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エル・マルヘンの不法滞在者  作者: ArtCafePOLYPUS
3/3

影Ⅱ

クルスと名乗った女は、言葉通りこの廃屋に居座った。


かつては豪奢な屋敷だったらしいこの場所は、幾多もの争いの末に崩れ、今は土台と壁や柱の残骸を残すのみだ。そこに誰かが申し訳程度に小屋を組み立てたらしい。狭いながらもいくつか仕切られた部屋のようなものを、それぞれの用途に応じて使っている。



寝室に、ベッドは一つしかない。

かつての屋敷の名残か、廃墟のわりにほとんど傷んでいない。クイーンサイズで広々としており、気に入っていたのだが――女はそれを、一時的な居と決めたらしい。

女はずかずかと私の居城を侵食していった。


初日は、様子見のつもりだった。


どうせ一晩も経てば、この辺境の空気に耐えかねて出ていくだろう。バーチャルエコノミー圏の人間が、電気も通らない掘立小屋で、隙間風に晒されながら眠れるはずがない。

だが、女は動かなかった。

ベッドを占拠された私は、仕方なく作業部屋の隅で仮眠をとることにした。椅子に座ったまま、机に突っ伏して眠る。背中が痛い。首も痛い。



二日目の朝、女はまだベッドにいた。

カーテン代わりの布越しに、規則正しい寝息が聞こえる。私は作業机に向かい、いつも通り鉱石と向き合った。曇天の光が窓から差し込み、分光器のプリズムがわずかに色を変える。



三日目も、四日目も、女は出ていく気配を見せなかった。

トイレに立ち、水を飲み、またベッドに戻る。それだけだった。時折、私の作業を覗きに来ていたが、何をしているのかは、追及するでもなく、広々とした寝室に戻っていった。 一方で、作業部屋で眠り続ける私は、限界に近かった。椅子に座ったまま、机に突っ伏す。体のあちこちが軋む。肩が凝り、腰が痛む。作業の効率も落ちた。何より、自分の寝床で眠れないという事実が、じわじわと苛立ちを募らせた。



そして五日目。


ようやく女が外出した。

そして、私は決めた。


――ここは私の家だ。なぜ突然押し入った見ず知らずの女に遠慮して、肩身の狭い思いをしなくてはならないのだ。そもそも、あの部屋を使っていいと言った覚えはないし、使用料すら払われていない。


ついに、私は自分の寝室に入り、ベッドに横たわった。久しぶりのマットレスの感触。体が沈み込む。ああ、やはりベッドは良い。数日ぶりの安堵に、体の力が抜けていく。

ここは私の場所だ。女に遠慮する理由はない。

そう自分に言い聞かせながら、私は眠りに落ちた。


どれくらい経ったか。

寝室の入口で、布が揺れる音がした。女が戻ってきたのだろう。私は目を閉じたまま、動かなかった。文句を言われても、退く気はない。


女は立ち止まり、ベッドを見た。


私が先に入っているのに気づいたはずだ。何か言うかと思ったが、女は何も言わなかった。ただ、衣擦れの音が聞こえた。服を脱いでいるのだろう。

そして、マットレスが沈む音。


女は――躊躇なく、ベッドに入り込んできた。


私は目を開けかけたが、思い直して閉じた。女は私に背を向けて横たわり、すぐに規則正しい寝息を立て始めた。


――まあ、いい。ベッドは広い。二人で寝ても問題ない。


そう自分に言い聞かせながら、私も再び眠りに落ちた。



―――――――体が痛い。



冷たい感触が、頬に押し付けられている。マットレスではない。これは…床だ。

私は目を開けた。

視界に入ったのは、ベッドの下から見える木の支柱と、むき出しのコンクリートの床。埃が舞っている。体が冷えている。背中が痛い。腰が痛い。


――何があった?


