影Ⅲ
私は、頭から湯をかぶった。
被った途端、閉じ込めておいた記憶があふれ出す。
――いや、そもそも。
事の発端は、女が「シャワー」なんぞを欲した事だ。
次第に髪が湯を吸い込み、頭が重くなる。
それとともに、私は床に崩れ落ちた。
気が付くと、寝室だった。
腕を上げる。体中に刻印された被搾取者の証。
軽く上体を上げると、胸の上にかかっていたブランケットが腹まで落ちた。
奥には、気まずそうにこちらに背を向けている女がいた。
「その…悪かった…あんたが嫌がるのを、軽く捉えてた」
気を失った私を急いで、寝室に運んだのだろう。彼女も半裸で、寝室の明り取り窓に、びしょ濡れの私たちの服がかかっていた。
きっと、彼女は私の隠していた全身を見たのだろう。体の上にかかっていたブランケットが全て落ちたのも気にせず、布団の上を彼女に向かって進む。衣擦れの音に、背中が緊張したのが分かった。
だが、すべてを見られてしまった以上、生きて帰すわけにはいかない。振り向きかけた彼女の首に手を這わせる。
どんなに、粋がっていようと女の首だ。細くしなやかなそれは、手の中にすべて収まってしまった。
動脈が、激しく脈打ち始める。平静を装っていても、内心動揺しているのだろう。
「……っ!」
手の中の首をゆっくりと締め上げる。空気を求めて上下する筋肉の動きも、行き場を失った血液で赤くなる耳も、振りほどこうにも満足に動けずに動揺する拍動もすべて、この掌の中だ。
指の拘束を解こうと、彼女の細い指がかかる。かなり強い力だ。私の非力さでは、幾許の間もなく、指は解かれてしまうだろう。だがその前に、少しだけ手のひらから力を抜いた。
想定外の行動に、再び彼女は行動の隙ができる。滞留した血液で赤く染まった耳に口を寄せて、低い声で囁いた。
「お前は、見るべきではなかった。だが、見てしまった。さて——どうしようか」
彼女の身体から、力が抜けた。
——受け入れるつもりか。罪悪感からか。それとも、諦めか。
彼女は、ゆっくりとこちらに顔を向けた。唇と唇が、触れそうな距離。お互いの呼吸が、唇にかかる。
唇に感じる呼気は、安定している。この期に及んで、恐怖も慄きもしないというのか。
狼狽えたのは、私の方だった。首にかけた手が、外れてしまった。私の動揺が、彼女に伝わってしまった。
彼女は何も言わなかった。ただ、私を射るように見ていた視線を、輪郭をなぞるように落とし、肩に、腕に――そして、隠してきた刻印にたどり着く。彼女の指が、それに触れた。
「っ!」
私は、思わず後ずさる。
すかさず、彼女が上半身を翻し、私の両方の手首を掴む。
手に入れかけていた支配権は、暇もなく元の所有者に戻ってしまった。
「どうするんだ?」
挑戦的な表情に、からだが震えた。脇に落ちていたブランケットを掴み、自分の身体を隠す。
彼女は、ゆっくりとベッドに上がり、後ずさる私にのしかかるように腕を突く。
逃げ場がない。
女の顔が、近づく。
耳元で、女が囁いた。
「首を絞めて…それから、どう、するんだ?」
次の瞬間、女の身体が、私の上に重なった。
胸と胸が、重なる。
——また、始まるのか。
汗が、噴き出し、息ができない。
繰り返される。
あの日々が。ただ耐えるだけの、時が過ぎるのをひたすら待つだけの日々が脳裏を焼く。物心ついた頃から刻み込まれた記憶は、パブロフの犬よろしく、何年経とうと変わらなかった。
身体が、動かない。観念したわたしは、女の次のアクションを、ただ待つしかない。
だが——
何も起こらなかった。胸にのし掛かる重さはそのままだというのに――私は、恐る恐る目を開けた。
「……クルス?」
彼女は、答えなかった。ただ、熱い息が、私の首元にかかった。
熱い。異常に、熱い。
「おい、クルス」
私は、クルスの肩を掴んで、自分の上体を起こした。少し震えているようにも感じる。
——風邪か。
寒い中、半裸で私の対応をしていたから。
私は、彼女の身体をベッドに横たえた。脇に落ちたブランケットをかける。クルスは目を閉じたまま、荒い息をしていた。
