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彼女の指が、夜を、照らしていた

黒豹領の使者を迎える前夜、月のない、静かな夜だった。書庫全体が、息をひそめているようだった。星さえ、雲の向こうに、隠れていた。廊下の蝋燭も、いつもより、数が、少なかった。私は、書庫の窓越しに、彼女の部屋の灯りを見ていた。


明日の使者との対応は、書庫の外交上、決して軽い一件ではなかった。境界の解釈一つで、両族の関係が、こじれることも、あり得る。だが、私の頭を占めていたのは、対応の段取りよりも、隣の部屋で、夜遅くまで作業を続けている、一人の娘のことだった。用意した想定問答の紙は、机の上で、まだ、開かれないままだった。


灯りは、遅くまで消えなかった。念のため、写しと原本の、ほかの箇所も確認しておきたい、と彼女が紙に書いていたことを、私は知っていた。誰に頼まれたわけでもない。彼女自身が、そうすることを選んだ。その紙を受け取ったとき、私は、何も、言葉を、返せなかった。


蝋燭の灯に、長く紙を晒す作業だった。古い紙は、火にかざしすぎると、脆くなる。彼女は、その加減を、誰に教わったわけでもないのに、正確に扱っていた。灯りを紙から一定の距離に保ち、時折、手の甲で、紙の反りを確かめる仕草。書庫で長く働く者たちの所作と、驚くほどよく似ていた。四十年、書庫員たちを見てきた私の目にも、その手つきは、確かな熟練を、感じさせるものだった。


私は、彼女の部屋の前を、一度だけ通りかかった。声はかけなかった。ただ、灯りが消えるまで、その気配を、少し離れた場所で、見守っていた。夜半を過ぎても、彼女の影は、机の前から動かなかった。厚い雲が、窓の外を、ゆっくりと流れていくのが見えた。


四十年、私は、夜通し働く書庫員を、何人も見てきた。だが、誰に命じられたわけでもなく、これほど自発的に、夜を徹する者を見るのは、初めてだった。彼女の中には、村では、決して発揮する場のなかった、静かな情熱が、確かに、眠っていたのだろう。


途中、彼女が、大きく伸びをする影が、窓に映った。疲れているのだろう。それでも、作業をやめる気配はなかった。私は、温かい茶を、そっと部屋の前に置いておこうかと考えたが、やめた。それは、彼女の集中を、途切れさせることになるかもしれない。代わりに、私は、ただ、見守ることを、選んだ。何もしないことも、時には、一つの、贈り物になる。そう、自分に、言い聞かせた。


    ◇    


翌朝、黒豹領の使者は、写しの記述――彼女が正しいと示した「東岸まで」――を、そのまま受け入れた。境界を巡る揉め事は、起きる前に、消えた。使者は、帰り際、サフィンに向かって、「貴書庫の判読は、正確ですね」とだけ言い残していった。その言葉が、誰の功績なのかを、使者自身は、知る由もなかった。それでよかった、と私は思った。


書庫員たちの間に、初めて、具体的な形の敬意が広がった。「お嬢が、いなければ」という言葉を、私は、その日、何度も耳にした。会計係のロサは、彼女の机に、焼き菓子を一つ、そっと置いていった。誰の指示でもない、自然な感謝の形だった。年長の書庫員二人も、彼女の机の前を通るたび、以前より深く、頭を下げるようになった。


イシュタルが、私の机に来て、珍しく、自分から口を開いた。


「……閣下。私は、まだ、人間が書庫の一員になれると、心から信じているわけでは、ありません。ですが」


彼は、そこで言葉を切った。


「昨夜の、あの灯りは。誰かに命じられて、点いていた灯りでは、なかったように、思います」


小さな亀裂だった。だが、確かに、亀裂だった。四十年、私の下で、一度も前提を疑わなかった青年が、初めて、自分の言葉で、何かを認めようとしていた。その勇気を、私は、誰よりも、称えたかった。


「イシュタル。お前が、そう感じたことを、私は、覚えておく」


「……閣下」


「言葉にすることは、勇気がいる。特に、これまで信じていたものを、少しでも、疑うときは」


イシュタルは、何も答えなかった。ただ、深く頭を下げ、自分の持ち場へと戻っていった。その背中に、以前より、わずかに柔らかな空気が、宿っているように見えた。


    ◇    


喜びに浸る時間は、長くは続かなかった。一方で、族長の側近――番探しの宴の広場で、彼女を一瞥した、あの年配の男――は、別の見方をしていた。


「一度の手柄で、評議会の判断が変わるとは、思われませんように」


私の元へ、直接、そう告げに来た。名を、ゾルドという。族長の代から仕える、蛇族の中でも古参の一人だった。


「まぐれ、ということも、ございます。書庫の知は、一度の手柄ではなく、代を継いで積み上げるものです。……その一点だけは、閣下も、お忘れなきよう」


「二度目です」


私は、静かに返した。


「地誌の誤記の指摘は、これで、二度目になります。まぐれと呼ぶには、些か、回数が、重なりすぎては、いませんか」


ゾルドは、一瞬、口を閉ざした。それから、小さく、頷いた。頷きはしたが、納得したわけではないことは、その目の色から、明らかだった。


「……記録には、留めておきましょう。ですが、閣下。評議会が、二度の手柄だけで、動くとは、思わないことです。書庫の知の継承は、二百年、いえ、それ以上の年月を見据えて、判断されるべきものです。人間の、たった一度や二度の功績で、その判断を、曲げるわけには参りません」


「では、何度目なら、評議会は、耳を傾けてくださいますか」


私の問いに、ゾルドは、答えなかった。ただ、静かに、一礼をして、去っていった。答えられない、ということそのものが、一つの答えだった。前例のない要求に対して、明確な基準など、そもそも、存在していなかった。


彼の後ろ姿を見送りながら、私は、ふと、思った。ゾルドもまた、二百年の歴史を、たった一人で背負っているわけではない。彼の背後には、彼と同じ考えを持つ、名もなき蛇族の声が、無数にある。私が変えようとしているのは、ゾルド個人の心ではなく、その背後に積み重なった、途方もない年月の重みそのものだった。


だからこそ、一度や二度の手柄では、足りない。私は、そのことを、改めて、胸に刻んだ。


その場では、反論しなかった。反論すれば、彼の懸念を、単なる意地悪として片付けることになる。それは、違う。彼の懸念には、二百年分の蛇族の理屈が、確かに、宿っていた。


私にできるのは、まぐれではないことを、これから先も、示し続けることだけだった。


窓の外、彼女は、いつものように、机に向かっていた。昨夜の作業の疲れを、少しも顔に出さずに。


私は、その横顔を見ながら、来月の評議会までに、何を用意すべきか、考え始めていた。二度の手柄が、三度、四度と重なったとき、ゾルドの理屈が、どこまで持ちこたえられるか。それを、静かに、見極めるつもりだった。


書庫の壁に掛かった暦を、私は、見上げた。評議会までの残りの日数を、数える。二十五年、待った男にとって、その日数は、決して、長いものではなかった。ただ、その短い日数の中に、彼女の未来がかかっていると思うと、これまで感じたことのない種類の緊迫感が、胸の奥に、静かに、積もっていった。


暦の余白に、私は、小さく、印を一つ、書き加えた。評議会の日付だった。忘れるはずはなかったが、それでも、書き記さずにはいられなかった。


窓の外、彼女の部屋の灯りが、ようやく、消えた。私は、その灯りが消えたのを見届けてから、自分の蝋燭も、そっと、吹き消した。

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