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七日間の観察

馬車が王都を出ると、私は自分に三つの禁を課した。誰に言われたわけでもない、自分自身への戒めだった。窓の外を、王都の尖塔が、ゆっくりと、遠ざかっていった。石畳の音が、やがて、土の道の、鈍い音に変わった。


触れない。声を立てない。急がない。


触れれば、彼女は逃げ場を失う。声を立てれば、獣国語の低さが、人間の耳には威圧に聞こえる。急げば、二十五年待った意味そのものが崩れる。三つとも、単純な理屈だった。単純だからこそ、破りやすい理屈でもあった。


先代の書庫長なら、こうした細やかな配慮を、迂遠だと笑ったかもしれない。だが、私にとって、この三つの禁は、二十五年分の待ちに、ふさわしい、最低限の礼儀だった。


彼女は、膝の上で手を組んだまま、窓の外を見なかった。見ないことで、何かを守っているように見えた。その姿勢は、村を出てから、ずっと、変わらなかった。


指が、ずっと震えていた。恐怖のためだけではないと、私は思った。インクの染みが、爪の際に薄く残っている。あれは、書く人の指だ。何かを表現する手段を、声以外に持っている人の指だった。


私は、これまでの人生で、多くの人間や獣人の指を見てきた。書庫員の指、外交使者の指、商人の指。それぞれの指には、その人の生業が、静かに刻まれている。彼女の指には、パン生地をこねる硬さと、紙に触れる繊細さの、両方が、同居していた。不思議な指だと思った。力強さと、脆さが、同じ場所に、共存していた。二十五年、地誌の頁の上でしか、想像したことのなかった指だった。実物は、想像よりも、ずっと、繊細だった。


    ◇    


一日目、私は何も話しかけなかった。彼女もまた、何も求めなかった。沈黙が、馬車の中を満たした。獣人にとって、沈黙は不快なものではない。むしろ、多くを語る。私は彼女の呼吸の間隔で、緊張の度合いを測っていた。息を吸う速さが、村を出てから少しずつ、緩やかになっていくのが分かった。恐怖が消えたわけではない。ただ、体が、この状況に、少しずつ、慣れ始めていた。


同乗していた見習いの書庫員が、休憩のたびに、彼女の様子を気にかけた。「食事は、お摂りにならないのですか」と、私に小声で訊ねる。私は首を振った。今は、まだ、勧める段階ではない。急かせば、彼女の中の何かが、また、固く閉じてしまう気がした。若い見習いには、まだ、この慎重さの意味が、伝わりきっていないようだった。


「閣下は、いつも、そのように、辛抱強くいらっしゃるのですか」


見習いは、そう重ねて訊いた。私は、少し考えてから、答えた。


「辛抱強い、というより、他に、やりようを知らないだけだ。私は、この百年、待つこと以外の方法で、何かを得たことが、ほとんどない」


見習いは、それ以上、何も言わなかった。ただ、少し驚いた顔をした後、静かに、荷物の点検に戻っていった。私自身、あれほど、率直な言葉を、口にしたのは、久しぶりのことだった。


二日目、野営地で、彼女は焚き火から少し離れた場所に座った。他の五人の輪には入らない。入らないことを選んだのか、入れなかったのかは、私には分からなかった。私は、彼女の視線の先を、目で追った。彼女は、焚き火を囲む他の五組を、順に、一人ずつ、見ていた。観察している、と分かった。声を持たない者にとって、観察は、言葉の代わりになる行為なのかもしれなかった。


夜が更けても、彼女は眠らなかった。膝を抱えたまま、じっと、暗闇を見つめていた。私も、同じように、眠らなかった。番となった相手が眠らない夜に、自分だけが眠るという選択を、私はしたくなかった。


三日目の夜、彼女は初めて、私のいる方角を、一瞬だけ見た。


見た、というより、確かめた、というほうが近い。私がまだそこにいるか。逃げていないか。あるいは──近づいてこないか。


私は動かなかった。琥珀の瞳は、暗がりでも人間の目より利く。それを彼女は知らない。だから私は、見られていることに気づかないふりを、丁寧に続けた。


    ◇    


三日目の夜が明ける頃、彼女は初めて、私の顔を、正面から見た。その視線を受けた瞬間、私は、息を止めていた。


見られる、という経験を、私はあまりしたことがない。書庫では、誰もが私の指示や判断を見るのであって、私自身を見ることは少ない。彼女の視線には、それとは違う質があった。値踏みでも、恐れでもなく、ただ確かめるような。


