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エル・マルヘンの不法滞在者  作者: ArtCafePOLYPUS
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不法滞在者Ⅱ

居座るとは言ったものの、こいつはどこで寝てるんだ?


胸ぐらを掴んでいた手を放し、キッチンらしきものがある室内を見渡す。生活はしているようだが、寝る場所が見当たらない。

因業爺から逃げてきて、いい加減疲れてる。ここらで体を休めたいもんだ。

光が行き届かず、薄暗く埃っぽい室内。四角く開いただけの窓を背に立つ、黒い影を見上げる。


畜生。こいつ、背がでけーな。


攻撃の素振りを感じたら、すぐにでもカウンターを打ち込めるよう、慎重に一歩下がる。だが、影は寄れた首元の布を直すだけで、敵意を発しなかった。

影は、一歩下がったあたしを一瞥だけして、作業に戻った。


なんだなんだ?居座るって言ったの、本気にしてねーのか?


あのバングルは絶対に取り返さなきゃならない。だが、それよりも興味を引くのは、こいつの机の上だ。あの分光器と、散らばった鉱石。既知の鉱物じゃない、あの透明度。


あーーー。こんな時に、考えがまとまらねー。


ふと、空気の流れを感じた。感じたままに顔を動かすと、天井高のギッシリとした棚の後ろに、人一人が通れる通路があった。影のいる机がちょうど折り返しポイントになっているので、気がつかなかった。

通路の奥には、ベッドのようなものが見える。


――よっしゃ、悪いが、借りるぜ!


作業に没頭する影の横をすり抜け、奥の通路を進む。影は、何か言いかけたようだが、手元に視線を落とした。

何を言われなかったことをいいことに、最深部のベッドを目指す。

ベッドに辿り着いた途端、体から力が抜けた。


——あー、やべぇ。限界だったか。


因業爺を振り切るために、三日三晩、碌に休まず走り続けた。重ねて合わない気候と、空気に体が対応しきれなかったらしい。泥のように眠りに落ちた。


喉の渇きを覚えて、目を開ける。

腕が上がらない。身体もまるで砂を大量に詰め込まれた麻袋のように重たく、少しでも動かそうと思うと体の中がざらつく。


――くそっ、こんなとこで熱かよ…


無理やり体を起こすと、世界が回る。寝室らかつながる通路の奥を見やる。壁をくりぬいただけの窓は、朝なのか昼なのか、ともかく明るかった。一夜は明かしたらしい。身の回りの物を確かめる。昨晩ベッドに倒れ込んだ時のままだ。あの窓辺に佇んでる背の高い影は、こちらに来なかっという事なのだろうか。


——なぜ?


疑問が浮かぶが、今はそれどころじゃない。薬と栄養剤を飲料水で流し込んで、再びベッドに沈んだ。

体調不良なのがバレているのか?弱るのを待っているのか?

わからない。だが、どういう意図かわからないけど、距離感を保ってくれているのは助かる。


何日経ったのか。


三日、いや四日は経ったかもしれない。

体調が回復したのは、栄養剤のおかげか、それとも単純に休めたからか。

ベッドから起き上がり、体を動かしてみる。問題ない。動ける。

結局、あの影は寝室には寄り付かなかったようだ。おかげで助かったが…いったい何を考えているんだ?

とにもかくにも、動けるようになったあたしは襤褸小屋を出た。


このボーダーエリアの外で待機している仲間に連絡を取らなきゃならない。本来であれば、二日前には接触している予定だったから、ずいぶんと肝を冷やさせてしまったかもしれない。

貧民街を抜け、エアライドが行き交う都市部に向かう。バーチャルエコノミー圏に入るギリギリのところで、仲間に信号を発信する。バーチャルエコノミー圏に一歩でも足を踏み入れると、システムに個人ログが認知される。すると、瞬く間にあのクソ因業爺ストーカーに見つかるだろう。本当にふざけた野郎だ。


