火事の、夜の、母
境界協定の一件から、数日が過ぎた、ある夜のことだった。書庫の空気は、いつもより、少しだけ、湿っていた。雨が近いのかもしれない、と、私は、ぼんやり、思った。窓の外では、遠く、雷鳴が、微かに、響いていた。書庫員たちは、すでに、それぞれの部屋へ、引き上げていた。古い巻物を蝋燭にかざした夜、私は、一瞬だけ、手を止めた。
火の粉が爆ぜる音。紙が焦げる寸前の匂い。何でもない、ただの灯りだった。それなのに、指先が、意思とは関係なく、強張った。喉の奥に、煙の記憶が、蘇りかけた気がした。心臓が、いつもより、少しだけ、速く打っていた。膝の上の手を、私は、そっと、握りしめた。
気づかれないように、私は、作業を続けた。誰にも、何も、悟らせなかった。あの夜のことを、私は、まだ、誰にも話していない。村でも、これまでの旅の間も、一度も、口にしたことのない記憶だった。声がないということは、話さずに済む、という側面もあった。訊かれなければ、語らずにいられる。村では、その沈黙を、都合よく、守り続けてきた。
けれど、この書庫に来てから、私は、訊かれないことに、安堵するのと同じくらい、訊いてほしい、と願う自分にも、気づき始めていた。誰かに、この記憶を、正しく知っておいてほしい。矛盾した二つの気持ちが、いつも、私の中で、綱引きをしていた。その綱引きに、そろそろ、決着をつけたい、と思い始めていた。
その日の夜、レスカン閣下が、隣の机で、こう書いた。
『あなたの声は、生まれつき、ですか』
私は、長いこと、答えなかった。ペンを持つ手が、机の上で、止まったままだった。窓の外はもう暗く、蝋燭の灯りだけが、二人の机の間で揺れていた。
彼は、急かさなかった。ただ、静かに、待っていた。その待ち方に、私は、少しずつ、心を決めていった。これまで、誰にも語らなかった記憶を、初めて、誰かに手渡す準備を、この人の前でなら、できる気がした。
書庫の隅で、蝋燭がもう一本、静かに灯された。誰かが、通りすがりに、灯しておいてくれたのだろう。その小さな灯りが、二人の机の間の暗さを、わずかに、和らげてくれた。
◇
震える指で、私は、書いた。
『十二歳の、冬でした』
『パン屋の窯から、火が、出ました』
『母が、私を、庇って、焼けました』
『最後の声は、ミオ、逃げて、でした』
『その夜から、私の声は、止まりました』
一文字ずつ、火の記憶が、紙の上に、蘇った。窯の橙。母の背中。煙の匂い。逃げて、という声だけが、いつまでも、耳の奥に残っていた。あの夜以来、私は、大きな炎を、まともに見られなくなっていた。書庫の蝋燭の灯りにさえ、時折、体が強張るのは、そのためだった。書いている間中、指先は、震えていた。それでも、書くことを、やめなかった。
続けて、私は、もう少しだけ、書き足した。
『あの夜のあと、村の医師は、私の喉を、何度も、診ました』
『声帯には、何の異常もない、と、言われました』
『それでも、声は、戻りませんでした』
『医師は、心の傷が、声を、閉じ込めているのだろう、と、言いました』
『私自身にも、よく、分かりません』
レスカン閣下は、その紙を、受け取った。
何も、書き返さなかった。
彼は、ただ、長いこと、私の隣に、座っていた。何も書かず、何も言わず、ただ、そこにいた。蝋燭が、一本、燃え尽きるほどの時間、彼は、身じろぎ一つしなかった。その静けさが、私には、何よりの言葉に、聞こえた。
その沈黙が、どんな言葉よりも、私の傷に、寄り添っていた。書庫の蝋燭が、また一本、静かに、燃え尽きた。
◇
ようやく、彼は、書いた。
『お母様の最後の声は、いま、私の中にも、届きました』
『あなたが、その声を、八年、ひとりで、持っていたことを、私は、これから、半分、引き受けます』
半分。全部ではなく、半分。
その言葉の選び方に、私は、彼らしさを見た。私の傷を、取り上げようとはしない。ただ、隣で、同じ重さを、分けて持とうとする。全部を引き受けると書けば、それは、私の痛みを、彼のものにしてしまうことになる。半分、という数字の中に、私の痛みを、私のものとして、尊重する意志が、確かにあった。
私は、その夜、書庫の机で、声を立てずに、泣いた。
涙が、紙の上に、落ちた。滲んだインクの跡が、その夜、確かにあったことの、唯一の証だった。
しばらくして、私は、もう一枚、紙を取り、書き足した。
『母は、火事のあと、一度も、私に、恨み言を、言いませんでした』
『最後まで、私を、庇うことしか、考えていなかったのだと、思います』
『私は、その分だけ、母の代わりに、生きなければならないと、ずっと、思ってきました』
『でも、時々、それが、重いと、感じることも、あります』
そこまで書いて、私は、ペンを、一度、置いた。
レスカン閣下は、その紙を、静かに、読んだ。それから、書いた。
『母君の代わりに、生きる必要は、ないと、思います』
『あなたは、あなた自身として、生きて、よいのです』
その一文に、私は、また、涙をこぼした。今度の涙は、悲しみだけの涙ではなかった。長年の重荷を、初めて、下ろすことを許された、安堵の涙だった。
私は、もう一度、ペンを取り、書いた。
『ありがとう、ございます』
『母の代わりではなく、私自身として、ここに、いても、いいのですね』
レスカン閣下は、深く、頷いた。声には出さず、ただ、頷きだけで。その頷き一つが、私が十二歳の冬から、ずっと探し続けていた、たった一つの許しだったのかもしれない。
彼は、その涙を、拭おうとはしなかった。ただ、自分の懐から、乾いた布を一枚、そっと、私の手の届く位置に置いた。使うかどうかは、私に委ねられていた。私は、しばらくそのままにしておいてから、ようやく、その布を手に取った。
◇
翌朝、蝋燭の灯を見ても、指は、もう強張らなかった。
強張らなくなった、というより、強張っても、隣に、それを分けて持ってくれる人がいる、と、知ったからだった。
火は、消えない記憶だ。けれど、その記憶を、ひとりで抱える必要は、もう、なかった。
書庫の朝は、いつもと変わらぬ様子で、始まっていた。書庫員たちが、それぞれの持ち場に散っていく足音。窓から差し込む光の角度。何一つ、変わっていないはずなのに、私自身の中では、確かに、何かが、静かに、変わっていた。
私は、机の上の巻物に、そっと手を伸ばした。指先は、静かだった。窓から差し込む朝の光が、昨夜の涙の跡を、乾かしていくのを、私は、静かに見ていた。隣の机で、レスカン閣下も、いつものように、書類に向かっていた。何事もなかったかのような、その平静さが、今の私には、何よりの安心だった。
私は、久しぶりに、深く、息を吸った。冷たい朝の空気が、胸の奥まで、しっかりと、届いた気がした。
窓の外、朝の鳥の声が、いつもより、優しく、聞こえた。




