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焚き火の向こうで、母が泣いていた

野営三日目の夜、風の匂いが変わった。土と、乾いた草の匂いに、微かな煙の匂いが混ざる。虫の声が、遠くから、途切れ途切れに、聞こえていた。空には、星が、いつもより、多く見えた。地面の冷たさが、毛布越しにも、伝わってきた。旅も、もう半ばを過ぎていた。誰もが、それぞれの疲れを、静かに、抱えていた。焚き火の向こうから、声が聞こえた。


「子供たちは、もう、私のスープを飲むんです」


市場帰りの女性──マリエルさんという名だったと、後で知った──が、膝をついた獅子族の男に向かって、そう呟いていた。男は何も言わず、ただ聞いていた。聞くことしかできない、という顔で。将軍と呼ばれる立場の男が、そんな顔をすることがあるのだと、私は初めて知った。地位や強さとは、無関係な、剥き出しの表情だった。


「三人います。上の子は、もう十歳。下の二人は、まだ、私がいないと、朝も起きられない子たちです」


その声の震えのなさに、私は、かえって、耳を澄ませた。


マリエルさんの声は、震えていなかった。震えていないことが、かえって、痛ましく聞こえた。悲しみを、感情のまま吐き出すのではなく、事実として、淡々と語る声。私は、その声の中に、覚悟に似た何かを、感じ取っていた。


村を出る前、子供たちに、何と言い残してきたのだろう。私には、想像することしかできなかった。声を持つ人には、声を持つ人なりの、別れの重さがある。声を持たない私の別れとは、また違う種類の、痛みなのだろう。


私は、自分が声を持たないことを、そのときほど、はっきりと意識したことはなかった。


マリエルさん。その続きを、聞かせてください。私にはそう言う声がない。紙もインクも、まだ手元になかった。声を持たない者は、聞きたいと思った瞬間に、それを伝える術を持たない。持たないまま、ただ、闇の向こうの背中を見ているしかない。


焚き火の炎が、二人の輪郭を橙色に炙っていた。私はその外側で、膝を抱えて座っていた。少し離れた場所では、仕立て屋のテオさんが、黒豹族の女性に、何かを訴えるように、身振りだけで語りかけていた。声にならない言葉が、この馬車の旅には、いくつも溢れていた。夜の闇が、その声にならない言葉たちを、優しく、覆い隠していた。


    ◇    


夜が更けても、私は眠れなかった。母のことを、考えていた。


母は、私に何かを言い残す暇もなく、いなくなった。最後の声だけが、耳に残っている。それ以外は、何一つ。母の好きな花の色も、母が本当はどんな夢を持っていたのかも、私は、ついに聞かないままだった。母の生きた時間の大部分を、私は、子供だったという理由だけで、知らずに終えてしまった。


母の顔さえ、いまでは、少しずつ、記憶の中で、輪郭がぼやけ始めている。それが、何より、こわかった。覚えているのは、いつも、頬に、粉をつけた私を、優しく叱る、あの声の調子だけだった。声そのものは、もう、正確には、思い出せない。ただ、その調子だけが、耳の奥に、微かに、残っていた。


マリエルさんは違う。まだ言葉を残す時間がある。それが、うらやましかった。うらやましいと思う自分を、少し、恥じた。人の悲しみを、自分の欠けたものと比べるべきではない、と分かっていても、比べずにはいられなかった。夜の闇が、その醜い感情ごと、私を、覆い隠してくれた。


横になっても、眠気は訪れなかった。馬車の御者が、遠くで交代の見張りにつく音。虫の声。焚き火の爆ぜる音。声のない私の世界は、いつも、こうした音だけで満ちていた。音は、私を裏切らない。声は、時に、私を置き去りにする。


隣で、リアナさんが、小さく寝返りを打った。眠っているようで、眠っていないのが分かった。彼女も、この夜、何かと戦っているのだろう。私たちは、誰も、言葉を交わさなかった。それでも、同じ焚き火の熱を分け合っているというだけで、少しだけ、心細さが薄れる気がした。