暫く待つと、小型のエアライドが傍に着いた。見慣れた仕様だ。ライドの扉が開いて、乗り込む。


「お嬢、心配しましたぞ」


隣には、見慣れた加齢臭をまとう、これまた爺が座っていた。


「仕方ねーだろ、あのクズを撒くのに手こず…」


「お嬢、お言葉遣いはお気を付け下さいませ」


静かだが、有無を言わせぬ強さで爺が遮った。


「…動けなかったのよ。どこに潜んでいるかも分からなかったからね」


見ず知らずの輩のいる襤褸小屋で数日間高熱に苦しんでいたことは、絶対に口にできない。


「確かに、少々浅ましさは見え隠れされる方ではありますが、お嬢が大人な対応をされていれば、ここまで拗れる事も無くですね…」


「そんな事より、少し気になることができたわ。しばらく、こっちに引っ込ん……潜伏するわ。」


加齢臭爺は、はぁぁと深く息を吐きだした。


「お嬢。例のバングルはどうされたのですか? それだけでも、この爺がお預かりさせていただきますよ。研究員も待機させておりますので、お嬢の気が済むころには解析が済むと思います」


そこで、思い出した。あンのクソチビに掏られたんだった。


加齢臭爺からの説教は、二時間に渡った。結局、高熱で寝込んだことも白状させられた。

最終的には、開放してもらえたので良しとしよう。ついでに、このエリアが、エル・マルヘンという地域で、全体の7割が貧民街であること、いくつかのカルテルが勢力を争っていること、あたしがバングルを掏られた辺りは、最底辺エリアだという事が分かった。

そのおかげで、因業爺の手から逃れられているなら、願ったり叶ったりだ。

潜伏する間の通貨として、リングと静脈コードが記載された薄いシートを渡してくれた。


「これで支払いはできます。手のひらを合わせるのが、この付近の流儀のようですな。いいですが、くれぐれもお気を付け下さいよ」


あたしはシートを受け取り、頷いた。ついでに小型の翻訳機を渡される。貧民街の奥深くに行けば行くほど、訛りが強く、確かに聞き取りにくい。が、むやみにバーチャルエコノミー圏の物を持ち込みたくない。


「一つ、二つぐらいは、この爺のいう事を聞いてやるもんですよ」


役に立ちますから。と強引に渡された。仕方なく、アイテム用のホログラムをかけて、形の変わった石ころのように擬態させた。まったく、いつまでたっても世話を焼きたがりやがる…

襤褸小屋に戻る頃には、陽はすっかり落ち、代わりに丸まるい月が空に浮かんでいた。

あの影のいる襤褸小屋は、少し小高い位置にある。何かの基礎だったのか、建物の残骸のようなものが不揃いの階段を形成し、ところどころに物乞い達がたむろしている。


寝室に戻ると、先客がいた。


——は?


一瞬、驚いたものの、気を取り直す。そりゃそうだ、この寝室はあの影のもので、本来の主が使用するのは当然だ。

影からは、穏やかな呼吸が聞こえる。寝ているのだろう。


——広いベッドだ。二人で寝ても問題ない。


多少、右側に余裕があるのは、あたしに気を使ってか…いやまさか。そういう習慣なんだろう。

あたしは服を脱ぎ、余白のあるベッドの右側に滑り込み、影に背を向けて眠りに落ちた。


翌朝。


「朝だ。起きろ」


低く、だが明確に怒りを込めた声で、あたしは叩き起こされた。


——あ?なんだ?


