『こわい』と、書いた
五日目の朝、空気は、いつもより、冷たく澄んでいた。窓の外、遠くの山並みが、輪郭までくっきりと見えた。息を吸うと、その冷たさが、胸の奥まで、届いた。馬車の中は、まだ、静かだった。私は紙の前に、長く座っていた。
書きたい言葉は、たくさんあった。母のこと。村のこと。この見知らぬ男の、片膝をついた仕草のこと。マリエルさんの、冷たくなった横顔のこと。けれど、書けば、それは本物になる。書かなければ、まだ、嘘の中にいられる。
嘘の中は、安全だった。安全なだけで、何も進まなかった。私は、この五日間、その安全さに、ずっと、甘えていた。
窓の外、朝靄の中を、鳥が一羽、鳴きながら渡っていった。声を持つ生き物は、あんなにも、簡単に、自分の在処を、世界に知らせられるのだと、私は思った。私には、その一声さえ、真似ることはできない。だからこそ、紙とペンだけが、私にとっての、たった一つの声だった。
朝の光が、馬車の窓から、紙の上に、四角く落ちていた。その光の中で、紙は、ただ白いままだった。私は、何度もペンを取っては、置いた。取っては、置いた。向かいに座る男は、その様子を、急かすことなく、ただ見ていた。見られていることが、不思議と、負担にならなかった。
これまでの五日間、私は、彼という人を、少しずつ、観察してきた。触れない。声を立てない。急がない。彼が、自分に課しているらしいその三つの禁を、私は、言葉にされないまま、体で感じ取っていた。誰も、私に、これほど慎重であったことはない。村では、誰もが、私の沈黙を、都合よく解釈するか、苛立たしく扱うか、そのどちらかだった。
この男だけが、私の沈黙そのものを、尊重しているように見えた。
村での日々、私は、沈黙を、恥じるべきものとして、扱われてきた。返事をしないことは、無礼とみなされ、指文字を使うことは、不便な癖と呼ばれた。沈黙そのものに、価値がある、と示してくれる人に、私は、生まれて初めて、出会っていた。その事実だけで、この旅は、村での二十年とは、まるで違う意味を、持ち始めていた。
だからこそ、私は、その沈黙に、応えたいと思った。応えることが、こわくないわけではなかった。それでも、応えたい、という気持ちのほうが、この朝、わずかに、勝った。
私には、もう、嘘でいられる時間がなかった。窓の外の光が、少しずつ、角度を変えていく。この朝が終われば、また、書けないまま、一日が過ぎてしまう。そうやって、何日も、先延ばしにしてきた。今日だけは、それを、繰り返したくなかった。
指先が、インク壺の縁に触れる。冷たい。羽根ペンを取る。重さが、思っていたより頼りない。手のひらに、じんわりと汗がにじむのが分かった。声を持たない私が、これほど緊張するのは、母を失った夜以来、初めてのことだった。鼓動が、耳の奥にまで、響いていた。
私は、一文字だけ書いた。
『こわい』
インクが、紙に染み込んでいく。その様子を、私はじっと見ていた。
生まれて初めて、誰かに、自分の本当を見せた瞬間だった。
◇
彼は、紙を受け取った。
受け取る手つきは、書庫の貴重な書物を扱うときのような、丁寧なものだった。まるで、私の一文字が、すでに、何か価値のあるものであるかのように。
長く、見ていた。私が思っていたより、ずっと長く。窓の外を、木々の影が通り過ぎていく間、彼はずっと、その一文字だけを、見つめ続けていた。私は、その視線の長さに、かえって、安堵した。すぐに何かを書き返されていたら、私は、自分の一文字が、軽く扱われたように感じたかもしれない。
それから、彼は、紙の下に、自分の文字を書いた。
『私もです』
一拍おいて、続きが書かれた。
『番を見つけた獣人は、生まれて初めて、こわいものを得ます』
さらに、もう一拍。
『失うかもしれない、というこわさです』
私は、その紙を、何度も読み返した。文字の一つ一つを、指でなぞるように。
私だけが、こわいのではなかった。百年生きた蛇族の男にも、こわいものが、あった。しかもそれは、私だった。私という存在そのものが、彼にとっての、初めてのこわさだった。
そのことに、私は、驚きよりも先に、奇妙な安堵を覚えた。こわいのは、自分だけではない。声を持たない私と、百年生きた蛇と、こわさの重さだけは、対等だった。声があるかないか、生きた年月が二十年か百年か、そんな違いを、こわさという一点だけが、静かに、飛び越えていた。
◇
インクの滲みが、まだ、指先に残っていた。
私は、その紙を、そっと握りしめた。
──書くことは、こわい。
──それでも、書かないことのほうが、もっとこわい。
そのことに、私は、この日、初めて気づいた。村では、書くことさえ、誰にも求められなかった。指文字も、紙の文字も、見られなければ、存在しないのと同じだった。ここでは、違う。書けば、誰かが、確かに、見てくれる。見てくれるという確信が、こわさの向こう側に、初めて生まれていた。
私は、これまでの人生で、書きたいことを、飲み込むことにばかり、慣れてきた。飲み込めば、傷つかずに済む。飲み込めば、失望せずに済む。けれど、飲み込み続けた言葉は、どこにも行き場を持たず、ただ、胸の奥に、積もるだけだった。
この一文字は、積もった言葉の、最初の一つだった。
村にいた頃、一度だけ、書いたものを、継母に見られたことがあった。祖母から譲られた古い紙に、私は、誰にも見せるつもりのない言葉を、綴っていた。継母は、それを取り上げ、一瞥もせずに、竈の火にくべた。「不便なうえに、辛気臭いことまで書いて」と、彼女は言った。それ以来、私は、自分の言葉を、誰の目にも触れない場所に、隠すことを覚えた。
この馬車の中で、初めて、その隠す癖を、手放そうとしていた。手放すことが、これほど、体の芯を震わせるものだとは、思っていなかった。
◇
窓の外を、山道が流れていく。
馬車の揺れが、いつもより、穏やかに感じられた。同じ道を、同じ速さで進んでいるはずなのに、体で感じる揺れの質が、違って感じられるのが、不思議だった。
私は、その紙を、そっと、彼のほうへ、押し戻した。自分の言葉であると同時に、もう、二人の言葉になっていた。持っているべきは、私よりも、彼のほうだという気がした。
彼は、少し驚いた顔をしたが、何も言わず、それを、そっと懐にしまった。
声にならなくても、紙は、残る。それを、託せる相手がいるということも、この日、初めて知った。
イリスの紙と、母の一文字は、まだ、私のエプロンの内側にあった。二枚とも、声にならなかった言葉だった。
向かいの男は、それ以上、何も書かなかった。ただ、窓の外に目をやり、懐にしまった紙の重みを、確かめるように、一度、胸に手を当てた。その控えめな仕草が、今の私には、ちょうど良かった。近すぎず、遠すぎない、二人だけの間合いだった。
馬車の揺れに合わせて、机の上の羽根ペンが、微かに、転がった。彼が、それを、さりげなく、手で押さえた。ただ、それだけの仕草に、私は、また、彼という人の細やかさを、見た気がした。
馬車が、小さく揺れた。荷台の隅で、同乗の書庫員が、何かに気づいたように、そっと目を伏せた。彼もまた、この一連のやり取りを、見ないふりで見ていたのだろう。声のない交わりが、いつのまにか、この馬車の中で、静かな出来事として、共有され始めていた。




