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七日目の、指文字

「こわい」の紙を受け取ってから、私は、それを懐にしまった。心臓に近い場所に。あの日から、私の懐には、いつも、彼女の言葉が、宿るようになっていた。それは、これまでの百年になかった、新しい重みだった。不思議と、その重みは、少しも、苦にならなかった。


蛇族の懐は、体温を保つための場所ではない。心臓の位置を、外気から守るための場所だ。私はその紙を、外気からではなく、時間から守りたかった。何年経っても、あの一文字が滲まないように、乾いた場所に、そっと収めた。指先で、その厚みを、何度も、確かめた。焚き火の煙が、遠く、風に流されていった。


彼女が「こわい」と書いた日から、二日が過ぎていた。その二日の間、私たちは、紙の上で、いくつかの言葉を交わした。多くは、日々の些細なやり取りだった。『水を、飲みますか』『はい』『今日の、道は、険しいですか』『少し』。積み重なる言葉の一つ一つは、ささやかだったが、その積み重ねこそが、信頼という名の、目に見えない橋を、少しずつ、架けていくものなのだと、私は感じ始めていた。


道中、彼女は、少しずつ、紙に書く言葉の数を、増やしていった。最初は一語だけだったものが、二語になり、三語になる。その変化の速さに、私は、密かに、驚かされていた。声を持たない分、彼女の中には、これまで、行き場のない言葉が、随分と、積もっていたのだろう。堰を切ったように、ではない。一滴ずつ、確かめながら、溢れ出てくるような、そんな増え方だった。


七日目の夜、野営の焚き火のそばで、私は決めた。今夜、彼女に、指文字を教える。旅の最後の夜に、ふさわしい贈り物だと、そう思った。


蛇族の指は、人間より一関節多く、長く、しなやかにできている。教えるには、少し工夫がいる。私は自分の指の動きを、できるだけ小さく、ゆっくりと見せることにした。同乗の書庫員に、少し離れた場所で、火の番を任せた。この時間だけは、二人きりでいたかった。


指文字は、蛇族にとって、声を持たない者のための言葉ではない。むしろ、声を、あえて使わないための、洗練された言葉だ。書庫の静けさを守るため、代々、磨き上げられてきた体系だった。彼女に、この言葉を教えることは、単に意思疎通の手段を渡すだけでなく、蛇族が最も大切にしてきた、静けさの美意識そのものを、分かち合うことでもあった。


「あいさつ」


指を軽く開き、掌を相手に向ける。彼女は、それを真似た。指がまだ硬い。長時間、ペンを握っていた指は、指文字の柔らかな動きには、まだ、馴染んでいなかった。私は、焦らず、同じ形を、もう一度、繰り返して見せた。


    ◇    


「ごめんなさい」「いいえ」「はい」「こわい」「安心」「紙」「インク」「書く」「待つ」──九つの指文字を、順に教えた。一つ教えるたびに、彼女は、それを、丁寧に、指の中に、刻み込んでいくようだった。


彼女は、一つ覚えるごとに、私の指を、まっすぐ見た。目を伏せることが多かった彼女にしては、珍しいことだった。覚えの早さにも、驚かされた。一度見せた形を、二度目には、ほとんど正確に再現してみせた。声を持たない者は、こうした形を覚える力を、人一倍、鍛えてきたのかもしれない、と私は思った。


「こわい」の形を教えたとき、彼女の指が、一瞬、止まった。数日前、紙に書いたあの一文字と、同じ意味を持つ形だと、気づいたのだろう。彼女は、その形を、何度も、繰り返し、練習した。まるで、その言葉だけは、体の隅々にまで、刻みつけておきたいというように。紙の上の一文字と、指の形と、二つの「こわい」が、彼女の中で、静かに、結びついていくのが、見えるようだった。


九つ、すべて教え終えたとき、彼女は、しばらく、自分の両手を見つめていた。


それから、ゆっくりと、指を動かした。


教えていない形だった。けれど、意味は、分かった。


彼女は、自分の指で、生まれて初めて、「ありがとう」を、作っていた。


誰の形にも似ていない、彼女だけの、不器用な角度だった。指の開き方が浅く、押し出す動きも、まだぎこちない。それでも、間違いなく、「ありがとう」だった。焚き火の灯りが、その指先を、橙色に、優しく縁取っていた。


その瞬間、私は、動けなくなった。


    ◇    


百年、私は書物の中で生きてきた。


百年の間、指文字というものを、何千回と見てきた。書庫員たちの日々の連絡、儀礼の作法、外交の合図。私にとって、指文字は、正確に読み取るべき記号だった。それ以上でも、それ以下でもなかった。誰が、どんな角度で指を組もうと、意味さえ伝われば、それで十分だと思っていた。


彼女の「ありがとう」は、記号ではなかった。


不器用で、角度が少しずれていて、震えていて──それでも、そこには、彼女の百年分にも匹敵する重みが、確かに、あった。声を持たずに生きてきた八年の、初めての一歩が、そこにあった。


私は、目を閉じた。


閉じた瞼の裏に、温かいものが、伝った。


百年生きた蛇族の男が、そのとき、初めて、泣いた。


涙という現象を、私は、これまで、書物の記述としてしか、知らなかった。人間の物語に、しばしば登場する、悲しみや喜びが極まったときの、生理現象。蛇族には、涙を流す機能そのものが、乏しいと言われている。それでも、この夜、私の頬には、確かに、温かいものが伝っていた。


先代の書庫長は、生涯、一度も、涙を見せなかったと聞く。番を持たない蛇族にとって、涙腺は、退化した器官に等しいのだと、教典にも記されている。だとすれば、いま、私の頬を伝うこの温かいものは、退化していたはずの何かが、彼女によって、呼び覚まされた証なのかもしれなかった。


    ◇    


彼女は、驚いた顔をした。それから、そっと、自分の袖で、私の頬に触れかけて、止めた。触れていいのか、分からなかったのだろう。


私は、首を横に振った。触れなくていい、という意味だった。彼女がそこにいて、その指で「ありがとう」を作ってくれた。それだけで、もう、十分すぎるほどだった。


焚き火が、ぱちりと爆ぜた。少し離れた場所で、火の番をしていた書庫員が、こちらに気づいたのか、視線を逸らし、何も見なかったふりをしてくれた。その気遣いが、ありがたかった。


私たちは、それからしばらく、何も交わさなかった。ただ、互いの指を、焚き火の灯りの中で、見つめ合っていた。夜風が、焚き火の煙を、私たちのほうへ、一度、大きく流した。彼女が、煙にむせて、小さく咳をした。私は、思わず、彼女の背に手を伸ばしかけて、止めた。触れない、という禁を、まだ、破るべきではなかった。


彼女は、咳が収まると、私を見て、少しだけ、口角を上げた。声を立てない、控えめな笑みだった。それだけで、十分すぎるほどの、答えだった。


同乗の書庫員が、火の番を終え、静かに、私たちに、毛布を一枚、追加で渡してくれた。夜が、随分と、冷え込んできていた。彼女は、その毛布を受け取り、礼のかわりに、小さく頭を下げた。声を持たなくても、感謝の形は、こんなにも、豊かに、伝わるのだと、私は、また一つ、教えられた。


言葉のない夜が、こんなに満ちたものだと、私は、この日まで、知らなかった。二十五年、待ち続けた末に、ようやく得たものが、たった十の指文字と、一つの不器用な「ありがとう」だった。それで、十分だった。それ以上を望むことが、この夜には、贅沢に思えた。


焚き火が、静かに、燃え尽きていく。残り火の橙が、彼女の横顔を、最後まで、優しく照らしていた。

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