目を擦りながら起き上がると、影がこちらを睨んでいる。

朝の光が差し込む中、あたしはようやく影の顔をまじまじと見た。

栄養が良くないのか、骨ばったひょろ長いそいつは、漆黒の瞳とそれを縁取るばっさばさのまつげ。この土地の人間にしては珍しく、浅黒くもなく、かといって白いとも言い難い絶妙な肌の色をしていた。


――エキゾチックってやつだな。


典型的なこの地方の人間に比べると、頭一つ分大きく、また目を引く容姿をしている。

綺麗な容姿をしている。こんなところに引っ込んでないで、顔で稼げば…って思ったが、余計な世話だ。


「起きろと言っている」


あたしはあくびをしながら、周りを見渡した。ああ、また頭と足が逆になってるな。おそらく、寝ている間にこいつを蹴ったか、蹴落としたかしたんだろう。


「……寝相が悪いんだ。昔から」


これに限っては、悪かったと思ってる。だが、どうしようもない。

影は、明らかに苛立っている様子だが、何も言わなかった。

「悪かったな」そう言って、ベッドから降りた。さすがにちょっと気まずくなって、寝室を出た。


――それにしても、腹が減った。


体調が良くなったのだろう。ある朝、急激に空腹が押し寄せてきた。

手持ちの食材は体力回復のために、あらかた食い尽くしてしまった。都市部に出たついでに買って来ればよかったんだろうが、長い説教から逃げ出したい一心で、早々にここに戻ってきてしまったので、食うものがない。


キッチンを漁る。――何だよ、なンもねー。しけてる。


寝室に向かう通路を作っている、棚を漁る。現世圏のだろうか。古い缶詰を見つけた。豆…か?食えるのか?これ。

ご丁寧にプルタブが付いていたので、蓋を引き開ける。

匂いは…大丈夫そうだ。まあ、いいや。凡そ、キッチンとはいいがたい、調理台の前に立つ。

火を使えるような、コンロなんてなかった。


――仕方がない。冒険家御用達。どんな環境でも調理できてしまうポータブルコンロを広げる。


鍋はあったので、その中に缶詰の中身をぶちまけて、多少はマシになるかもしれない、調味料っぽいものを適当に振り入れて、かき混ぜる。とりあえず、旨そうな匂いにはなった。

出来上がった豆のスープを二つの皿によそう。

横を見ると、ガリガリの影は作業机に座って、なにやら作業をしている。

言葉が通じないからか、なんなのか、こちらの行動に時折眉を吊り上げたらしているが、出て行けとは言わない。――敵意は感じない。まあ、しばらく観察させてもらうさ。

皿を二つ持って、影の対面に座った。


「……食え」


影はこちらを見た。毒は入っていないことを見せるため、先にスープに口を付ける。影は怪訝な顔をしていたが、盛大に腹の虫を鳴らして、スープに手を伸ばした。


この襤褸小屋での最初の食事は、少し塩辛かった。


腹の具合が落ち着くと、色々と見えてくる。この襤褸小屋を少し探索することにした。

あたしが、ガキを追いかけて最初に入った部屋は、どうやら応接室も兼ねているようで、日々地元の人間が訪れる。入り口を入ると、目に入るのは天井に届く棚だ。細かく区切られた棚は、びっしりと色々な物が詰め込まれている。その奥に、壁に大きくくりぬかれた窓があり、その下に影の作業台がある。一見すると、そこが部屋の終わりに見えるが、実はこの棚の裏が寝室に向かう通路になっている。


寝室にはクイーンサイズのベッドが一つどんと置かれている。ここにも、壁に穴をあけた窓があるが、精々、昼間なのか、夜なのかが分かる明り取り程の大きさだ。作業台に続く通路とは反対側に、ぼろ臭い木戸があって、納屋につながっている。ほとんど使われていないようで、今にも壊れそうだ。


応接室にある、影の作業台と反対側には、調理台がある。が、コンロがあるわけでも、水道が繋がっている訳でもない。調理具と、調理するスペースがある原始的なものだ。そして部屋の、真ん中にこの襤褸屋には似つかわしくない、花崗岩のテーブルが陣取っている。

