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欠けた紙、閉じた頁

補佐官就任の噂が、書庫の中に、少しずつ、広まり始めていた頃のことだった。ある朝、いつもより早く目を覚ますと、外はまだ薄暗く、書庫の奥から、珍しく、声が飛び交っていた。寝間着のまま、私は、机を立った。何かが、起きている、と、すぐに分かった。廊下に出ると、冷たい空気が、頬を、刺した。裸足のまま、私は、声のするほうへ、急いだ。


「原本が、これでは……」「写しと、食い違って、いるだろう」「いや、写しのほうが、誤りだ」


私は、机を立ち、声のするほうへ向かった。声で会話には加われない。けれど、様子を見ることはできる。声のない私にとって、こういうとき、足を運ぶことだけが、唯一、参加の意思を示す方法だった。


書庫員たちの声には、いつもの落ち着きが、なかった。滅多に見ない光景だった。この静かな書庫が、これほどざわめくのは、よほどのことに違いない、と私は思った。足を速めながら、私は、その理由を、考え始めていた。


書見台の上に、古びた一巻の巻物が広げられていた。黒豹族との国境協定の原本だという。数年前の写しと、原本の一節が、食い違っていた。境界線を示す一文が、写しでは「川の東岸まで」、原本では「川辺まで」と読める。東岸か、川辺か。その違いだけで、実際の土地の広さが、大きく変わる。


黒豹領からは、来週、使者が来る予定だった。境界の確認のために。この協定が結ばれてから、すでに三十年が経っているという。三十年の間、誰も、この一文の曖昧さに、気づいていなかった。今になって、それが表面化したのは、境界付近の土地の使われ方が、少しずつ、変わり始めたからだと、後で聞いた。


書庫員の誰も、原本の該当箇所を、はっきりと判読できずにいた。インクが滲み、紙も、経年で茶色く変色している。年長の書庫員が二人、拡大鏡を片手に、額を突き合わせていたが、二人の見解は、真っ二つに割れたままだった。


「私は、長年の経験から、写しのほうが、誤植だと思う」


「いや、原本の保管状態を考えれば、後年の書き写しの際に、正しく訂正された可能性のほうが高い」


議論は、平行線をたどっていた。互いに、確かな根拠を、示せずにいた。時間だけが、無為に、過ぎていくようだった。使者の到着まで、もう、幾日も、残されていなかった。


私は、その巻物に、そっと近づいた。


    ◇    


紙を見る目にかけては、誰にも負けない自信が、私にはあった。誰かに教わったものではない、生まれてから、ずっと、磨いてきた技だった。


声を持たない分、私はいつも、紙の質感、インクの重なり、筆の運びの速さを、目で読んできた。パン屋の生地を、指の感触だけで見極めてきたのと、同じ勘だった。生地の水気も、紙の滲みも、目に見える手前の、微妙な違いに宿っている。その違いを見分ける訓練を、私は、声を持たなかった八年の間に、誰よりも積んできたのだと思う。


書庫員たちが、しばらく私を見て、それから、静かに場所を空けてくれた。イシュタルが、拡大鏡を、無言で差し出した。


滲んだ文字の下に、私は、もう一段、薄い筆致を見つけた。


誰かが、後から、一文字だけ、上から書き足している。もとの文字を消さず、その上に、少しだけ形を変えて重ねる書き方。村の帳簿でも、書き間違いを目立たせないために、よく使われた手だった。父の帳簿を、こっそり見ていた子供の頃の記憶が、ふいに蘇った。


もとの文字は、「辺」ではなかった。「岸」の字の、書きかけだった。筆の運びの向きと、インクの濃淡の重なり方を、私は、何度も、確認した。間違いない、と思えるまで、丁寧に。


つまり、原本はもともと「東岸まで」と書かれ、後年、誰かが一部を書き足し、読み方を変えてしまっていた。誰が、いつ、何のために、そんなことをしたのかは分からない。ただ、事実として、その痕跡だけが、紙の上に、確かに残っていた。悪意なのか、単なる誤りなのか、それすらも、いまとなっては、分からなかった。


私は、紙に、それを書いた。


『この字は、もともと「岸」でした。あとから、上に書き足されています』


『写しのほうが、正しいと思います』


書庫員たちが、私の紙を覗き込んだ。誰かが、別の拡大鏡を持ってきて、私が指した箇所を、もう一度、確認する。


長い沈黙のあと、年長の書庫員が、うなるように言った。


「……確かに、書き足しの跡が、ある」


もう一人の年長者が、拡大鏡から目を離さないまま、呟いた。


「三十年、誰も、気づかなかったものを」


    ◇    


書庫員たちの間に、静かなどよめきが広がった。誰かが、隣の者に、耳打ちする声も、聞こえた。私は、その反応の大きさに、少し戸惑った。自分では、ただ、いつも通りのやり方で、紙を見ていただけのつもりだった。


イシュタルが、私のほうを、静かに見た。


「お嬢は、どうして、これに、気づかれたのですか。我々は、皆、この道、数十年の者ばかりです」


答える声を、私は持たない。代わりに、紙に、短く書いた。


『皆さんは、この巻物を、知りすぎているのだと、思います』


『知りすぎていると、目が、見慣れたものだけを、追ってしまいます』


『私は、初めて見る紙だったので、隅から隅まで、疑いながら、見ました』


イシュタルは、その紙を読み、しばらく黙っていた。それから、静かに、頷いた。反論はなかった。彼にとっても、思い当たる節があったのかもしれない。


    ◇    


その日の午後、レスカン閣下が、巻物を手に、私の机に来た。表情には、いつもの静けさの下に、隠しきれない何かが見えた。


「よく、気づきましたね」


彼は、紙にそう書いた。私は、答えた。


『毎日、紙を、見ていただけです』


『パン屋の、生地も、同じです。毎日、触れていれば、少しの違いに、気づきます』


彼は、その紙を、しばらく見つめていた。何かを、考えているようだった。


『あなたの目は、書庫にとって、大きな財産です』


彼は、そう書き足した。私は、その一文を、何度も読み返した。財産、という言葉に、村では、一度も呼ばれたことがなかった自分を、思い浮かべた。


『念のため、他の古文書も、確認しておきたいと、思います』


私は、続けて書いた。今回の一件だけで満足するのではなく、同じような見落としが、他にもないか、自分の目で、確かめておきたかった。レスカン閣下は、少し驚いた顔をした後、静かに頷いた。


窓の外では、まだ、書庫員たちが、巻物のことで、ざわめいていた。私は、その声にならないざわめきの中に、自分がこれまで感じたことのない何かが、混じっているのに気づいた。


驚き、だけではない何か。値踏みに似て、値踏みではない何か。


私は、それが何なのか、まだ、うまく言葉にできなかった。ただ、その日の夕暮れ、机に向かう自分の背中が、いつもより、少しだけ、真っ直ぐになっている気がした。


会計係のロサが、通りすがりに、私の肩を、そっと、軽く叩いていった。労いの仕草だった。声を持たない私に、彼女なりの言葉を、体で伝えてくれたのだと、分かった。


その夜、私は、久しぶりに、深く眠った。指の疲れさえ、心地よいものに感じられた。


夢の中でさえ、私は、紙とインクの匂いに、包まれていた気がする。

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