アイリス先生が、戸を、叩いた夜
その日の朝、書庫の空気は、いつもより、少しだけ、張り詰めていた。理由の分からない、微かな緊張が、廊下の隅々にまで、漂っていた。書庫員たちの足取りも、いつもより、心なしか、速かった。私は、評議会の間へと続く廊下を、通りかかった。
用があったわけではない。書庫の奥の書架を探しに行く途中、たまたま、その前を通っただけだった。廊下の窓から差し込む光が、石畳の上に、長い影を落としていた。普段は、静まり返っている一角だった。
補佐官就任の話が進んでいることは、サフィンから、それとなく聞かされていた。だが、レスカン閣下自身の口から、その詳細を、聞いたことはなかった。彼は、評議会に関わることを、いつも、私の耳に入れないよう、気をつけているようだった。守られている、という感覚と、蚊帳の外に置かれている、という感覚が、同時に、私の中に、あった。どちらの感覚が正しいのか、私自身にも、分からなかった。
扉の隙間から、声が漏れていた。レスカン閣下の声だと、すぐに分かった。低く、抑えた声。評議会の場で、こんな声を出す彼を、私は、想像したことがなかった。書庫での彼しか、私は、知らなかったのだと、そのとき、初めて、気づいた。
「彼女は、書庫の実務に、有用です」
足が、止まった。
続く言葉を、私は、聞かなかった。聞く前に、踵を返していた。廊下を戻る足音を、誰かに聞かれていないか、少しだけ、気にした。それほど、動揺していた。
有用。その一語だけが、耳の奥で、繰り返し鳴った。書庫に戻る道すがら、廊下の窓の外を、鳥が一羽、横切っていくのが見えた。何も知らない鳥の飛び方が、そのときの私には、少しだけ、羨ましかった。心が、これほど、一つの言葉に、揺さぶられるとは、思っていなかった。
自室に戻る途中、サフィンとすれ違った。彼女は、私の顔を見て、何かに気づいたように、一瞬、足を止めた。
「お嬢、顔色が、優れないようですが」
私は、首を横に振った。何でもない、という仕草だった。サフィンは、それ以上、深く訊ねなかった。ただ、少し心配そうな目で、私を見送った。その視線を、背中に感じながら、私は、自室への道を、急いだ。
◇
自室に戻っても、その一語は、消えなかった。机の前に座っても、いつものように、本を開く気になれなかった。
額に手を当ててくれた夜のことを、思い出そうとした。「私もです」と書いてくれた紙のことも。「私は、これから、半分、引き受けます」と、火事の記憶を分けて持とうとしてくれた、あの言葉のことも。けれど、思い出すたびに、「有用です」という声が、その記憶に、薄く影を落とした。
もしかしたら。
もしかしたら、あの人にとって、私は、書庫の役に立つ道具の一つに過ぎないのかもしれない。指文字を見てくれたのも、紙を差し出してくれたのも、優しさではなく、有用な人材を育てるための、丁寧な投資だったのかもしれない。
そう考え始めると、止まらなかった。声を持たない私は、確かめる術も持たない。扉の向こうで、彼が続けて何を言ったのか、私には、永遠に分からないままかもしれなかった。訊きたくても、訊く声がない。訊く声がないということが、これほど、自分を追い詰めるものだとは、これまで、感じたことがなかった。書くことでさえ、この不安の前では、無力に、思えた。
窓辺に立ち、村での日々を、思い返した。継母に「不便な娘」と呼ばれた朝。イリスの、たどたどしい指文字。あの頃の私は、誰かに必要とされることさえ、望んではいけないのだと、思い込んでいた。ここに来て、初めて、必要とされる喜びを知った。だからこそ、その必要とされ方が、心からのものか、それとも、ただの有用さでしかないのか、その違いが、これほどまでに、重くのしかかってきた。
夕食の時間、レスカン閣下は、いつもと変わらない様子で、隣の机で、書類に向かっていた。その変わらなさが、かえって、私を不安にさせた。何かを隠しているようにも、本当に何も変わっていないようにも、どちらにも見えた。
サフィンが、夕食を運んできたついでに、私の顔を覗き込んだ。
「お嬢。今日は、あまり、召し上がっておられませんね」
私は、首を振った。何でもない、という仕草だった。サフィンは、それ以上、深くは訊ねなかった。ただ、器を置く手を、いつもより、少しだけ、長く、机の上に留めていた。彼女なりの、気遣いだったのだと思う。
窓の外は、もう暗い。机の上の紙が、白く、静かに、そこにあった。
◇
戸を叩く音がした。
深夜には、珍しい訪問だった。開けると、そこに立っていたのは、白衣のアイリス先生だった。旅装に着替えている。番探しの宴の広場で、私に、あの一瞬の眼差しを送ってくれた人だった。その顔には、長旅の疲れが、隠しきれずに、滲んでいた。
「ミオ。少しだけ、時間をもらえますか」
先生は、部屋に入ると、懐から、小さな瓶を取り出した。中で、透明な液体が、揺れていた。
「これは、番解きの薬です。これを、レスカン閣下の紅茶に落とせば、彼は、あなたへの執着を、忘れます。……あなたは、人間王国に、戻れます」
私は、瓶を見つめた。それから、先生の顔を見た。先生は、怯えていなかった。ただ、私を、真っ直ぐに見ていた。
「私も、一度、この薬を、拒みました。理由は、あなたと、同じかもしれません。……でも、答えは、人それぞれです。私の選択が、あなたの答えになるとは、限りません」
◇
「答えは、急がなくていい。……でも、聞かせてください。ミオ。あなたは、ここにいて、幸せですか」
幸せか、と問われて、私の頭に浮かんだのは、額に当てられた手の温もりではなく、扉の向こうで聞いた、「有用です」という一言だった。
答えられなかった。
先生は、私の沈黙を、責めなかった。ただ、静かに、瓶を、机の上に置いた。指先が、瓶の表面を、名残惜しそうに、一度だけ、なぞった。
「私は、外の廊下で、待っています。誰にも、見咎められないよう、気をつけますから」
「今夜、答えを、紙に書いてください。私は、その紙を、待つだけです」
それだけ言うと、先生は、部屋を出て、戸を閉めた。
足音が、廊下の向こうへ、遠ざかっていく。
私は、机の前に、ひとり残された。
瓶が一つ。白紙が一枚。ペンが一本。
窓の外、書庫の螺旋階段のほうから、蝋燭の灯りが、微かに揺れていた。あの灯りの下で、レスカン閣下は、今夜も、何かを書いているのかもしれない。「有用です」という言葉の続きを、あの人は、まだ、私に、見せていない。
私は、ペンを手に取った。
何を書けば、本当の答えになるのか、まだ、分からなかった。
留まりたい、という気持ちと、確かめたい、という気持ちが、同じ重さで、胸の中にあった。留まると書けば、それは、確かめることを、諦めることになる。確かめようとすれば、この夜、答えを出すことは、できない。
エプロンの内側に、いつも忍ばせている三枚の紙に、そっと手を当てた。イリスの「いってらっしゃい」、母の一文字、そして、「こわい」と書いた、あの最初の紙。三枚とも、声にならなかった言葉だった。今、書くべき四枚目の言葉は、まだ、私の中に、形を持っていなかった。
紙の上で、ペン先だけが、止まっていた。