*
今日も相変わらず太陽は分厚い雲の向こうで、逃げ場を失った湿気が身体にまとわりついてくる。
いつも通り、作業台の前に座る。
花崗岩のテーブルには、地元の住民数名とラファの姿があった。
ラファは私に気が付き、こちらを振り返った。朝の光の中で見たからだろうか、彼の笑顔が少し逞しく見えた。再び地元民との談笑に戻ったラファだったが、しばらくすると二人と掌を交わし、こちらにやってきた。
「ご盛況のようだね」
用が済んだのだろう。地元民たちは私に軽く手を振り、小屋から出て行った。
「そうでもねーぜ。こっちの足元見やがって、あいつら」
最近の彼の口調は、クルスからの影響を多く受けている。そのおかげなのか、話し方もだいぶ流暢になってきた。
「ソレダ。あの箱出して」
備品棚の最上部を指さす。手元の作業を中断して、手のひらに収まる木製の箱をラファに手渡した。
彼は受け取るや否や、自身の中指からリングを外し、木箱の中に入れる。それから人差し指でぐるぐる中をまさぐり、そのうち一つを中指に装着した。
「また、これ。仕舞っといてくれよ」ふたを閉めた木箱を、手渡される。
先ほど、座りなおしたばかりなのだが……
とは思ったが、再度立ち上がり備品棚の最上部に木箱をしまった。
定位置に収めてから振り返ると、ラファは新しくはめたリングをじっと眺めていた。
指を広げたり、握ったり。落ち着きなく動かしながら、親指で表面をこすっている。
「……何してるんだい、それは」
声をかけると、ラファは一瞬だけこちらを見た。
「ん? 設定」
それだけ言って、また手元に視線を戻す。新しいC-リングなら、生体認証のやり直しが要る。そんなことは分かっている。私が聞きたかったのは、そこじゃない。
「だってさ。さっきの取引の金、持ち歩いてたら危ないだろ」
そう言うと、ラファは肩をすくめた。
「……自覚はあるんだね」
「あるある」
笑いながら、くるっと回って見せる。
「だから、こっちのリングは、ソレダからもらった小遣いしか入ってないやつ」
ソレダは、ケチ臭いってみんな知ってるから安全なんだよなっと、続いたセリフに、思わずため息が出る。
それにしても、これまで何度、この箱を出させられたことだろう。
(いったい、どれだけ溜め込んでるんだ……)
まるで、私の考えた瞬間を捉えたように、ラファが、ぴたりと動きを止め、こちらを見上げて、にやっと笑った。
「今、俺のこと考えてたでしょ」
「……」
無言の私を見て、楽しそうに目を細める。
「ソレダが俺のこと気にするの、珍しいじゃん」
クルスがまた入れ知恵したのだろうか。溜めた金は何に使うつもりなのだろうか。とか、地元の連中は、ラファに渡した金は、私が彼から回収していると思っているのだろうなぁなど、もろもろ疑問や、言いたいことが浮かんで、答えあぐねていると
「ま、教えないけどね」
そう言って、入口の方へラファは小走りに向かう。
その背中に、「気を付けて!」と言いかけ、言葉を喉の奥に引っ込めた。何を気を付けるだって?こんな地獄の最下層のような場所で?
笑い声だけを残して、飛び出していったラファを見送りながら、私は短く息をついた。
*
今日も今日とて、私は、一人で作業机に向かった。いつもと違うのは、ふらりとクルスが出かけているという事だろう。彼女は2~3日程度、戻ってこないこともある。
ふと、引き出しの奥に手を突っ込み、冷たい感触のそれを手に取った。ラファから買い取った、粗悪なプルセラ。黒い石が、雑にはめ込まれている。
そろそろ、返すべきだろうか。
——まあ、その前に。
彼女の秘密を覗き見てやろう。好奇心に後押しされ、分光器に石をセットした。
光を当てる。
プリズムが、光を分解する。
そして——石が、光った。鮮やかな、緑。それから、青。
いや——色が、変わり続けている。波長に反応して、色を変えている。
「……これは」
私は、ノートに数値を書き留めた。この結晶構造。既知のどの鉱石とも、違う。何に使う? 宝石か?それとも砕いて、資材にでもするのか?
