隅に、机を置く
彼女を書庫に迎えた翌朝、鳥の声が、書庫の高窓から、微かに聞こえた。四十年、聞き慣れたはずの朝の音が、今朝は、少し、違って聞こえた。私は最奥の自室から、書架の間を見下ろしていた。窓辺に立つのは、久しぶりのことだった。
彼女の机には、まだ、誰も座っていない。朝の光が、その机の上に、四角く落ちているのが、ここからでも見える。空っぽの椅子が、これほど、目を引くものだとは、これまで、思ったこともなかった。私は、しばらく、その光の四角を、見つめ続けていた。
昨夜、彼女が、初めてその椅子に腰を下ろした瞬間を、私は、まだ、鮮明に覚えていた。あの一瞬のために、私は十日を費やした。だが、これから先、彼女が、その椅子を、本当の意味で、自分の居場所と呼べるようになるまでには、まだ、いくつもの壁が、待ち構えているのだろう。私は、その壁の一つ一つを、静かに、数え始めていた。
「閣下」
若い書庫員のイシュタルが、書類を抱えて現れた。私の弟子にあたる男で、蛇族としてはまだ青年の域だ。仕事は正確で、口数は少ない。私が最も信頼している部下の一人だった。三十年、私の下で働いてきた男の目に、今朝の指示が、どう映るか、私には、およその見当がついていた。
「お嬢の机を、あの場所に? 最奥ではなく」
「最奥ではなく、あの場所だ」
私は答えた。
「理由を、伺っても」
「書庫の住人として、扱う。お飾りとしてではなく」
私の声は、いつもより、少しだけ、強かった。自分でも、それに気づいていた。
イシュタルは、しばらく黙っていた。それから、書類に視線を戻しながら、静かに言った。
「人間は、短命です。書庫の知は、代を継いで、積み上げるものです。……閣下も、ご存じのはずです」
言葉自体に、悪意はなかった。ただ、そこには、蛇族が二百年かけて培ってきた前提が、はっきりと横たわっていた。人間は、書庫の一員にはなれない。なる資格を、そもそも持たない。イシュタル自身、これまで、その前提を疑ったことすらないのだろう。彼の口調には、確信こそあれ、悪意はまったく感じられなかった。それだけに、私には、扱いにくい壁だった。
「その前提を、私が変える必要は、ないと思うか」
「変える必要が、ないとは、申しておりません。……変えられるとも、まだ、思えないだけです」
イシュタルは、それだけ言うと、一礼して去っていった。彼の懐疑を、私は責めなかった。責める理由がなかった。私自身、彼女が来る前は、同じ前提の中にいたからだ。人は、自分が経験するまで、前提の外を、想像できないものなのかもしれない。
◇
私は、百年使った自分の机を、最奥から、書庫の隅――彼女の机の隣まで移させた。決断してから、実行までに、迷いは、一切なかった。むしろ、なぜ、これまで、そうしなかったのかと、自分自身に、問いたいくらいだった。
「閣下」
別の書庫員が、驚いた顔で言った。
「書庫長の机は、伝統的に、最奥です」
「伝統は、書庫を、書庫たらしめるための、手段だ。目的ではない」
私は、そう答えた。答えながら、自分の言葉が、これから先、何度も試されることになるだろうと、予感していた。イシュタルの懐疑は、彼一人のものではない。書庫を運営する評議会の何人かが、同じ考えを持っているはずだった。長老たちの多くは、私よりずっと長く、書庫の伝統を守ってきた者たちだ。その重みを、軽んじるつもりはなかった。ただ、重みがあることと、正しいことは、必ずしも一致しない。
隣に置いた机に、紙を揃え、インクを用意し、羽根ペンを五本、並べる。移動には、書庫員四人がかりで、丸一日を要した。木の擦れる音、床にわずかに残った擦り傷。それだけの手間をかけてでも、私は、この配置を変えたかった。
作業の途中、サフィンが、様子を見に来た。
「閣下。これほど大掛かりなことをなさって、評議会が、良い顔をするとは、思えません」
