蛇族領、書庫の城
八日目の夕刻、空が、薄紅色から、深い藍色へと、移り変わろうとしていた。長かった旅も、ようやく、終わりに近づいていた。馬車は止まった。車輪の音が、やんだ。
扉が開くと、まず、匂いが変わったことに気づいた。木と土の匂いではなく、紙と蝋、それに、微かな薬草の匂い。空気そのものが、村とは違う密度を持っているようだった。長い旅の疲れが、体の芯に、重く沈んでいた。足を踏み出す前に、私は、一度、深く、息を吸った。
八日間の旅で、私は、随分と、遠くまで来たのだと、改めて実感した。村の匂いは、もう、思い出そうとしなければ、蘇らないほど、遠くなっていた。それが、寂しさなのか、それとも、新しい何かの始まりなのか、まだ、自分でも判別がつかなかった。
見上げた建物は、村の教会の何十倍もの高さがあった。窓という窓に、灯りが点っている。日が沈みかけた空を背に、その建物だけが、内側から光を放っているように見えた。石造りの外壁には、蔓草が絡み、その隙間から、彫刻の跡が覗いていた。歴史の重みを、建物そのものが、静かに物語っていた。私は、思わず、首を、大きく上に、傾けた。
「世界一広い書庫です」
年配の女性が、そう言って、深く頭を下げた。名を、サフィンと名乗った。蛇族にしては小柄で、目尻に長い年月を刻んだ顔をしていた。声の調子には、初対面の私に対しても、警戒の色がなかった。
正面の大扉をくぐると、広間の奥に、さらに大きな扉があった。それをくぐって、初めて、書庫本体に足を踏み入れた。扉が開く音さえ、驚くほど、静かだった。
中に入ると、天井まで届く本棚が、視界のすべてを埋めた。螺旋階段が、上へ上へと続いている。蝋燭の灯りが、幾つも揺れていた。本の背表紙が、蝋燭の光を受けて、金色や深緑に鈍く光っている。声を出す者は、誰もいなかった。静けさそのものが、この建物の呼吸のように感じられた。
私は、思わず、足を止めた。村の教会でさえ、これほどの高さは持っていなかった。見上げた先の天井は、薄闇に溶けて、はっきりとは見えないほどだった。声を持たない私にとって、この静けさは、恐怖ではなく、むしろ、安堵に近いものとして、迫ってきた。
◇
サフィンに案内され、書庫の中央を通り抜けた。すれ違う書庫員たちが、それぞれ、静かに会釈をする。誰も、声をかけてこなかった。それが、警戒からくるものなのか、それとも、この場所の習わしなのか、私には、まだ判別がつかなかった。廊下に響くのは、私たちの足音だけだった。
「書庫員は、十五人おります。皆、それぞれの担当書架を持ち、日々、蔵書の手入れと、記録の管理に努めております」
サフィンは、歩きながら、そう説明してくれた。私は、その言葉の一つ一つを、頭の中に、丁寧に刻みつけた。声で問い返せない分、一度で覚える必要があった。聞き逃せば、二度目を、訊ねる術がない。その緊張感が、いつも、私の記憶を、人一倍、鋭くしていた。
案内された部屋には、すでに、机と本棚が用意されていた。紙もインクも、羽根ペンも、五本、揃えられている。棚には、まだ何も並んでいない。真新しい木の匂いがした。
「お嬢のために、書庫長閣下が、十日かけて、整えました」
サフィンの言葉に、私は驚いた。十日、というのは、私たちが連れ去られるより前の日数だ。彼は、私がここに来ることを、私自身よりも早く、知っていたことになる。その事実に、私は、しばらく、言葉を失った。
私は紙に書いた。
『ありがとう、ございます』
サフィンは、その紙を受け取ると、両手で持ち上げ、自分の額に押し当てた。その仕草の丁寧さに、私は、少し、驚いた。たった三文字の紙に、これほど、真摯に応えてくれる人がいるとは、思っていなかった。
「蛇族の、最高位の、感謝の仕草です」