ラファの瞳は、この変容を見抜いたのかもしれない。
——未知の鉱物か。
ふと、気づいた。
石の周りの空気が、わずかに歪んでいる。
熱? いや、違う。化学反応——
「……毒性が、あるのか?」
美しいが、危険。まるで、誰かのようだ。
——返すべきだ。
だが。
私は、プルセラを引き出しに戻した。
*
そして今日も、朝日は昇り、いつも通り、いつものように作業台に向かっていると、屋の扉が開いた。
「ソレダ~♪」
女の声が聞こえ、香水の匂いが、先に入ってくる。
私は、作業の手を止めた。腰まであるウェーブした黒髪を揺らし、はりのあるオリーブ色の肌は、貧民街の住人のそれとは明らかに質が異なる。
無遠慮に上がり込んだ客は、花崗岩のテーブルの上に腰を落とす。
長い睫に縁取られたエメラルド色の瞳が、室内をぐるりと見回した。客が動く度に、大振りのアクセサリーが、音を立てる。
「依頼に来たんだけど…」
一通り室内の観測を終えた客は、作業台にいる私に視線を向けた。
その時、寝室から布が揺れる音がした。昨晩帰ってきたクルスが、ようやく起きてきたのだ。案の定、彼女は、ボサボサの髪と、寝ぼけ眼を擦りながら寝室と通路を隔てる布を潜り出てきた。
「! ちょっ…」
そんな様子で出てくるなと、クルスに声をかけようと立ち上がる。私の様子が気になったのだろう、花崗岩のテーブルに腰かけていた客も、作業台までやって来て、通路を覗き込んだ。
「……なんだ、客か?」
クルスは、あくびをしながら言った。
「……おやおや?」
客の目が、わずかに細められた。
「あなたは、プライベートに人を踏み込ませないタイプだと思ってたけど?」
「……」
それより何より、半裸でうろつきがちなクルスが、今日は、多少とはいえ他人の前に出られる程度に布を纏って出てきてくれたことに、内心ホッとしていた。
「へぇぇぇ」
一方の客は、興味深そうにクルスを上から下までじっくりと観察する。
「あんた、誰だ?」
クルスは、自分を無遠慮に観察する女にムッとしたようだ。
「この人のぉ、取引相手…かな?」
「取引?」
「そ。色々、ね?」
私は、わずかに眉をひそめた。私は二人をそれぞれに紹介した。
「彼女はエスメラルダ。昔からの取引相手だ。そして、こちらはクルスだ。」
クルスは、私を見、そして、エスメラルダを見た。
「……そうか」
彼女は、それ以上何も言わず、キッチンに向かった。客――エスメラルダは、その背中を見送り、そして、私に向き直った。
「ちょっと、面白いことになってきたわね」
「……用件を言ってくれ」
エスメラルダは、笑いながら、依頼の内容を話し始めた。
エスメラルダが帰った後、クルスが食事を作った。
三人で、花崗岩のテーブルを囲む。
芋と野菜と肉のスープ。ラファは、固いパンを浸している。
いつから、こうなったのだろう。
クルスがここに居座るようになって、数日した頃からだったろうか。彼女は食材を調達してくるようになった。どこから手に入れているのかは知らない。聞いても教えないだろう。だが、質は良い。この辺りの寄せ集めとは、明らかに違う。
そのせいか、ラファが夕食時に現れる回数が増えた。最近では、夕飯時には必ず席についている。
食料の調達に加えて、食事の用意もクルスの担当だ。何度か手伝ってみたが、「邪魔だ」と一蹴された。それきり、任せている。ラファは時々、野菜を洗ったり、鍋を運んだり、かいがいしく手伝いをしている。
三人で食卓を囲むようになったばかりの頃、ラファがクルスに、他の地元の人間にも分けていいかと聞いたことがある。
クルスは、即座に首を振った。
「施しは、誰のためにもならん。分けたいなら、分けられるだけの何かを、きちんと受け取れ」
私は、その言葉に少し驚いた。のべつくまなく、考えなしに様々なモノをここに持ってきていたワケではないらしい。
「じゃあ、クルスは、ソレダから何もらってんの?」ラファは、白いスープをかき混ぜながら尋ねた。
「宿賃の代わりだ。お前がソレダに売った腕輪を取り返すまで、ここにいるって決めた」
――ああ。そういえば、あのプルセラ返さないといけなかったな…
そんなことを思い出しながら、私はスプーンを置いて、彼女見た。
「その……何も言わないのか」
芋を口いっぱいに頬張ったクルスは、私の問いに答えようと、忙しく咀嚼する。飲み下すまでの微妙な間に、自分の間の抜けた問いを後悔する。
「言うって何を?」
「…いや、なんでもない」
「エスメラのおばさんが来たこと、気になんないのかって聞きたいらしいよ」
嫌いな野菜をどけながら、ラファが口を挟む。
「……? 馴染みなんだろ? おい、ラファ。お前、野菜も食え」
クルスは不思議そうに私を見、ラファの口に野菜を突っ込みながら、少し思案し、呟いた。
