百年と二十五年の予感
書庫の空気は、いつも紙と蝋の匂いがする。古い紙の、乾いた甘さと、蝋燭の、微かな油の匂い。物心ついたときから、この匂いの中で生きてきた。書庫の外の暮らしを、想像したことすらなかった。
私はこの匂いの中で百年を過ごした。蛇族にとって、それほど長い時間ではない。だが番を待つには、十分すぎるほど長い。百年、という数字を、私は、これまで、ただの通過点としか、考えたことがなかった。振り返れば、その通過点の一つ一つに、確かな重みがあった。
蛇族に番は稀だ。二百年生きる者のうち、番を得るのは、十人に一人もいない。同じ書庫に生まれ育った兄弟子は、七十年で番を得て、書庫を出た。彼が最後に交わした言葉を、私はまだ覚えている。「レスカン、お前は、書物のほうが向いている。それでいい」。慰めではなく、事実として、そう告げられた。
私は早くから、自分がその十人には入らないと決めていた。決めていた、というより、諦めていた、というほうが正確かもしれない。書庫の主として生涯を終える。それが私の描いていた未来だった。未来、と呼ぶには、あまりに平坦な道だったが、平坦であることを、私は不満に思ったこともなかった。
二十五年前のある朝、その未来に、小さな亀裂が入った。
◇
蛇族には、こういう習わしがある。番に迷う者、まだ出会わぬ番を思う者は、書庫に眠る、遠い国々の地誌を、目を閉じて開く。指の触れた頁の土地に、いつか、自分の番がいる――そう、言い伝えられている。人間で言う、おみくじに近いものだ。多くの者は、一度だけ試し、笑って忘れる。同じ土地を、三度、引き当てた者だけが、それを、ただの偶然ではないと、認めることになっていた。
私は、この習わしを、四十年、一度も、試したことがなかった。番など、自分には、縁のないものだと、決めていたからだ。
二十五年前のある日、なぜか、その気になった。理由は、自分でも、うまく説明できない。目を閉じ、人間王国エルフォニアの地誌を、無造作に開いた。指が触れたのは、北方山岳、ミオセ村の頁だった。人口三百二十、産業は牧羊と製粉。取り立てて珍しくもない、一村の記録だった。私はそれを閉じ、試したことすら、忘れようとした。
一月ほど過ぎた頃、ふと、また、同じことを試した。指は、また、同じ頁を、開いた。
偶然だと思おうとした。書物には癖がある。よく開かれる頁は、紙の繊維が緩み、自然と開きやすくなる。理屈は、いくらでも立てられた。私は、四十年、書庫を整えてきた男だ。理屈で説明のつかないことを、そのまま受け入れる訓練は、していなかった。だからこそ、この一致を、まだ、偶然の範疇に、押し留めていた。
三度目に試したのは、さらに一月ほどのちだった。指は、迷いなく、同じ頁を、開いた。
私は、その日、しばらく、その頁の前から動けなかった。書庫の空気が、いつもより、重く、感じられた。
三度目の、あの頁の重さだけは、もう、偶然では、片付けられなかった。
◇
私は、その頁に栞を挟んだ。指先が、その動作を、いまでも、はっきりと覚えている。
それから二十五年、栞は動かなかった。私は人間王国の本を集め続けた。パンの作り方、菓子の作り方、絵本、童話、地誌の増補版。年に二度、人間王国から入る商人に頼み、新しい版が出るたびに取り寄せた。書庫員たちは、書庫長の奇妙な蒐集を、黙って見過ごしてくれた。誰も理由を訊かなかった。訊かれたところで、答える言葉を、私自身が持っていなかった。
サフィンだけは、一度だけ、訊ねたことがある。二十年ほど前のことだ。
「閣下は、人間の書物ばかり、集めておいでですね」
「趣味だ」
私はそう答えた。嘘ではなかった。趣味と呼べるほどには、そこに理由がなかった。あるいは、理由がありすぎて、言葉にできなかった。
サフィンは、それ以上、訊かなかった。ただ、以来、人間王国から届く荷を、いつも真っ先に、私の机まで運んでくれるようになった。彼女なりの、詮索しない優しさだったのだろう。
待つ、ということに、慣れていく自分がいた。慣れることと、諦めることは、似ていて違う。私は諦めていなかった。ただ、待ち方だけを、覚えていった。書物というものは、待つのに向いている。頁は逃げない。栞を挟んだ場所に、いつまでも留まっている。生き物のように、老いたり、変わったりしない。
私は、その静けさを、愛していたのだと思う。
