紙とインクを、置く
マリエル殿を弔う小さな儀式が終わった朝、空は、昨夜の悲しみを知らないかのように、晴れ渡っていた。その眩しさが、かえって、心に、しみた。鳥の声だけが、いつもと変わらず、朗らかに、響いていた。私は馬車の小机に、一組の道具を並べた。
上質な紙。書庫でしか使わない、千年経っても色褪せないという特製のインク。羽根ペンを一本。荷物の中で、最も丁重に、扱ってきたものだった。この日のために、ずっと、大切に、運んできた。
道具を選ぶのに、私は必要以上に時間をかけた。紙が硬すぎれば、震える指には扱いにくい。インクの粘度が高すぎれば、少しの力でも滲む。羽根ペンも、軸の太さで、握りやすさが変わる。私は、荷の中から三本のペンを試し、最も軽いものを選んだ。彼女の手に、負担をかけたくなかった。こんな些事に、これほど時間をかける自分に、我ながら、驚いていた。書庫の公文書を選ぶときでさえ、これほど、迷ったことはなかった。
紙も、五種類ほど持ち合わせていた。書庫で公文書に使う厚手のもの、日常の記録に使う薄手のもの、外交文書用の高級な羊皮紙まがい。迷った末、私は、最も手に馴染みやすい、中庸の厚さのものを選んだ。彼女が、初めて自分の言葉を綴る紙が、重々しすぎても、頼りなさすぎても、ふさわしくない気がした。
インクの色にも、私は迷った。書庫の黒インクは、公式記録用で、いささか堅苦しい。だが、あまりに柔らかな色合いでは、彼女の言葉の重みを、軽んじることになりかねない。結局、私は、深い墨色を選んだ。彼女の心の内が、どんな色をしているのか、まだ、私には分からなかったからだ。
道具の上に、私は一枚だけ、自分の文字を重ねた。
『あなたが書きたいことを、書いてください』
それだけを書き、机の端に寄せた。書くべき言葉は、他にもたくさんあったが、削り、削り、最後にはこの一文だけが残った。多くを書けば、それは要求になる。要求は、彼女がまだ求めていないものだった。
◇
午前中、彼女は道具に触れなかった。目を向けることさえ、しなかった。馬車の揺れに合わせて、道具だけが、静かに、机の上で、微かに動いていた。
昼食も、口にしなかった。私は勧めなかった。勧めれば、それは強制になる。彼女が選ぶ速度に、私が合わせるべきだった。同乗の書庫員が、心配そうに、果実を差し出そうとしたのを、私は目で制した。
「閣下。お嬢は、もう三日、ろくに食べておられません。このままでは……」
「無理に、勧めるな。彼女は、飢えて、弱っているわけではない。ただ、選ぶ速度が、私たちより、ずっと慎重なだけだ」
私は、そう答えたが、内心では、私自身にも、確信があったわけではなかった。ただ、彼女の呼吸や、指先の動きから、まだ、限界には至っていないと、そう信じるしかなかった。信じることしか、私にできることは、なかった。四十年、経験だけを頼りに生きてきた私にとって、確信のないまま、判断を下すのは、久しぶりのことだった。
午後、彼女の指が、初めて紙の端に触れた。触れただけだった。ペンは握らなかった。
私は、書庫の書物を扱うときの癖で、その一瞬を見逃さなかった。指先が紙の質感を確かめている。何かを書く準備を、体のほうが先に始めていた。指の腹で、紙の目を確かめるような仕草。パン生地の水加減を見るのに似た手つきだった、と、後になって、私は気づくことになる。
夕方、彼女は紙を、そっと伏せた。何も書かれていない面を、上にして。その仕草には、迷いと、ほんの少しの覚悟が、同居していた。
私は、その紙を回収しなかった。彼女が伏せたということは、まだ、途中だという意味だと思った。急いで片付ければ、それは終わりの合図になる。私は終わらせたくなかった。
代わりに、もう一言だけ、書き加えた。
