不便を、不便と、言わなかった人
書庫に来て、二週間が過ぎた。村を出てから数えれば、もう一月近くになる。それでも、時間の流れ方が、村にいた頃とは、まるで違うことに、私は、日々、気づかされていた。窓の外の木々は、すっかり、秋の色に染まり始めていた。落ち葉の匂いが、風に乗って、書庫の中まで、微かに届くことがあった。その匂いを、私は、深く、吸い込んだ。
書庫員たちは、私を「お嬢」と呼ぶようになっていた。「お嬢、本日の配置の変更点です」「お嬢、ライ麦の焼き上がりはいかがでしょう」。声で返せない私を、彼らは、待つことに慣れていった。その呼び名にも、いつしか、違和感がなくなっていた。
村では、誰も、待たなかった。返事の声が来なければ、聞こえていない、とみなされた。ここでは違う。声が来ないなら、それは、紙か、指で答える準備をしている、という意味だった。その違いに、私は、いまだに、慣れきれずにいた。
待たれる、ということが、これほど世界を変えるものだとは、知らなかった。朝の挨拶一つにも、以前より長い間があった。その間の分だけ、私は、丁寧に答えることができた。急かされない時間の中で、私の指は、以前より、ずっと自由に動いた。
会計係のロサは、毎朝、私の机に、その日の書庫の予定を、簡潔に書いた紙を、置いていくようになっていた。誰に頼まれたわけでもない、彼女自身の気遣いだった。小さな心遣いの一つ一つが、村では決して得られなかった種類の、居場所の手触りを、私に教えてくれていた。誰かが、私のために、何かを、あらかじめ、用意してくれている。それだけのことが、これほど、胸に、しみるとは、思っていなかった。
書庫での日課にも、すっかり慣れた。朝、机に着くと、まず前日に読み終えた本の感想を、簡潔に紙へ記す。次に、レスカン閣下が置いていく新しい本に目を通す。昼は、サフィンやロサと、簡単な筆談で、書庫の細々とした業務を教わる。夕方には、その日に気づいたことを、備忘として書き留める。声を持たない私にとって、この一連の流れは、村での日々にはなかった、確かな手応えを持つものだった。
村での一日は、いつも、誰かの用事に、合わせて過ぎていった。ここでの一日は、違う。自分自身の意志で、時間が、少しずつ、埋まっていく。その違いだけで、同じ一日の長さが、まるで別のものに感じられた。自分の一日を、自分の手で組み立てる。それだけのことが、これほどの解放感を、もたらすとは、知らなかった。
ある日、私は、書きたいことを、書くまでに迷わなくなっている自分に気づいた。ペンを取り、紙に書いた。
『ここに、来てよかった、と思います』
書いた紙を、隣の机のレスカン閣下に滑らせた。紙が机の木目の上を滑る、微かな音だけが、二人の間に、響いた。
彼は、両手で受け取り、長く見つめてから、書き返した。
『よかった、と、思わなくて、よいです』
続けて。
『あなたは、奪われた人間です。よかったと思う必要は、ありません』
◇
その言葉の意味を、私はしばらく、考えていた。紙の上の文字を、何度も、目でなぞりながら。
レスカン閣下は、私を慰めない人だった。すぐに肯定せず、いつも一度、立ち止まって、私を守る方向に、言葉を選ぶ人だった。奪われた人間としての痛みを、彼は、私から取り上げようとしなかった。
そういう人を、村では、一人も知らなかった。継母は、私の痛みを、不便という一語で片付けた。父は、痛みごと、目を逸らした。誰も、痛みを、痛みのまま、そこに置いておくことを、許してくれなかった。ここでは、痛みは、痛みのまま、大切に扱われた。
隣の机で、レスカン閣下は、いつものように、書類に向き直っていた。何事もなかったかのような、その振る舞いに、私は、かえって、安心を覚えた。もし彼が、私の紙に、いつまでも動揺し続けていたら、私は、自分の書いたことを、後悔していたかもしれない。彼の平静さは、私の痛みを、特別扱いしすぎない、という、もう一つの優しさの形だった。