◇
番探しの宴の日取りが決まったとき、サフィンが言った。
「閣下は、今度こそ番が現れると、思われますか」
私は答えなかった。答えられなかった。二十五年前の栞のことは、誰にも話していない。話せば、期待になる。期待は、外れたときに、書庫の静けさを壊す。
出立の前夜、私は最後にもう一度、地誌の頁を開いた。ミオセ村の記述は、二十五年前と、ほとんど変わっていなかった。変わったのは、私自身のほうだった。
サフィンが、荷造りを手伝いながら、こう言った。
「閣下は、この二十五年、一度も、その地誌の話を、私にすら、なさいませんでした」
「話すことでは、なかった」
「けれど、今夜は、随分と、長く、その頁を、見ておられましたね」
私は、何も答えなかった。答える代わりに、栞を、そっと、頁の間に、挟み直した。二十五年、動かなかったその栞が、明日、初めて、意味を持つかもしれない。そう思うと、指先が、微かに、震えた。
広場に立つ朝、私は、いつもと同じ顔をしていたはずだった。六人の人間が、六人の獣人の前に並ばされる。他の五人の獣人は、それぞれ、緊張や期待を、隠しきれずにいた。獅子族の将軍は、拳を握りしめ、銀狼族の隊長は、視線を落ち着きなく動かしていた。私だけが、静かだった。静かでいることに、慣れていたからだ。
私の番の位置には、まだ誰も立っていなかった。
列の中に、一人の娘がいた。
頬に、白い粉がついていた。エプロンの結び目がわずかに緩んでいる。おそらく、朝の仕事の途中で連れてこられたのだろう。周りの村人たちが遠巻きに見る視線の中で、その娘だけが、まっすぐ前を見ていた。
その姿を見た瞬間、私の中で、二十五年間動かなかった何かが、初めて音を立てた。
◇
近づくと、彼女の指先にインクの染みが見えた。何かを書く人の指だ、とすぐに分かった。私と同じように、紙と過ごす時間を持つ人なのかもしれない。そう思うと、胸の奥が、微かに、緩んだ。
蛇族の嗅覚は、人間の何倍も鋭い。彼女に近づいた瞬間、私の鼻は、小麦粉の匂いの下に、もう一つの匂いを嗅ぎ取っていた。恐れの匂いではない。緊張の匂いでもない。強いて言えば――決意の匂い、とでも呼ぶべきものだった。
周囲に立つ他の五組を、私は、一瞥した。誰もが、それぞれの番との、最初の対面に、様々な感情を露わにしていた。安堵する者、戸惑う者、涙をこらえる者。私だけが、その輪の中で、静かすぎるほど、静かだった。長く待ち続けた感情を、この一瞬に、どう表せばいいのか、私自身にも、分からなかったからだ。
私は片膝をついた。使者の儀礼には、こんな所作は存在しない。それでも、体が勝手にそう動いた。渡すべき言葉は、まだ、何もなかった。ただ、跪くことだけが、いま、私にできる、精一杯だった。
「ミオ・パン」
声が、思っていたより震えた。百年生きて、初めて出た震えだった。
「お迎えに、参りました」
彼女は、頷いた。それだけだった。声は、返ってこなかった。
無視されているのだろうか。一瞬、そう思った。だが、彼女の瞳には、そんな色はなかった。ただ、まっすぐに、私を見ていた。
声を、持たないのかもしれない。ふと、そう思った。
私はマントを外し、彼女の肩に掛けた。頬の粉が、白銀の襟に移る。それを、私は拭わせなかった。
馬車が動き出す。窓の外を、村の門が遠ざかっていく。彼女は私の向かいに座り、膝の上で手を組んでいた。指は、微かに震えていた。
同乗の書庫員が、小声で、私に訊ねた。
「閣下。彼女に、何か、お声掛けをなさらないので、ですか」
「まだ、早い」
私は、短く答えた。二十五年、待ったのだ。この馬車の中の数日を、急いで埋める必要は、どこにもなかった。
私は、書庫の最奥の引き出しから持ってきた紙とインクを、二人の間の机に置いた。今はまだ、何も書かない。書けば、彼女を急かすことになる。
二十五年、待った。あと数日、待てないはずがない。
窓の外を、彼女の視線が追っている。頬の粉は、まだそこにあった。
私は、それを美しいと思った。誰にも言わない、書庫の奥の栞のような、静かな感情だった。
馬車の車軸が、小さく軋んだ。その音さえも、今の私には、悪くない響きに聞こえた。
馬車の車輪が、石畳から土の道に変わる。王都が、少しずつ、遠くなっていく。
これから始まる道のりの長さを、私はまだ、正確には測れていなかった。




