
カチ。
カチカチ。
カチ。
「…………」
数字が出る。
確認。
もう一度。
大きくは変わらない。
――三度目の変身。
救助。
三十二人。
死者。
ゼロ。
推定被害総額。
約三千四百万円。
「…………」
一回目。
八千七百万円。
二回目。
一億四千六百万円。
三回目。
三千四百万円。
「…………」
今までで。
一番安い。
「いや、そういう問題じゃない」
電卓を置く。
三十二人。
三千四百万円。
「…………」
電卓を取る。
三千四百万。
割る。
三十二。
「…………」
一人。
約百六万円。
「…………」
電卓を伏せた。
「人の命を割るな、俺」
しばらく黙っていた。
でも。
今回は。
三十二人が生きて帰った。
物は壊した。
川も荒らした。
最後は結局飛んだ。
それでも。
誰も死ななかった。
「…………」
机の上に銀色のアレを置く。
今までは、見るたびにしまいたくなった。
でも。
今日は少し違った。
「…………今回は」
銀色のアレを見る。
「使って……よかったのか?」
答えは。
まだ。
分からなかった。




