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声のない朝に、使者が来る

窯の中で薪が爆ぜた。その音だけが朝の静けさを微かに破っていた。外はまだ暗かった。


夜明け前のパン屋は、まだ誰も起きていない。火の番をするのはいつも私だ。火打ち石を二度打ち、藁に移した火を慎重に薪へ渡す。声を出して吹き消したりはしない。ただ、見ている。


私は声を持たない。十二歳の冬、火事で母を亡くしてから、ずっとそうだ。もう八年になる。


窯の火だけは、平気だった。この火は暴れない。育てれば育つし、放っておけば消える。手の中に、いつも収まっている火だ。声のいらない仕事を、私は好きになった。この時間だけは、誰にも何も説明しなくていい。


窯の扉を少しだけ開け、中の炎の色を確かめる。橙から、もう少し白に近い色になれば、生地を入れる頃合いだ。母は、いつも、その色の変化だけで火加減を見極めていた。私も同じように色を読む。声を交わさなくても、母から受け継いだものは、確かに、私の中に残っていた。


生地は、ひと晩でよく膨らんでいた。台の上に出し、掌の付け根で押し、折りたたむ。押して、折りたたむ。水加減は指の腹で分かる。柔らかすぎれば張りが甘く、硬ければ押し返しが強い。今朝の生地は、ちょうどよかった。


頬に、小麦粉がついた。拭わなかった。いつものことだった。


帳簿は、頭の中にある。今日の粉の残りは大袋二つと半分。卵は十八個。薪は明日の朝まで持つ。声で確かめ合う必要のない数字は、誰よりも正確に、私の中に並んでいる。父も継母も、それを知らない。知ろうとしたこともなかった。仕入れの日も、支払いの日も、私の頭の中の帳面だけが正確に覚えている。紙に書き出したことは、一度もなかった。書いてしまえば、誰かの目に留まる。目に留まれば、いつか取り上げられるかもしれない。この帳簿だけは、誰にも渡したくなかった。


「ミオ」


寝室のほうから、継母モリンの声。


「焦がさないでよ。あんたは声がなくても、鼻は利くんでしょう」


私は生地から目を上げなかった。返事をする手段がないというだけで、聞こえていないわけではない。けれど声を返せない者は、聞こえていないと思われる。そのほうが都合がいいこともある。今朝も、そうだった。


「役立たずね」


その一言だけを置いて、モリンの足音は台所から遠ざかった。


    ◇    


裾を引かれた。


「おねえちゃん」


継母の連れ子、イリス。六歳。私を姉と呼ぶ、家の中でただ一人。この子だけが、私を、不便な娘、とは、一度も、呼んだことがなかった。


両手が、形を作る。指の関節がまだ覚束ない。それでも、分かった。


《おはよう》


祖母から教わった指文字を、私はイリスにも教えた。誰かに見てもらえる言葉を、この子だけには渡しておきたかった。


私は膝をつき、目線を合わせ、同じ形を指で返した。イリスの歯が、まだ半分しか揃っていない顔で笑う。その笑顔だけが、この家の中で、私に向けられる、混じり気のない笑顔だった。


「イリス」


背後からモリンの声が割りこんだ。


「姉さんの真似はおやめ。指で話すなんて、覚えてどうするの」


イリスの両手が、さっと後ろに隠れる。私は立ち上がり、生地に戻った。押して、折りたたむ。指は震えなかった。朝の仕事に、震えている暇はなかった。


    ◇    


窯の前を離れ、私は、棚の奥から、もう一冊の帳面を取り出した。表向きは、パン種の世話を記録するためのものだ。誰も、興味を持たない類の帳面だった。この帳面にだけ、私は、日々の細かな出来事を書き留めていた。今日の記述は、まだ、何もない。書くべきことがあれば、夜、また戻ってくるつもりだった。


父が、台所を通り過ぎた。エプロンの紐を締め直しながら、私のほうを、一瞬、見た。何かを言いたそうな顔だった。けれど、結局、何も言わずに、外へ出ていった。母を、火事で亡くしてから、父は、いつも、そうだった。言いたいことがあっても、言葉にする前に、飲み込んでしまう。私たちは、似た者同士なのかもしれない。声を出せない私と、声を出さない父と。