この影は、地元民に慕われているのか、現地の人間らしき者が頻繁にこの襤褸小屋の戸を叩く。

手には食料を持ってくるものが多い。

奥にいる影は、それらを受け取ると、代わりに何かを渡したり。または、来訪者を花崗岩のテーブルに乗せ、身体を触り、まるで医術者のようなことをしているのを見たこともあった。

取り巻く人間を観察するのは楽しい。それで、中心人物の人となりが手に取るように解かる。

影の元に訪れる人数が、多くなると少なからずいざこざが発生する。すると、どこからともなくラファとかいうガキがしゃしゃり出て、彼らをおとなしく待たせている。受付係みたいな役割なのかもしれない。

興味深いのは、数週間に数回、現地民よりもずいぶんとご立派な風体をした輩が、この襤褸小屋を訪れる。

その時は、この襤褸屋が何とも言い難い緊張感に包まれる。影も、そして輩どももお互い憎し思っているのが、うかがい知れる。


――なんなんだ?こいつらは?


一度、ガキに聞いてみたが、分からないのか、答える気がないのか、首を横に振っただけだった。

影は、彼らとはほとんど話すことはなく、ただ、何かを大事そうに手渡す。その後、輩どもと握手をし、輩どもは早々に立ち去っていく。

この握手が、どうやら彼らの通貨のやり取りだと気づいたのは、奴らの定期訪問に気付いて、何度目かだった。

この地では、現物の金はすでに廃れて久しいようだ。その代わり、手のひらの静脈のコードと、連動リングで通貨のやり取りをしている。加齢臭爺から渡されたのは、これだった。

……これは、十数年前にバーチャルエコノミー圏で流行った、ゲーム内の通貨理論だったと思ったが、なるほど、こんな使われ方してるのか。


それにしても、気になるのは、あの影の机の上だ。


あいつが席を外している隙に、何度か覗いた。――分光器。手作りだが、精度が異様に高い。レンズの研磨、プリズムの配置、すべてが計算されている。こんな襤褸小屋でやっているようなレベルじゃない。研究都市アカデミアの研究員と比肩してもおかしくない。

鉱石も、ただの石ころじゃない。切断面が滑らか。透明度が高い。既知の鉱物とは、明らかに違う。

ノートを開く。紙を束にして、先頭を尖らせた黒鉛でびっしりと書き込まれた数値。

波長ごとのピーク。異常値の繰り返し。


——これは…こいつは、何者なんだ?


何故、ここまでの力量を持ったものが、貧民街に潜んでいる?

バングルを取り返すのが第一目的ではあるが、それ以上にこの人物の真意を測る必要がある。

滞在が長くなりそうだ。――という事は…


シャワーが必要だろ!蒸しあちーンだよ、ここは!


不快なほどの湿度と、寒くもなく、暑くもなく中途半端な気温が続く。じっとりと体にまとわりつくような汗で、自分の体から異臭を放っている。

この襤褸小屋には、まともな水場がない。簡易的なトイレと、水を汲む場所があるだけだ。あたしはもう限界だった。

寝室の裏に、使われていないスペースがある。あそこに簡易シャワーを作れば——


機会はすぐに訪れた。

表情は相変わらず無表情だったが、影のまとう空気が変わったのだ。

表情は相変わらず無表情だが、机に向かう時間が長くなった。ノートを見つめる時間も。何度も同じ数値を書き直している。鉱石を削り直している。


——行き詰まってるな。


影が離席した隙を狙って、作業台を覗き込む。これは…いや、どうだろう。専門家でない、あたしでわかる範囲だが…。

集中してみていたせいか、あの影が戻ってきたことに気が付かなかった。


「この結晶、どこ、採取した?」


性格に伝わる単語だけを選んで、机上の結晶を指さす。


「……なぜ××を聞く?」影は、警戒の色を表情に浮かべた。だが、そんなことは気にしない


「この、透明度。既知の鉱物、違う。それに、この筋——」石を持ち上げ、窓からの光に透かす。結晶の内部構造が均一だ、人工物か?いや、でも触れた感じ、人工物特有の質感はない。影も、天然物だと答えた。

