広場の、六人
馬車の車輪が石畳に変わった音で、王都に入ったと分かった。土の道の、くぐもった振動から、石畳の、硬く跳ねる振動へ。音の変化一つで、私は、周囲の景色を、思い描くことができた。声を持たない私だけの、密やかな特技だった。
窓の外を見る勇気はまだなかった。代わりに、向かいに座る男の気配で、外の広さを測った。彼は姿勢を変えない。呼吸の音さえ、ほとんど聞こえない。石畳の振動だけが、車輪を通して、膝の上の手に伝わってくる。その振動の細かさに、私は、なぜか、少し安心した。馬車の中の空気は、村を出た朝より、いくらか、和らいでいた。
村を出てから、半日が過ぎていた。窓の隙間から差し込む光の角度で、それくらいは分かった。声を持たない私にとって、時間は、いつも、光と音と、体の疲れの具合で測るものだった。村の教会の鐘が聞こえなくなってから、もうずいぶん経つ。あの鐘の音がなければ、私は、朝と昼と夜の境目さえ、あやふやになる気がした。
馬車が、大きく揺れて止まった。扉の外から、大勢の人の気配がした。ざわめきというより、押し殺した緊張の気配だった。私は、思わず、膝の上の手を、握りしめた。
王城前広場に着くと、私は馬車を降ろされ、五人の列に加えられた。
一番端に、白いドレスの女性がいた。花嫁衣装のまま連れてこられたのだろう、ベールの下で唇だけが小さく動いている。「ごめんなさい」、そう読めた。隣には、市場帰りらしい籠を提げたままの女性。籠の中の林檎が一つ、地面に転がっているのに、誰も拾おうとしない。仕立て屋らしい男は、口の端に待ち針を挟んだまま、震えていた。鎧の留め具を半分外した騎士は、なぜか跪いている。白衣の女性だけが、怯えていなかった。むしろ、周囲を観察する目をしていた。
私も、観察する側に回ろう、と思った。見られてばかりの人生だった。今日くらいは、見る側でいたい。
広場を囲む観衆の中に、村から一緒に来た顔は、なかった。父も、継母も、イリスも、ここまでは、付き添うことを許されていなかった。当然のことだと、頭では分かっていた。それでも、たった一人で、見知らぬ土地の中央に立たされているという事実が、今更のように、肌に迫ってきた。
背後に、影が立った。振り返らなくても分かった。温度のない気配。私の番だという、あの蛇族の男だった。名も、身分も、まだ、知らなかった。それでも、彼の気配だけは、他の五人の獣人と違い、すぐに、区別がついた。
◇
広場の周囲には、村よりずっと多くの見物人が集まっていた。誰もが、遠巻きに、この六人を見ていた。憐れみと好奇心が入り混じった視線の中で、私だけが、逆に、彼らを観察していた。声を持たない者の癖だった。見られることに慣れた分だけ、見返すことにも、抵抗がなくなっていた。これほど多くの視線を、一身に浴びるのは、村を出て、初めてのことだった。
隣に立つ花嫁姿の女性――後にリアナという名だと知った――が、私のほうへ、そっと視線を向けた。目が合うと、彼女は、唇の動きだけで、何かを伝えようとした。読み取れたのは、「大丈夫?」という一言だった。見ず知らずの相手を、まず気遣うその優しさに、私は、小さく頷いて応えた。
同じ立場に置かれた者だけが、分かり合える何かが、確かに、あった。声を交わさずとも、その一瞬で、私たちは、互いの覚悟を、確かめ合っていた。
六人の背後に立つ獣人たちの中で、一人だけ、違う空気をまとった者がいた。
私たちの少し後ろ、蛇族の一団の端に控える、年配の男。マントの意匠が他とわずかに違う。刺繍の金糸が太く、房飾りの数も多い。位の高い者の随行だと、直感した。
その男の視線が、一瞬、私を通り過ぎた。
通り過ぎただけではなかった。戻ってきて、もう一度、頬の粉から、震えない指先まで、値踏みするように眺めた。値踏み、という言葉が正しいのかは分からない。ただ、歓迎の目ではなかった。値踏みの後、彼は、隣に立つ別の蛇族の男に、何かを耳打ちした。
「あれが、閣下の番か」