けれど、私には、書きたいことが、まだあった。
紙の契約――馬車の中で交わした、互いのこわさを見せ合う約束――のために、私は、ペンを取り直した。窓の外では、書庫員たちが、いつものように、書架の間を行き来していた。誰も、私たちの机を、気に留めていなかった。それが、かえって、この瞬間を、二人だけのものにしてくれた。
『でも』
書き続けた。
『村では、誰も、私の指を、見てくれませんでした』
『私の声が、ないことを、皆、不便がりました』
『あなたは、不便を、不便と、言わなかった』
『それは、私には、生まれて初めての、ことでした』
書きながら、ペンは震えなかった。「こわい」を書いた五日目の震えとは、違う震えのなさだった。書きたいことを、書くことに慣れた、書く人の指だった。
◇
紙を、レスカン閣下のほうへ滑らせた。
彼は、それを受け取ると、長く、長く、見ていた。蝋燭の灯が、紙の上で揺れていた。窓の外の光が傾き、机の上の影が、少しずつ、形を変えていくのが分かるほど、長い沈黙だった。
書き返す代わりに、彼は、ゆっくりと立ち上がった。机を回り、私の隣に来ると、長い指で、私の両手を、そっと包んだ。
インクで汚れた私の手を、彼は、自分の額に、ゆっくりと押し当てた。
蛇族の、最高位の感謝の仕草だった。サフィン様が、初日に見せてくれた、あの仕草。あのとき、サフィン様は、こう言っていた。
「いつか、お嬢の夫君になる方が、同じ仕草を、お嬢に、お返しになります」
いつか、が、今日だった。
◇
書庫中の書庫員たちが、いつのまにか、自分の机から立ち上がり、こちらを見ていた。十五人、全員が。
サフィン様も、入口に立ち、目から、銀色の涙を流していた。イシュタルも、その中にいた。彼の顔には、いつもの懐疑の代わりに、初めて見る種類の驚きが浮かんでいた。会計係のロサも、両手を口元に当てて、こちらを見ていた。
レスカン閣下は、私の両手を額から離すと、紙に書かず、声を出した。
「お嬢」
「私は、お嬢の、不便を、不便と、申し上げません。お嬢の指文字を、世界でただ一人、生涯、見つめ続けます。これは、紙ではなく、私の口で申し上げる、約束です」
出会ってから、彼が声で語ったのは、これが初めてだった。声を出さないことを、彼は、ずっと選んでいた。その選択を、初めて、自分から解いていた。
低い声のはずなのに、肋骨には響かなかった。代わりに、もっと奥――言葉にする手前の、書く人としての、私の芯に、静かに染み込んだ。
その声を聞きながら、私は、生まれて初めて、声というものの本当の役割を、知った気がした。声は、ただ、空気を震わせるための道具ではない。誰かの芯にまで届く、想いの、乗り物なのだと。
私は、両手を口の前で組み、ゆっくりと押し出した。
《ありがとう、ございます》
蛇族の、最も丁寧な感謝の形。それから、私は、初めて、声を立てずに笑った。
口角だけが動く、肩の揺れない笑い方だった。
村では、それは、不便な笑い方だった。
この書庫では、それは、私の笑い方として、皆に見られた。誰も、それを、不便とは、呼ばなかった。書庫員たちの拍手の代わりに、十五対の手が、静かに、指文字の《ありがとう》を、一斉に、私へ向けて返してきた。声のない拍手が、書庫の天井まで、静かに満ちていくようだった。
その光景を、私は、生涯、忘れないだろうと思った。声を持たない私が、これほど多くの人に、これほど静かに、祝福される日が来るとは、村を出るときには、想像もしていなかった。
窓の外、夕暮れの光が、書庫の隅々まで、橙色に、染めていた。この光景も、私は、忘れないだろう。




