額に、当てた手
夜が更け、書庫は無人になった。外の風が、高窓を、微かに鳴らしていた。遠くで、梟の鳴く声が、一度だけ、聞こえた。それきり、静寂が、書庫全体を、深く、覆った。
蝋燭の灯りが、一つ、また一つと、消えていく。書庫員たちの足音が、廊下の向こうへ、遠ざかっていく。この静けさこそが、四十年、私が最も慣れ親しんできた時間だった。だが今夜は、その静けさの質が、いつもとは、まるで違って感じられた。空気の重さすら、いつもと違う気がした。指先が、まだ、微かに、熱を持っていた。
私の額には、まだ、彼女の手の温度が残っていた。人間の体温、というだけでは片付けられない、彼女という固有の温度だった。私は、何度も、その場所に、そっと、手を当てた。
蛇族の鼻は、匂いを記憶する。私の鼻は、彼女の指のインクの匂いを、すでに覚えていた。私の指は、彼女の指の関節の数を覚えている。そして今夜、私の額は、彼女の手のひらの体温を、これから生涯忘れないものとして、刻んだ。体のあらゆる場所が、少しずつ、彼女という存在を、覚え始めていた。
書庫員たちが、それぞれの部屋へ引き上げた後も、私は、しばらく、隅の机の前から動けなかった。今日という日を、頭の中で、何度も繰り返した。彼女の紙、「不便を不便と言わなかった」という一節、そして、額に触れた、あの手の重み。十五人の書庫員が、声のない拍手を返した、あの光景も。四十年、この書庫で、あれほど多くの者が、一斉に、同じ感情を、私に向けて示したことは、一度もなかった。
彼女は、もう自室で眠っている。誰も見ていない書庫の最奥で、私は、彼女の机の前に立ち、一礼をした。足音を、極力、消しながら。
誰に見せるためでもない礼だった。ただ、自分の百年を、この場所に、正式に結びつけるための、儀式のようなものだった。四十年、書庫長として、私は、多くの儀礼を執り行ってきた。だが、この一礼だけは、誰にも教わっていない、私自身が、この夜、初めて作り出した所作だった。
◇
礼を終えたところで、足音がした。サフィンだった。まだ、寝所に下がっていなかったらしい。彼女の足音は、いつも、他の誰よりも、静かだった。
「閣下。夜分に、失礼いたします」
「構わない」
「先ほどの、あの一幕を、私も、見せていただきました。……書庫員一同、心を打たれた様子でした」
サフィンの声には、いつもの穏やかさがあった。彼女は、少しの間、黙ってから、続けた。その間の長さに、私は、続く言葉が、単なる世間話ではないことを、悟った。
「閣下。私は、五十年、この書庫で、働いて参りました。書庫長が、あれほど、感情を、声に出されるのを、見たのは、初めてです」
「私自身も、初めてのことだった」
その言葉は、飾らない、正直な、私の本音だった。
「……閣下が、これほどまでに、心を動かされる相手に、出会われたことを、私は、素直に、嬉しく思います」
サフィンの言葉には、心からの祝福があった。だが、続く言葉は、その穏やかさに、静かな影を落とした。
「族長様が、評議会で、お嬢の処遇を、お尋ねになりました」
私は、振り返った。サフィンの表情に、いつもの穏やかさはなかった。
書庫補佐官、という言葉が、私の中で、重く響いた。これまで、彼女の処遇について、私は、漠然としたイメージしか、持っていなかった。それが、初めて、具体的な地位として、目の前に、姿を現した瞬間だった。
「正式な、お尋ねか」
「はい。書庫補佐官という前例のない地位を、人間に与えることについて、来月の評議会で、協議されるとのことです。……閣下、覚悟なさってください。族長様は、公正な方ですが、伝統には、厳しい方です」
私は、しばらく、何も言えなかった。今日の午後、彼女が私の額に手を当てた、あの温もりが、まだ肌に残っていた。その余韻の中で、すでに、次の障害が、姿を現していた。今日という一日の中に、喜びと、次の試練とが、これほど近く同居していることに、私は、静かな疲れを覚えた。
◇
「サフィン。お前は、私が、彼女を、諦めるべきだと、思うか」
サフィンは、少し驚いた顔をした。それから、はっきりと、首を振った。
「いいえ。私は、五十年、この書庫で、多くの書庫長を、見て参りました。閣下ほど、静かに、けれど、揺るがずに、何かを求められる方を、他に存じません。……諦めるべきだ、とは、一度も、思ったことはございません」
「では、何を、恐れている」
「評議会が、閣下の想いを、正しく、汲み取れないことを、恐れております。閣下は、いつも、ご自分の想いを、表に出されません。それが、時に、誤解を招くことも、あるのです」
私は、その指摘に、何も返せなかった。感情を、表に出さないことは、私にとって、長年の習い性だった。だが、それが、今度ばかりは、彼女のために、裏目に出るかもしれない。
サフィンの言葉は、優しさに包まれていたが、その芯には、揺るがない指摘があった。四十年、静けさを美徳としてきた私の在り方そのものが、いま、初めて、問われようとしていた。
◇
「分かった。私が、評議会に、説明する」
「閣下お一人の言葉だけでは、心許ないかもしれません。……何か、目に見える証が、あれば」
「目に見える証、とは、具体的に、何を指す」
サフィンは、少し考えてから、答えた。
「感情ではなく、事実です。お嬢が、この書庫にとって、確かに、必要な存在であることを、誰の目にも明らかな形で、示すことです。……族長様は、情には、動かされません。ですが、積み重ねられた事実には、耳を傾けられる方です」
その言葉を、私は、頭の中で、繰り返した。事実。積み重ね。証。
「もう一つ、申し上げておきたいことが、ございます」
サフィンは、去り際に、そう続けた。
「閣下。評議会の長老の中には、お嬢を、危険視する者も、おります。書庫の知が、人間に流出することを、恐れているのです。閣下が、証を示される際は、その懸念にも、応えられる形が、望ましいかと」
「知が流出する、というのは、どういう意味だ」
「人間王国と、蛇族領は、いずれ、何らかの形で、交流を持つことになるでしょう。そのとき、お嬢の存在が、両国の橋渡しになるのか、それとも、書庫の秘密を、外に漏らす窓になるのか。……長老たちは、その判断が、つくまで、慎重にならざるを得ないのです」
私は、その懸念を、初めて聞く形で、頭に刻んだ。彼女への疑いは、私が想像していたより、いくつもの層を、成しているようだった。一つを解いても、また次の懸念が、姿を現す。
サフィンは、そう言い残し、去っていった。
目に見える証。それが何を指すのか、この夜の私には、まだ分からなかった。感情でも、言葉でもない、誰の目にも明らかな、何かの証。
窓の外、彼女の部屋の灯りが、静かに消えるのが見えた。
私は、まだ、この温もりを、彼女に返せる形を、持っていなかった。ただ、額に残る感触だけを頼りに、これから先の道を、一歩ずつ、探していくしかなかった。四十年、動じたことのなかった私の心が、この夜だけは、静かに、揺れ続けていた。
私は、自分の机に戻り、蝋燭の灯を、もう一度、大きくした。眠るには、まだ、早い夜だった。
考えるべきことは、山ほどあった。それでも、私の中には、不思議な落ち着きがあった。彼女という存在が、私の中に、確かな錨を、下ろしていた。