それならば、どこでこんなものを手に入れた?正直、バングルにはめていたあの鉱物より、こっちの方がはるかに興味深い。なんてこった、こんな辺境の貧民街で、才能の原石を掘り当ててしまったのかもしれない。

鉱石を机に戻し、開いたままのノートに目を落とした。びっしりと書き込まれた数値と図解。波長ごとのピークを示すグラフ。


「……この異常値。再現性、あるのか?」


何度も書き直された数値を指す。同じ波長域に、ありえないほど鋭い反応が繰り返し現れている箇所だ。…やはりそうか…だが、片言で伝えきれるものではない。


――仕方ねーなぁ。


あまり、バーチャルエコノミー圏の物を晒す気はなかったが、仕方がない。通訳気を取り出し、話しを続ける。


『プリズムの角度、もう少し調整した方がいい。スペクトルの分離が甘い』


分光器に手を伸ばし、固定されたプリズムの角度を変えた。微妙だが、計測器にとっては大きな誤差だ。影は止めようと手を伸ばしてきたが、構わず続けた。


「これで、もう少し、良い、データが取れる」


影は飛びつくように、分光器に触れ計測を始め――が、そうは問屋が卸さねーぜ。

この対価は、払ってもらわねーとな!

影は計測に没頭している。分光器と手元のノートの往復が速くなる。その間に、腕を差し込んだ。


「なあ」


影が顔を上げる。


『あんたの仕事が進んだのは、あたしのおかげ。だが、タダじゃねー。払うモン払ってもらうぞ』


翻訳機を通して、しっかりと伝える。


『対価を払わねーなら、調整したプリズム元に戻すぜ』


ひょろなが影と分光器の間に差し入れた腕を、分光器に寄せる。その手が調整用のねじに触れかけた瞬間、腕をぐいと掴まれた。


「……幾らだ」


ふと、バングル返してもらってねーな。と、過ぎったが、天秤はシャワーに傾いていた。


『シャワーだ』


薄い垂れ幕で仕切られた奥の寝室を指さした。


『寝室と納屋のどんつきに、人が一人ぐらい入れる場所があるだろ。あの場所にシャワールームを作れ。』


思いもよらない話だったんだろうな。影は眉間に指を押し当てて、考え込んでしまった。


「…この土地の人間は、シャワーなんてものを見たことがない」


「――あっ…」


そりゃ、そうだ。ここは貧民街だ。


『だけど、あんたは「シャワー」が何か知ってる。あんたが、地元の連中に指示を出せばいいだろ』


少し下ったところに古井戸があるのを発見したからな、水源はその井戸を使えばいい。


「動力や、資材を私が負担するという事か?」


「あーーー。いやいや、金はあたしが払う。あんたは、あのどんつきにシャワールームを作る許可と、ここの地元民に作る指示と指揮をしてくれればいい」


翌朝、作業場と応接の…つまりリビングを覗くと、定期的にこの襤褸屋を訪れる男に、あたしが水浴びしたいと、わがままを言うので、言う事を聞いてやってくれと、話しているのが聞こえた。


「水浴びたいなら、下の川に行けばいい」


男は、あたしと目が合うと、困ったような、変な女がいるというような表情をした。


「ケ・ペレサ! 下で水浴びる、坂登る、汗かく、繰り返しだ!」


うんざりしながら、あたしが言うと。男と、影は顔を見合わせ、大爆笑した。何て失礼な奴だ。

――何がおかしいんだよ。あたしの発音がおかしかったのか、それとも言い回しが変だったのか。

ともかく、水浴びできるようにできるのか、できないのかと重ねて聞く。


「金次第だ」


「金なら、こいつに渡した。むしり取るなら、こいつからにしろ」


「それだから?」


――は? 男の言葉の意味が理解できず、口を開けたまま首を傾げ、眉間にしわを寄せて相手の顔を覗き込んだ。「それだから?」どれからだって?何の話だ? ふざけてンのか?

