まだ、書いていない、上奏文
夜半、書庫の廊下は、冷え込んでいた。私は、書類の整理を口実に、まだ、自室に戻らずにいた。窓の外は、もう、真っ暗だった。星の一つも、見えなかった。白衣の女が通り過ぎるのを、私は見た。アイリス殿だった。旅装のまま、書庫の外へ向かっていく。
火竜領から、これほど遠くまで、彼女が、自ら足を運んできたことに、私は、まず、驚いた。番解きの薬を届けるだけなら、使者に託すこともできたはずだ。それをしなかったのは、彼女なりの、誠実さの形なのだろう。廊下の蝋燭が、二人分の足音を、静かに、見送っていた。
彼女が、彼女の部屋を訪ねたのだと、すぐに分かった。番解きの薬を、持って。獣人の勘が、そう告げていた。その勘が、外れてくれることを、私は、密かに、願った。
私は、追わなかった。追う権利が、自分にあるとは思えなかった。番を得た獣人は、番の意志を、決して縛れない。それが、蛇族に限らず、獣国すべての獣人が、生まれながらに刻まれている理だった。理として、知ってはいた。だが、知ることと、平静でいられることは、別だった。両手を、机の上で、強く、握りしめていた。この理を、これほど、恨めしく思う夜が、来るとは、思っていなかった。
評議会での「有用です」という一言を、彼女が、どこまで聞いていたのか、私には、まだ、確かめる術がなかった。もし、彼女が、あの一言だけを聞いて、何かを、誤解しているのだとしたら。その可能性に、私は、この夜、初めて、思い至っていた。
廊下の窓から、アイリス殿が、書庫の外の階段に、静かに腰を下ろすのが見えた。答えを待つ、と言っていたのだろう。彼女もまた、この夜、何かを待つ側に、回っていた。その横顔には、確固たる覚悟が、見えた。
彼女の部屋の窓に、灯りが点っているのが、遠くから見えた。私は、その灯りから、目を、逸らせなかった。
消えなかった。私が自分の机に戻ってからも、その灯りは、ずっと点いたままだった。時折、影が動くのが見えた。立ち上がり、また座り、また立ち上がる。何かを、何度も、書きかけては、やめているように見えた。
書庫の壁の時計が、また一刻、進んだ。四十年、時間というものを、これほど、長く感じたことはなかった。書物に囲まれて過ごす時間は、いつも、静かに、しかし、あっという間に過ぎていったものだった。今夜だけは、一刻一刻が、重く、ゆっくりと、積み重なっていった。
◇
私は、自分の机に、白紙を一枚、広げた。
評議会に提出する、正式な上奏文だった。彼女の書庫補佐官としての就任を、改めて申請するための書類。先の申し立てでは、「実務上の有用性」だけを語った。今回も、同じ理屈を並べれば、族長たちは、耳を貸すだろう。ゾルドが挙げた懸念にも、事実の積み重ねで、静かに応じることができる。それで、十分な、はずだった。
功績の一覧を、まず、書き出した。境界協定の書き足しの発見。地誌の誤記の指摘。書庫員たちの評価の変化。イシュタルの態度の軟化。一つ一つは、小さな事実だった。だが、積み重ねれば、確かな厚みを持つ記録になっていた。
書き出しながら、私は、この一覧の一つ一つに、彼女の顔を、思い浮かべていた。紙に向かう真剣な横顔。震えながらも、書くことをやめなかった指。どの功績にも、彼女の、静かな意志が、確かに、刻まれていた。ペン先のインクが、乾く前に、私は、次の言葉を、探し続けた。
けれど、ペンが、動かなかった。
書きかけて、止めた言葉があった。
『私の百年は、彼女の指文字の、ありがとう、一つに、出会うための、百年でした』
これを、書くべきか。ペン先が、白紙の上で、微かに、震えていた。
書けば、評議会は、私の判断が、私情に曇っていると見るかもしれない。先の長老の問いが、まだ耳に残っていた。──あなたが、この娘に、個人的な感情を、抱いておられることは、承知しております。それが、判断を、曇らせてはいませんか。
書かなければ、この言葉は、誰にも届かないまま、私の懐の中だけに、留まり続ける。廊下ですれ違ったかもしれない、あの日の彼女の背中のことを、私は、また思い出していた。もし彼女が、あの言葉だけを聞いて、立ち去ったのだとしたら。
◇
私は、懐から、二枚の紙を取り出した。「こわい」の一文字と、二十五年前、自分自身が書いた一行。どちらも、指先に、すっかり、馴染んだ手触りをしていた。
『あなたが、来てくれるなら、私は、書庫の、すべての本を、半分に、譲ります』
あの朝、私は、まだ会ったこともない誰かに、これほどの言葉を、迷いなく書けた。いま、目の前に、彼女がいる。彼女の指の動き一つ一つを、知っている。それなのに、たった一行を、上奏文に書き加えることに、これほど、逡巡している。守るべきものが増えるほど、言葉は、慎重になる。慎重になることは、臆病になることと、紙一重だった。
サフィンの言葉を、私は、また思い出していた。「閣下は、いつも、ご自分の想いを、表に出されません。それが、時に、誤解を招くことも、あるのです」。評議会での「有用です」という一言も、私にとっては、彼女を守るための、計算だった。だが、彼女には、その計算の意図までは、届かなかったのかもしれない。届けるべきだったのは、計算の結果ではなく、計算の裏にある、私自身の想いだった。
窓の外を、もう一度、見た。彼女の部屋の灯りは、まだ、点いている。
彼女が、今夜、何を書いているのか、私には分からない。留まる、と書いているのか。戻る、と書いているのか。あるいは、まだ、何も書けずにいるのか。
分からないまま、朝を、迎えることになるかもしれない。
それでも、私は、この上奏文を、書き終えなければならなかった。評議会が、彼女を認めるかどうかは、彼女がこの夜、何を選ぶかとは、また別の問題だった。二つの答えが、同じ朝に、私を待っている。
四十年、私は、答えの出ない問いを、そのまま、書庫の頁の間に、挟んでおくことに、慣れていた。頁は、急かさない。答えが出るまで、いくらでも、待っていてくれる。だが、今夜だけは、頁ではなく、生きている二つの心が、答えを、待っていた。頁のように、いつまでも、待たせておくわけには、いかなかった。
蝋燭の炎が、ひとつ、小さく揺れた。風の通り道が、どこかに、あるのだろう。それとも、この夜そのものが、答えを急かすように、静かに、私を、せついているのかもしれなかった。
私は、ペン先を、もう一度、白紙の上に、下ろした。書くか、書かないか。まだ、決めていなかった。ただ、ペン先だけが、白紙の上で、静かに、影を落としていた。
窓の外、彼女の部屋の灯りが、ふ、と、揺れた。
風のせいか、それとも、彼女が、立ち上がったのか。
私には、見えなかった。
ペン先は、まだ、白紙の上で、止まったままだった。