私は目を合わせたまま、動かなかった。動けば、彼女がまた目を逸らす気がした。その一瞬の間、私は、彼女の瞳の奥に、何か、探るような光を見た気がした。私という存在が、安全かどうかを、確かめているのかもしれなかった。


その日の昼、休憩の折、彼女は馬車を降り、少し離れた木の根元に腰を下ろした。他の五組も、それぞれの場所で、思い思いに休んでいた。私は、彼女から見える位置に、あえて座った。近づきすぎず、遠すぎない距離。彼女が、目を上げれば、いつでも私の姿を確認できる場所を選んだ。


風が吹き、彼女の栗色の髪が、わずかに揺れた。彼女は、その髪を耳にかけながら、遠くの山並みを見ていた。何を思っているのか、私には読み取れなかった。ただ、その横顔に、恐怖以外の色が、わずかに混じり始めているのを、感じた。


同乗の書庫員が、そっと、私に耳打ちした。


「閣下。彼女は、他の人間たちとは、少し、違うように、見えます」


「どう、違う」


「恐れて、いないわけでは、ないでしょう。……ですが、恐れの中に、何か、芯のようなものを、感じます。声を持たないことに、負けていない、というか」


私も、同じ印象を、抱き始めていた。声を持たないことは、この娘にとって、弱さの証ではなく、静かな強さの土台になっているのかもしれない。そう思うと、彼女への畏敬に似た感情が、また一つ、私の中に、積もった。二十五年、待ち続けた甲斐が、少しずつ、形になっていくようだった。


その日の夜、私は彼女の様子に、小さな変化を見つけた。膝の上の手が、時折、何かを書くように、宙で微かに動く。書きたい言葉があるのだ、と分かった。だが、書く道具を、彼女は持っていなかった。


私は懐から、小さな紙を一枚取り出しかけて、やめた。まだ早い。まだ、彼女が自分から求める前に、与えるべきではない。急げば、二十五年の意味が崩れる、と自分に言い聞かせた三つの禁の一つを、私はここで、もう一度、確かめ直した。懐に戻した紙の感触が、指先に、しばらく残っていた。


同じ夜、焚き火の向こうで、市場帰りの女性が、誰かに向かって小さく何かを呟いているのが聞こえた。彼女はその声のほうを、じっと見ていた。何かを、聞き取ろうとするように。私も、同じ方向に耳を澄ませたが、獣人の耳をもってしても、その呟きの中身までは、聞き取れなかった。


    ◇    


私は、決めた。もう、待つだけでは足りない。


差し出すものが必要だった。声ではなく、彼女が使える形のもの。


書庫の最奥から持ってきた紙とインクは、まだ懐にしまったままだった。渡す瞬間を、間違えたくなかった。道具そのものよりも、渡し方のほうが、彼女にとって、大きな意味を持つ気がした。


彼女の震える指が、膝の上で、また宙に文字を書く。何を書こうとしているのか、私には読めない。読めないことが、これほど、もどかしいとは思わなかった。


百年、書物の中で生きてきた。文字を読むことにかけては、誰にも負けないと思っていた。人間の古語も、獣国の各族の文字も、暗号のように崩された筆記体も、これまで読めなかったものはなかった。


けれど、この娘の指が宙に描く文字だけは、まだ、私には読めなかった。


読めない、ということが、これほど、心地よい種類の焦れったさになるとは、思ってもいなかった。分からないから、知りたくなる。知りたいから、待つことが、苦にならない。二十五年の待ちも、こうした、小さな焦れったさの積み重ねの、延長線上にあったのかもしれない。


私は、同乗の書庫員に、明日の朝、道具を彼女の前に置く許可を求めた。求める必要など、本来はなかった。すべての決定権は、私にある。それでも、私は、誰かに、この判断を、確かめてもらいたかったのかもしれない。


書庫員は、少し驚いた顔をした後、静かに頷いた。


「閣下が、これほど、慎重になられるのを、初めて見ました」


私は答えなかった。答える必要のないほど、その言葉は、正しかった。焚き火の炎が、静かに、爆ぜた。夜が明ければ、私は、二十五年分の待ちを、一枚の紙に、託すことになる。


星のない夜空を、私は、しばらく、見上げていた。マリエル殿の弔いは、まだ、翌朝を待たなければならなかった。この夜だけは、誰もが、それぞれの静けさの中に、沈んでいるようだった。

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