あたしの怒気が伝わったのか、男は少し慌てて表情を取り繕うと、ひょろなが影を指して「それだ。それだ。」と繰り返した。


意味が藁かず、


――はあ?


ますます意味がわからない。

男は、必死にひょろなが影を指差しながら、「それだ、それだ」を繰り返している。

金を払うって言ってんのに、「それだ」って何だよ。

あたしは男を睨みつけた。


――待てよ。


ふと、視線をひょろなが影に移した。こいつは、中央の花崗岩のテーブルに肘をついたまま、こちらを見ている。無表情——ではない。

口元が、わずかに緩んでいる。なにかを、面白がってやがる。

あたしは、臭くてきたねー格好した貧民街の男をもう一度見た。男は相変わらず、ひょろなが影を指差し「それだ、それだ」と言っている。


――あ。


あたしはゆっくりと、ひょろなが影を指差した。


「……ソレダ?」


男の顔が、ぱっと明るくなった。首を何度も縦に振る。


「そうだ!ソレダから!」


ひょろなが影の名前が、「ソレダ」?あたしは、男を見て、影を見て、また男を見た。


「ソレダから、金を受け取ればいいんだな?」


男は、あたしを見ながらゆっくりと発音した。あたしは大きく頷いた。

それにしても――ソレダ。あたしは、その言葉の響きを何度か頭の中で反芻した。自国の「それだ」は、考えがまとまったとき、ひらめいたときに発する言葉として使われている。それが…ここでは、人の名前だったとは――

気づいた瞬間、笑いが込み上げてくる。


「あんたの名前、「それだ」、なのかよ!」


堪えきれなくなって突然笑い出したあたしを見て、貧民街の男とひょろなが影――ソレダはきょとんとした顔をしている。

それがまた、ツボに入ってあたしは腹を抱えて笑った。


「――いやいや、失敬。」


まぁ、あれだ。人の名前で笑っちゃいけねーよな。呼吸を整えて、いまだにぽかんとしている男と、ソレダに向き直った。


数日後、シャワーの設置が始まった。

男は仲間を数人連れてきて、寝室の裏のスペースに材料を運び込んだ。貧民街の人間は「シャワーなんぞ知らん」と言っていたが、ソレダが的確に指示しているのだろう。

思ったよりも早く、枯れ井戸から水を吸い上げ、浄水器を通して丘に汲み上げられていく。

この土地は、亜熱帯寄りの温暖湿潤気候で、曇天が多い。そのせいか気温が上がらない日も多く、マジで過ごしにくい。

丘に汲み上げるパイプが届いたところで、道管を二手に分け、一つに竈を付ける。これで、温水も、冷水も確保できるってわけだ。


シャワーの依頼をしてから3週間。ようやく、ポロい掘立小屋に文明がやってきた。

地元の連中も何だかんだ手伝ってくれたので、完成日はいくばくかの食料とアルコールを振舞った。

まあ、これで地元は動きやすくなったわけだ。大概の無理は通せるようになるだろう。


どんちゃん騒ぎが引いて人気の無くなった明け方、嫌がるソレダをシャワールームに連れてきた。この土地の人間は、頭から水をかぶるのを嫌うのか? それにしては、試運転の際の地元の連中は楽しそうに頭かソレダは頭から水をかぶるのを嫌がった。地元の連中は試運転の際、楽しそうに頭からかぶっていたのに、こいつだけは妙に抵抗する。


何はともあれ、居住の主が最初に使うもんだろ。


掴んだソレダの腕は、思ったより細く、内心ドキッとした。普段は襤褸布ような服を被るように着ているから、身体の線なんて気にしていなかった。

強引のシャワーの下に置いて、すこしぬるめに調整しておいた湯を頭からかぶせた。

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