彼女は、そう言って、私に、同じ形を指で教えてくれた。両手で何かを捧げ、額に当てる。私はそれを、ぎこちなく真似た。指の角度がうまく決まらず、二度、やり直した。サフィンは、それを笑わず、根気強く待ってくれた。
◇
窓から、書庫の中庭が見えた。中央に、大きな石造りの噴水がある。人影は少ない。書庫員たちは、皆、奥の書架の間で、静かに働いているらしかった。
サフィンが、部屋を出る前に、こう付け加えた。
「先ほどの書庫員たちも、皆、お嬢のことを、いずれ、お迎えするでしょう」
いずれ、という言葉に、私は小さく引っかかった。すぐに、ではない。時間がかかる、ということだ。
「蛇族は、慎重な種族です。悪気があって、距離を置くのではありません。……ただ、時間をかけて、確かめるのが、私たちのやり方なのです。閣下も、四十年前、書庫長になられたときは、先代の書庫員たちに、五年、認めていただけなかったと、聞いております」
その話は、意外だった。百年生きた、揺るがない立場のあの人にも、認められるまでの、長い時間があったのだ。
理由を訊ねる声は、私にはない。私はただ、その言葉を、頭の隅にしまった。
サフィンは、部屋を出る前に、もう一つ、教えてくれた。
「書庫には、蛇族の、簡単な決まり文句の、指文字もございます。よろしければ、少しずつ、お教えいたします」
彼女は、両手で、輪を作るような形を示した。
「これは、《静かに》という意味です。書庫では、声の代わりに、こうした指文字で、意思を伝え合うことも、多いのです」
私は、それを真似た。声を持たない私にとって、蛇族の書庫という場所そのものが、これまで生きてきたどの場所よりも、指の言葉に、寛容な土地なのかもしれない、と思い始めていた。
「お嬢は、覚えが早い」
サフィンは、そう言って、微笑んだ。世辞なのか、本心なのか、私には、まだ、判別がつかなかった。それでも、その一言は、旅の疲れを、わずかに和らげてくれた。
夕食は、部屋まで運ばれてきた。パンと、見たことのないスープ。パンの生地は、村のものより粗く、香ばしかった。一口食べて、私は、思わず、もう一口食べた。久しぶりに、味というものを感じた気がした。運んできた若い書庫員は、名を名乗らず、一礼だけして去っていった。まだ、遠慮の距離があった。
食後、サフィンが、もう一度、様子を見に来てくれた。
「お嬢。何か、足りないものは、ございませんか」
私は、首を振った。それから、少し迷って、紙に書いた。
『この部屋には、窓が、二つ、ありますね』
『どちらから見ても、書庫の中庭が、見えるのですか』
サフィンは、少し驚いた顔をした。
「よく、お気づきになりました。……閣下が、そのように、設計させたと、伺っております。お嬢が、どちらを向いても、書庫の気配を、感じられるように、と」
その言葉に、私は、また、あの人の細やかさを、思い知らされた。
サフィンが、部屋を出る前、もう一言、付け加えた。
「お嬢。今日は、長旅の疲れも、あるでしょう。早めに、お休みください。書庫は、明日も、変わらず、ここに、ございます」
その一言に、私は、小さく頷いた。書庫は逃げない、という彼女の言葉が、これから先の、静かな安心の始まりのように、耳に残った。
夜、机の前に座ると、窓の外に、螺旋階段を上っていく長身の影が見えた。書庫長だった。彼は、私の部屋の灯りを、一度だけ振り返った。
それから、何も言わず、上階へ姿を消した。
私は、机の上の紙に、そっと手を置いた。ここが、私の居場所になるのかどうか、まだ、分からなかった。分からないながらも、真新しい木の匂いのする部屋の静けさが、村の台所の匂いより、今の私には、少しだけ、安らかだった。
蝋燭を吹き消す前、私は、もう一度、窓の外を見た。書庫の螺旋階段には、もう、誰の影もなかった。ただ、蝋燭の灯りだけが、幾つも、静かに、瞬いていた。
明日から、この場所での、新しい日々が、始まる。私は、そう思いながら、静かに、目を閉じた。




