出身村の、地誌の頁
書庫の机に座って、三日が過ぎた。窓の外の木々が、朝ごとに、わずかに色を変えていくのが見えた。季節が、確かに、静かに、移ろい始めていた。私自身の中でも、何かが、少しずつ、確かに、静かに、変わり始めていた。
朝の光が差し込む時刻に、目を覚ます。声を出す必要のない朝食を終え、机に向かう。窓の外では、書庫員たちが、それぞれの持ち場へと、静かに散っていく。誰も、私を、急かさない。この規則正しい静けさが、村での日々とは、まるで違う時間の流れ方を、私にもたらしていた。椅子に座る、その一瞬だけで、心が、少しずつ、落ち着いていくのが分かった。
朝食のパンは、村のものより粗いが、噛むほどに、麦の香りが広がった。私は、その香りを、毎朝、少しずつ、楽しみにするようになっていた。
レスカン閣下は、毎朝、何冊かの本を、私の机に置いていく。パンの作り方の本。菓子の作り方。絵本。童話。医学書。薬草書。──どれも、人間の言葉で書かれたものだった。装丁も、人間王国のものだと分かる、素朴な革表紙だった。この書庫の他の蔵書とは、明らかに違う気配を放っていた。誰が、いつ、選んでくれたのか、私には、まだ、分からなかった。
私は、それらを一冊ずつ、丁寧に読んだ。声を出して読む必要のない読書は、私にとって、昔から、最も自由な時間だった。声を持たない私を、本だけは、何も要求せずに、迎え入れてくれた。村では、こうした本を、手に取る機会さえ、ほとんどなかった。継母は、本を読む時間を、怠惰と呼んだ。ここでは、読むことそのものが、私の仕事の一部として、認められていた。
三日の間、私は、絵本や童話を中心に読んだ。人間王国の童話には、獣国のものとは、また違う教訓が込められているようだった。愚かな王が、正直な樵に諭される話。声を持たない娘が、機転で竜を欺く話――その話を読んだとき、私は、思わず、二度、読み返した。声を持たない者を、無力な存在としてではなく、知恵ある者として描く物語が、この世に存在することを、私は、初めて知った。村では、そんな物語に、出会ったことは、一度もなかった。
四日目の朝、置かれた本の一冊に、栞が挟まっていた。
開くと、そこには「ミオセ村」という文字があった。私の生まれた村の頁だった。見慣れたはずの村の名が、ここでは、まったく違う重みを持って、目に飛び込んできた。
震える指で、その頁を撫でた。人口三百二十。産業、牧羊と製粉。村の地図には、小さく、パン屋の位置まで書き込まれていた。私の家だった。窯の煙突の位置まで、正確に描かれている。指先が、その細部の正確さに、驚きで、止まった。
私は、紙に書いた。
『どうして、これが、ここに、あるのですか』
レスカン閣下は、隣の机で、長く、答えなかった。それから、ゆっくりと、書いた。
『二十五年前から、お持ちしていました』
◇
二十五年前。私はまだ生まれていない。その事実の重さを、私は、ゆっくりと、噛みしめた。
その数字の意味を、私はすぐには飲み込めなかった。ただ、彼が、私という存在が生まれる前から、この頁を持ち続けていたという事実だけが、静かに、胸の中に落ちてきた。
『どうして、この頁を』
私は、続けて訊ねた。レスカン閣下は、少し迷うように、ペン先を紙の上で止めた。
『三度、同じ頁を、開きました。蛇族には、そういう、しるしがあります』
それ以上の説明はなかった。私も、それ以上は訊かなかった。ただ、二十五年という数字だけが、私の中に、静かに、残った。訊かないことも、また、一つの敬意だと、私は、思っていた。
待たれていた、という感覚は、初めてのものだった。
村では、私は誰にも待たれていなかった。朝の火起こしを待たれ、パンを待たれることはあっても、私自身を待つ人は、いなかった。継母は、私が朝、時間通りに窯に火を入れることだけを、待っていた。それは、私という人間を待つこととは、まったく違う種類の「待つ」だった。