しばらくして、リアナさんが、小声で、誰にともなく呟いた。


「……こわいのは、私だけじゃ、ないのね」


その言葉は、私に向けられたものではなかったはずだ。それでも、私は、頷きたい衝動に駆られた。頷けなかった。暗闇の中で、彼女には、私の頷きが、見えなかっただろうから。代わりに、私は、そっと、彼女の毛布の端に、自分の手を重ねた。声にならない相槌のつもりだった。リアナさんは、驚いたように、一瞬、体を強張らせたが、それから、静かに、力を抜いた。


翌朝、目が覚めると、野営地が静まり返っていた。


焚き火のそばに、紫の花が、一面に咲いていた。マリエルさんが、自ら、その毒薊を集め、周りに撒いたのだと、後になって聞かされた。彼女は、その花の中で、冷たくなっていた。


私は声を上げなかった。上げられなかった。ただ、その光景を、目に焼きつけた。


    ◇    


獅子族の将軍は、しばらく、その場から動かなかった。誰も、彼に声をかけなかった。かけられる言葉が、この場に、存在しなかったからだと思う。


他の四組も、それぞれの馬車の陰で、静かに、この朝を、迎えていた。誰も、大きな声を上げなかった。声にならない喪失が、野営地全体を、重く覆っていた。


背後に、影が立つ気配がした。振り返ると、レスカンだった。彼は、何も言わず、懐から、紙を一枚と、小さなインク壺を取り出し、私の手の届く位置に、そっと置いた。前の晩、渡すのをためらっていた、あの紙だった。


私は震える指で、それに、一文字だけ書いた。


『母』


マリエルさんのことを、私はよく知らない。話したことも、目を合わせたことさえ、ほとんどなかった。それでも、その一文字だけは、書かずにいられなかった。子を持つ女の背中を、私は焚き火越しに見ていた。それだけの縁だった。それだけの縁で、十分だった。


紙を折りたたみ、エプロンの内側にしまう。イリスの紙の隣に、それは収まった。二枚の紙が、胸の上で、微かに擦れ合う感触がした。


レスカンは、それ以上、何も言わなかった。ただ、少し離れた場所に、立ち続けていた。その距離の取り方には、私の悲しみに踏み込まない、という意志が、はっきりと感じられた。悲しみを埋める言葉を持たない者同士が、黙って寄り添う。それだけの時間だった。


その日の埋葬は、簡素なものだった。獅子族の将軍が、自ら、土を掘った。誰も、彼を手伝おうとしなかった。手伝うことが、かえって、彼の弔いの形を、壊してしまう気がしたからだと思う。私は、離れた場所から、その背中を、ただ、見守っていた。


    ◇    


その日、馬車は、いつもより静かに走った。誰も、何も話さなかった。車輪の軋む音だけが、いつもより、大きく聞こえた。


獅子族の将軍は、道中、毎朝、青い野花を摘んでは、荷台の隅に、そっと供えていた。誰に命じられたわけでもない、その繰り返しの仕草だけが、彼の悲しみの言葉になっていた。私は、その仕草を見るたびに、声を持つ者もまた、時に、声にならない悲しみを抱えるのだと、知った。


私は窓の外を見た。山の稜線が、ゆっくりと後ろへ流れていく。声を持たない私にできることは、見ること、覚えておくこと、そして、いつか紙に書き留めることだけだった。


それで、足りるとは思わない。それでも、それしかない。


私は、エプロンの内側の二枚の紙に、そっと手を当てた。声にならなかった言葉が、二枚とも、確かに、そこにあった。窓の外、山道の向こうに、まだ見ぬ蛇族領が、待っていた。


馬車の揺れに身を任せながら、私は、これから先、何枚の紙を、この胸の内側に、増やしていくことになるのだろうと、ふと、思った。

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