二度目の鐘が鳴ったのは、生地を四つ目の型に収めた直後だった。


教会の鐘は、夜明けに一度きり。これは違う。低く、長く尾を引く、青銅の音。


聞いたことのない音のはずなのに、体のどこかがそれを知っていた。母が、昔、似た音の話をしてくれたことがあった気がする。それだけの、頼りない記憶だった。


私は、生地から手を離し、台所の窓へ、静かに近づいた。村の門が見えた。


門の前に、影が一つ、立っていた。長身で、動かない。マントはまだ肩に掛かったまま、朝の風にも揺れなかった。


蛇、と思った。理由はうまく言えない。ただ、その立ち姿の温度のなさが、窓越しにこちらまで届いた気がした。


人間じゃない。そう、思った。


私は指で、自分に言い聞かせた。


《冷静に》


祖母が最初に教えてくれた指文字だった。


    ◇    


広場に、村人が集まりはじめた。父はエプロンを外し、何も言わずに門へ向かった。母を亡くしたあの朝から、父は私にほとんど声をかけない。それが、父なりの悲しみの形なのだと、私は自分に言い聞かせてきた。責めない。責めても、何も戻ってこない。


昔は、違った。母が生きていた頃、父は、よく笑う人だった。パン屋の店先で、客と冗談を交わす声が、私の耳にも、よく届いていた。あの声を、私は、もう長い間、聞いていない。


モリンも髪を結い直して出ていった。出ていく間際、彼女は、一度だけ、私を振り返った。何を言いたいのか、私には読み取れなかった。ただの確認だったのかもしれない。私が、逃げ出したりしないか、最後まで見届けるための。


残ったのは、私のエプロンの裾を握ったままのイリスだけ。


私はその頭を撫でた。小麦粉で白くなった手が、黒髪に薄く粉を残す。イリスは嫌がらなかった。


引き出しから紙とインクを出し、書いた。


『心配、しないで』


イリスはそれを両手で受け取り、裏返して、たどたどしい字で書き足した。


『おねえちゃん、いってらっしゃい』


いってらっしゃい。その言葉を、私は生まれて初めて、家族からもらった気がした。母はそれを言う前にいなくなり、父はそれを言える人ではなくなり、モリンはそれを言いたい人ではなかった。


イリスだけが、書いた。


私はその紙を、エプロンの内側、心臓の上にしまった。


    ◇    


広場の中央に、村長と、獣国からの使者が、一人、立っていた。旅装の若い男だった。緑がかった外套の襟を立て、顔は、俯き加減で、よく見えなかった。使者自身は、一言も、声を発しなかった。書類は、村長が、代わりに読み上げた。村人たちは、遠巻きに、その旅装を、値踏みするように、眺めていた。獣国から来た者を、この村で見るのは、誰にとっても、初めてのことだった。


「ミオ・パン。本年の、番認定者に、選ばれた」


村人のざわめきが起き、すぐに静まった。モリンが前に出て、私の肩を軽く押した。


「行ってきなさい、不便な娘。家のためになるなら、それはそれで、ありがたいこと」


私は振り返らなかった。イリスの手をエプロンからそっと外すと、あの子はもう一度、両手で指を組んだ。


《いってらっしゃい》


私は頷き、指で返した。


《心配しないで》


村の門の前に、馬車が一台、待っていた。黒く、大きな馬車だった。村では、誰も、これほど立派な馬車を、持っていなかった。使者は、私に近づかなかった。ただ、扉を、静かに開けた。誰の手も借りずに、私は、その中へ乗り込んだ。


振り返ると、イリスの顔は、まだ、泣いていなかった。何かを堪えているような、けれど気丈な顔だった。


馬車が動き出す。村の門が遠ざかる。窯の火は、もう、誰かが落としてくれただろうか。今朝、最後に見た炎の色を、私は、まだ、覚えていた。


頬の小麦粉は、まだそこにあった。


拭わなかった。


ずっと、不便な娘の印だと思っていた粉だった。その朝、私は、初めて、それを、誇りとして持ち続けた。

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