この書庫では、違う。私が生まれるより前から、私のための頁が、栞を挟まれたまま、そこにあった。
私は、もう一度、紙に書いた。
『二十五年前、あなたは、まだ、私を、知らなかったはずです』
『それなのに、どうして、待つことが、できたのですか』
レスカン閣下は、しばらく、ペンを止めていた。それから、ゆっくりと、答えた。
『分かりません。ただ、待つこと自体が、苦ではありませんでした』
『書庫の頁は、逃げません。待つ、という行為は、私にとって、最も、得意なことでした』
私は、その答えを、何度も読み返した。二十五年という時間を、苦もなく費やせる人が、この世に、存在するのだと、初めて知った。私にとっての二十五年は、まだ、生きてきた年月よりも長い。想像すること自体が、難しかった。
蛇族の時間の流れ方は、人間のそれとは、根本から違うのだろう。彼にとっての一年は、私にとっての一年と、同じ重さを持たないのかもしれない。それでも、彼が、その長い時間を、私のために費やしてくれたという事実だけは、揺るがなかった。
私は、地誌の頁を、そっと閉じた。閉じても、その事実は、消えなかった。
◇
その日の午後、書庫員の一人が、通りすがりに、私の机の本の山を見て、足を止めた。中年の女性で、名をロサ、と紹介された。書庫の会計を担う者だという。
「お嬢は、人間の書物にも、詳しいのですか」
私は頷き、地誌の該当頁を指した。産業の項目に、誤りがあることに気づいていた。牧羊の記述が、実際の村の暮らしより、少し古い。おそらく、記録された年代が、今より数十年前のものなのだろう。
私は、紙の余白に、訂正を書き添えた。
『この村では、いま、製粉のほうが、主な産業です。牧羊は、三軒だけです』
書庫員は、その訂正を見て、目を見開いた。
「……お嬢は、村の暮らしを、正確に、記憶しておられるのですね」
当たり前のことだった。声を持たない私にとって、記憶と観察だけが、世界を掴む手段だった。誰も気づかないような小さな違いに、私は、人一倍、敏感だった。村では、その敏感さを、誰も評価しなかった。ただ、変わり者、として扱われるだけだった。
「他にも、こうした誤りが、あるかもしれません。……お嬢さえよろしければ、他の地誌も、確認していただけますか」
ロサの申し出は、ただの世間話ではなかった。それは、私に、初めて与えられた、小さな仕事の依頼だった。私は、大きく頷いた。頷きの大きさで、自分の意欲を、精一杯、伝えたつもりだった。
その日の午後から、私は、書庫に保管されている、人間王国関連の地誌を、片端から、読み直す作業を始めた。十数冊に及ぶ蔵書だった。声を出さずに、ただ、目と指だけで進める作業は、私にとって、何よりも、性に合っていた。誰かに急かされることもなく、誰かに聞き返されることもなく、ただ、紙と向き合う時間。それは、村では、決して許されなかった種類の、静かな充実だった。
ロサは、その訂正を紙に書き写し、丁寧に礼を述べて去っていった。去り際、彼女は、隣の机のレスカン閣下に、小さく会釈をした。閣下も、それに軽く頷き返す。二人の間に交わされた、無言のやり取りの意味を、私はまだ、正確には理解していなかった。
窓の外、夕暮れの光が、書庫の螺旋階段を、橙色に染めていた。私は、その光を見ながら、この小さな仕事の依頼が、自分にとって、どれほど大きな意味を持つか、まだ、正確には測りきれずにいた。
そのことに、まだ、誰も、大した意味を見出していなかった。
私自身も、まだ、気づいていなかった。
その夜、私は、初めての仕事の依頼を、忘れないように、自分の備忘の紙に、丁寧に書き留めた。小さな一歩だったが、確かな、一歩だった。
紙を閉じ、私は、窓の外の暗がりを、しばらく、見つめていた。明日も、この机で、同じように、頁をめくる自分を、想像することができた。