その声は、思いのほか、はっきりと聞こえた。獣人の声は、風向き次第で、思わぬ距離まで届くことがあるらしい。私は、聞こえなかったふりを、装った。
「人間の、それも、声のない娘だと聞く」
「閣下も、酔狂なことだ」
二人とも、私を見たまま、表情を変えなかった。私は視線を逸らさなかった。逸らせば、それが答えになる気がした。声で言い返す術がない分、視線だけは、逸らさずにいたかった。
男は、ふ、と息を吐き、視線を外した。何を思ったのかは、読めなかった。ただ、その一瞬の値踏みが、これから先の何かを、暗示しているような気がしてならなかった。私は、その予感を、胸の奥に、そっと、しまい込んだ。
◇
エルフォニア王の宣言が始まった。
長い前置きのあと、六人の名が順に読み上げられる。リアナ・オルコット。花嫁姿の女性は、その名で呼ばれた。隣で、銀狼族らしい男が、片膝をつき、彼女の頭にベールをかけ直す仕草をした。儀礼にはない所作だと、後で知った。マリエル。市場帰りの女性が、その名で呼ばれると、獅子族の将軍が、深く頭を下げた。テオ。仕立て屋の男が名を呼ばれ、黒豹族の女が、彼の肩に手を置いた。エドリック。跪いたままの騎士が、灰熊族の薬師に、静かに支えられた。
私の番だという男は、名を呼ばれても、身じろぎ一つしなかった。揺るがない、というより、揺るがないふりをしているようにも、私には見えた。他の五人の獣人たちが、それぞれの番の名を呼ばれた瞬間に見せた反応――安堵、緊張、隠しきれない喜び――と比べると、彼の無表情さは、際立って異質だった。
白衣の女性、アイリスと呼ばれた人だけが、私のほうへ、ほんの少し首を傾けた。目が合う。彼女は微笑まなかった。ただ、確かめるような一瞬の間があった。──あなたも、大丈夫、というふうに。
私は頷きで返した。声のない挨拶が、六人の中に、静かに行き交った。声を持つ者たちの列の中で、声を持たない挨拶だけが、確かに、通じ合っていた。
背後の影は、一歩も動かなかった。宣言が終わるまで、ずっと。
その揺るがなさが、なぜか、私を落ち着かせた。
◇
「ミオ・パン。本年の、番認定者である」
自分の名が読まれた瞬間、村での日々が、遠い出来事のように感じられた。継母の声、義妹の指文字、頬の小麦粉。すべてが、この広場の石畳の上で、新しい一日に置き換わっていく。
「番認定者」という響きに、私は、まだ、実感を持てずにいた。ただの言葉として、耳を素通りしていく。けれど、その言葉の重さを、これから、いやというほど、思い知ることになるのだろうと、どこかで、予感していた。
隣に立つマリエルの手が、籠の持ち手を握りしめていた。指の関節が白い。私は、その手に触れることも、声をかけることもできない。ただ、視界の端に留めておくことしかできなかった。彼女の背後に立つ獅子族の将軍は、彼女の一挙手一投足を、片時も見逃すまいとするように、じっと見つめていた。
観察する側に回る、と決めたはずなのに、私はただ、見ることしかできない自分に気づいた。
見ることしかできない。それでも、見続けることを、私はやめなかった。誰かの痛みを、声で分かち合えないなら、せめて、忘れずに覚えておくことだけはできる。それが、声を持たない私にできる、唯一の弔いのようなものだった。
宣言が終わり、六組は、それぞれの馬車へと分かれていった。私の隣を通り過ぎるとき、リアナが、もう一度、唇だけで、「また、会いましょう」と動かした。アイリスは、何も言わず、ただ小さく頷いた。声を持つ者と持たない者の境界が、この瞬間だけは、ひどく薄いものに感じられた。
背後で、蛇族の男が、ようやく一歩、前に出た。
年配の男の値踏みするような視線が、まだ、背中のあたりに残っていた気がした。振り返らなかった。振り返れば、その視線に、答えを返さなければならない気がしたからだ。答えは、まだ、私自身の中にもなかった。
広場を離れる馬車の窓から、王都の尖塔が、少しずつ、遠ざかっていくのが見えた。