『明日の朝も、ここに置きます』
◇
野営地に着くと、同乗の書庫員が、焚き火の準備をしながら、私にこう言った。
「閣下。人間の娘に、書くことを教えるのは、初めてのことでしょう。何か、参考にされた前例が、あるのですか」
「ない」
私は、正直に答えた。
「では、なぜ、そこまで、迷わず、道具を選ばれたのですか」
「迷わなかったわけではない。ただ、迷う時間さえ、彼女に見せるべきではないと、思っただけだ」
見習いは、少し考え込むように、黙った。それから、遠慮がちに、続けた。
「……蛇族の中には、人間を、一段、低いものとして見る者も、少なくありません。閣下は、そうした声を、これまで、どのように、受け止めてこられたのですか」
「受け止めたことはない。聞かなかったことにしてきた、というほうが、正確だろう」
私の答えに、見習いは、小さく笑った。その笑いには、非難ではなく、どこか、安堵に似た響きがあった。若い書庫員たちの中にも、人間を軽んじる風潮に、密かに違和感を抱く者が、いないわけではないのだろう。
夕食の準備が整うと、私は、彼女の分の器を、いつもより、少しだけ、彼女の近くに置かせた。声をかけるかわりに、距離だけを、わずかに、縮めておきたかった。
◇
その夜、野営地で、私は道具を、彼女の寝床の近くに移した。
蛇族の感覚は、匂いにも敏感だ。紙とインクの匂いが、彼女の眠りのそばにあれば、目覚めたときに、まず、それが目に入る。目に入れば、思い出す。思い出せば、いつか、書く。
私は、自分がそこまで計算していることに、少し呆れた。二十五年、待ち続けた男のすることとしては、細かすぎる計算だった。だが、細かさこそが、私にできる唯一の贈り物だった。
言葉を持たない者に、言葉で急かすことはできない。できるのは、言葉を使わない形で、扉を、開けたままにしておくことだけだった。
見張りの交代の合間、同乗の書庫員が、私に小声で訊ねた。
「閣下は、なぜ、そこまで、慎重になさるのですか。番であれば、いずれ、心は開くものと、聞いております」
「いずれ、開く心を、急いで開けようとすれば、二度と開かなくなることもある」
私はそう答えた。答えながら、その言葉が、自分自身への戒めでもあることに、気づいていた。
「閣下は、他の五組の獣人たちとは、少し、違うやり方を、なさっているように、見えます」
見習いの指摘は、正しかった。銀狼族の隊長は、初日から、リアナに何度も声をかけていた。獅子族の将軍は、マリエルの傍らを、決して離れなかった。私だけが、距離を保ち、言葉を惜しんでいた。それが正しいのか、間違っているのか、私自身にも、確信はなかった。ただ、彼女という人には、この距離感が必要だと、直感が、そう告げていた。
夜半、私は一度だけ、彼女の寝顔を確認しに、寝床の近くまで歩いた。彼女は、道具を、抱きかかえるようにして眠っていた。無意識のうちに、その存在を、確かめようとしているように見えた。私は、それ以上近づかず、静かに、その場を離れた。
眠っている間の彼女の表情は、起きている間よりも、幾分か、幼く見えた。緊張という鎧を、眠りの間だけは、脱ぎ捨てているのだろう。その無防備な寝顔を見られる立場にいることを、私は、まだ、何の資格も得ていないと分かっていながら、密かに、ありがたく思っていた。
翌朝、彼女が目を覚ましたとき、その視線が真っ先に、道具のほうへ向くのを、私は見た。
見なかったふりをして、私は、荷物の点検をしていた。だが、心の中では、その一瞬の視線の動きを、何度も、繰り返し、確かめていた。四十年、こんなにも、些細な出来事に、心を動かされたことは、なかった。
朝の空気は、澄んでいた。今日も、彼女にとって、穏やかな一日になりますように。私は、そう、心の中だけで、願った。