「まぁ、気になるって言ったら、どっかで見た……あ、いや……まぁ。大丈夫だろ」
食事の片づけが終わったあたりで、クルスが寝室に戻るのが見えた。
今夜はいい機会かもしれない。寝室に向かう、クルスを追いかけた。クルスを呼ぶと、彼女はこちらを振り返る。
「クルス……頼むから、私の前でも、できるだけ肌を覆ってくれ」
「え。ヤだけど。」
立て板に水。とはこの事だろうか。すでに服のほとんどは脱ぎ捨ててあって、必要最低限の半裸でベッドにもぐりこもうとしている最中だった。
「だって、ココ、暑ぃーんだもん。布切れ一枚とはいえ、無駄にまとってる余裕ねーよ」
――それなら、さっさとここを出て行けば…
と思ったが、そう言えば彼女は私からプルセラを取り返すために、ここに居続けていることを思いだした。
「この間、渡した夜着があるだろう」
言いながら、私は部屋の隅に置いていた袋を拾い上げた。この間、うちに来た地元民についでに頼んで購入してもらったものだ。
「何の役にも立たなかったじゃねーか」
クルスは振り返りもせず、ベッドの上でごろりと横になる。
確かに――朝起きたら、布は首元まで巻き上がり、用を成していなかった。
「……寝相が悪すぎる」
「知ってる」即答だった。
あれから、改めて買いなおしてもらったのだ。袋から取り出したそれを、彼女の方に差し出す。
「――今回は違う」
薄手で、丈は短い。肩にかける紐は細いが、ずれにくい作りで、胸元も無駄に開かない。何より、肌に貼りつかず、蒸れにくい素材だ。
「これを着て寝てくれ」
一瞬、沈黙。
それから、クルスがゆっくりと身体を起こし、私の手元――その布切れを見た。
「……」
目が、細くなる。
「……ずいぶん、攻めたもん持ってきたじゃねーか」
「は?」
「へえ。あたしに、これ着てほしいんだ?」
にやり、と笑う。そのまま、距離を詰めてくる。気づけば、彼女の顔がすぐ近くにあった。挑発するようにしたから、私を見上げている。
「ソレダって、こういうのが好みだったわけ?」
「違う!!」反射で声が裏返った。「ち、違う! そういう意味じゃない! 上裸で寝るなって言ってるだけだ! これを選んだのは、機能性だ!」
「――機能性、ねえ」
クルスは楽しそうに、じっとこちらを見上げてくる。
完全に、からかっている顔だった。
「随分、考えた“機能”だな」
「だから違うと言っているだろう!」
顔が熱くなる。
「暑い中でも着られて、寝返り打っても捲れにくくて、それで……その……」
――言えば言うほど、墓穴を掘っている気分だ。
「あー、はいはい」
クルスは、ひょいと手を伸ばし、私の手からそれを取った。
「わかってるって。着りゃいいんだろ」
そう言って、受け取った布を軽く振る。
「まったく。過保護だな」
そのまま背を向けて、ベッドに戻る――かと思ったが、ふっと思い出したように振り返った。
「そういやさ」
「……まだ何かあるのか」
「ソレダ、夜中の歯ぎしり、結構すげーぞ」
「なっ……」
「マウスピース、した方がいいんじゃねーの?」
それだけ言うと、ベッドに潜り込んでしまった。
「……」私は、その場に立ち尽くし「……今日は、もう、寝る」と呟くのが精一杯だった。
背後から、くすっと笑う気配がした。
今日も私は作業机に向かっていた。
机の端に、微量の赤い鉱石の破片が置いてある。ラ・ロハ。と、エスメラルダは呼んでいた。
何年前だったか、彼女からこの鉱石の調査・分析を依頼されていた。極秘と、彼女には珍しく真剣な顔つきをしていたのを思い出す。当初は、ただの赤い宝石だと思っていた。
少量ずつ渡されるので、なかなか分析試料が足らず、時間がかかってしまった。確か、今から二年くらい前、ようやく、この鉱石の特殊な性質に気づいた。
特定の波長を当てると、神経系に作用する。
記憶に、または視覚に干渉する事は、何度かの実験で確証を得ていた。
——もし、これを使えば。
塗り替えられるかもしれない。
あの記憶を――
私は、ノートに計算式を書き連ねる。正当な教育を受けたわけではない、だからこれは私だけが理解する、「わたしの数式」だ。
「ソレダ、何作ってんの?」
ラファの声がした。
振り返ると、ラファが覗き込んでいた。気づけば陽ずいぶんと上がって、一日の中で小屋の中が最も明るくなる時間になっていた。
「いつもと、違うね」
「そう…かな?」何が違うのだろうか。彼の話は主語を見つけにくいことがある。
「何に使うの?」
「……さて、なんだろうね」
さらに覗き込もうとするラファの頭が影になり、作業が止まった。代わりに彼の瞳が陽に透けて輝きを増す。彼にはこの世界がどう映っているのだろうか。柄にもなく思い馳せてしまい、くしゃりとラファの頭を撫でた。
窓の外を見る。
曇天だが、今日はそれほど重くない。
今日も一日無事に過ぎてくれるといい。