「分かっている」
「それでも、なさるのですね」
「彼女の指が、この机の上を走るのを、自分の席から見ていたい。それだけのことに、私は十日をかけた。机の移動くらいで、迷うつもりはない」
サフィンは、それ以上、何も言わなかった。ただ、微かに、口元を緩めた。それが、彼女なりの、賛意の示し方だった。
移動を終えた後、私は、彼女の机に、これまでの人間王国の蔵書とは別に、一冊だけ、蛇族の初歩の教典を、そっと加えた。すぐに読める内容ではないだろう。それでも、いつか、彼女が、この書庫の理を、自分の言葉で理解したいと思ったとき、手の届く場所に、それを置いておきたかった。
イシュタルが、机の移動を手伝いながら、ぽつりと言った。
「閣下は、随分と、先を、見据えておられるのですね」
「先が見えるほど、賢いわけではない。ただ、後手に回ることだけは、避けたいと思っている」
イシュタルは、それ以上、何も言わなかった。だが、その表情には、先ほどまでの、揺るぎない懐疑とは、わずかに違う色が、見え隠れしていた。
移動の作業を終えた書庫員たちが、額の汗を拭いながら、それぞれの持ち場に戻っていった。誰も、不満を口にする者はいなかった。むしろ、この一連の作業そのものに、どこか、静かな高揚を感じているようにも、私には見えた。
◇
その日の午後、族長からの書状が届いた。
内容は簡潔だった。「人間の処遇については、追って評議会にて協議する」。
追って、という一語に、私は、これから先の道のりの長さを感じた。二十五年、待った。今度は、書庫全体を、待たせることになる。書状を読み終えた後も、私はしばらく、その一枚を、机の上に置いたままにしていた。
サフィンが、書状の内容を察したのか、静かに声をかけてきた。
「閣下。族長様は、決して、頑迷な方ではありません。ただ、公正であろうとするあまり、時間をかけられるのです。……焦らず、示し続けることです」
「示す、とは」
「お嬢が、この書庫にとって、確かな存在であることを。言葉ではなく、日々の積み重ねで」
「日々の積み重ね、か」
私は、その言葉を、繰り返した。二十五年、待つことに慣れた男にとって、積み重ねという言葉は、決して、重すぎるものではなかった。むしろ、私が最も得意とする種類の努力だった。
「閣下。もう一つ、申し上げても、よろしいでしょうか」
サフィンが、少し、言いにくそうに、続けた。
「族長様の書状には、書かれておりませんが……評議会の一部には、お嬢の存在そのものより、閣下が、これほどまでに、規則を、曲げようとされることに、戸惑う声も、あるのです。閣下は、これまで、誰よりも、蛇族の伝統を、重んじてこられた方ですから」
その指摘は、私自身にも、思い当たる節があった。私は、変化を好む性質ではない。だが、この変化だけは、避けて通れないものだと、確信していた。
私は、書状を折りたたみ、机の引き出しにしまった。
窓の向こうで、彼女が、初めて自分の机の椅子に、静かに座るのが見えた。
その背中を、私は、しばらく見ていた。積み重ねる、という言葉の重さを、これから、彼女と共に、確かめていくことになる。そう思うと、不思議と、恐れよりも、静かな決意のほうが、勝った。
夕暮れ時、書庫の窓から差し込む光が、彼女の机を、橙色に染めていた。その光の中で、彼女は、初めて手にする本の頁を、ゆっくりと、めくっていた。その姿を、私は、自分の机から、飽きることなく、眺め続けていた。
日が完全に沈むと、書庫員たちが、蝋燭に火を灯して回った。彼女の机にも、一本、灯りが点る。その小さな炎が、彼女の横顔を、いつまでも、静かに照らしていた。
私は、自分の机の灯りも、同じ高さに、調整し直した。二つの灯りが、同じ強さで、並んで揺れる様子を、私は、しばらく、眺めていた。