ゆっくりと体を起こす。頭がぼんやりしている。寝室を見渡すと、ベッドの上に女がいた。


大の字で、寝ている。


ベッドの中央を占拠し、両手両足を広げて、豪快な寝息を立てている。掛け布団は半分以上、床に落ちていた。

私は、ベッドから蹴落とされたらしい。

私はベッドに歩み寄り、女から掛け布団を引きはがした。


「朝だ。起きろ」


低く、だが明確に、怒りを込めて言った。


「……なンだ…?」


女はゆっくりと目を開け、こちらを見た。寝ぼけた顔。何が起きたのか理解していない様子。


「起きろと言っている」


女から布団を完全に引っぺがす。女はゆっくりと体を起こし、あくびをした。


「……朝カ」


「そうだ。朝だ。そして、ここは私の家だ」


女は目を擦りながら、自分の周りを見渡した。寝ている間に頭と足が逆になっていることに気付いたのだろう、「……ああ」と呟き、面倒臭そうに頭を掻いた。


「ネゾーが悪いンだ。ムカシから」


「……」


「悪カッタな」


女はそれだけ言うと、ベッドから降りた。そして、何事もなかったかのように、キッチンに向かった。


私が作業に没頭していると、背後で物音がした。振り返ると、女が勝手に棚を漁っている。備蓄していた乾燥豆の袋を手に取り、中身を確かめていた。


「勝手に触るな!」


低く言うと、女はこちらを一瞥して、無言で豆を鍋に放り込んだ。水を張り、火を点ける。


「……腹ガ減った。文句アルか」訛りの強い言葉で、女は言う。


文句はある。だが、結局何も言葉にせず、私は再び机に向き直り、鉱石の切断面を観察し続けた。背後で、豆の煮える音が響く。


「……食エ」


ごとりと置かれた二つの湯気の立つ豆のスープ。女は私の対面に座ると、長い髪を後ろにひとまとめにして、おもむろにすすり始める。塩気が強すぎる。だが、温かかった。


この日を境に、女の侵食は加速度を増した。


気付けば、キッチンの棚の配置が変わっている。よく使う食器が手前に並び、奥には使わないものが押し込まれていた。

女の洗濯物が、外の物干しに揺れている。見慣れない布地。バーチャルエコノミー圏の合成繊維だろう。辺境の粗悪な布とは、明らかに質が違う。


ラファが戻ってきたとき、女に話しかけていた。


「ババァ、まだ、いるのか?」


「ああ。マダいる」女は面倒臭そうに答えたが、ラファは気にしていないようだった。


「ずっと、いるのか?」ラファの問いは、私の問いでもあった。女は眉根を寄せ、いくばくか考えたようだが、口から出たのは素気のない呟きだった。


「……さあな」


出て行かないのか?とは聞けなかった。出て行けともなぜか言葉にできなかった。結局、言葉を交わす二人を遠くから眺め、肩をすくめただけだった。



次の変化は、十日目に訪れた。

朝、いつものように机に向かうと、分光器の横に女がいた。

時折、窓際にあったはずの椅子が机の横に移動していたことがあった。確認するまでもなく、女が座ったのだろう。椅子の背もたれに、わずかに体温の名残が感じられたこともあった。私が席を外している隙を狙って、何かを確認していたようだ。

だが今日は、私の存在を気にする素振りもなく、作業中で置きっぱなしにしていた鉱石をじっと見つめている。「触るな」

自分で思ったよりも、鋭い口調で女に牽制をかける。すると、女はゆっくりとこちらを向いた。


「コノ結晶、どこ、採取しタ?」


女の質問に、私の中でアラートが鳴り響く。これは、カルテルから持ち込まれたもので、分析中だった。だが、なかなかに言う事を聞いてくれず、解析が難航していた。


「……なぜそれを聞く」


「この、透明度。既知の鉱物、違ウ。そレニ、この筋——」


女は鉱石を持ち上げ、窓からの光に透かした。


「結晶、内部、構造、均一。人工物か?」


「違う。天然だ」


「それナらば、どこ、デ?」


私は黙った。

女は鉱石を机に戻し、開いたままのノートに目を落とした。びっしりと書き込まれた数値と図解。波長ごとのピークを示すグラフ。


「……この異常値。再現性、あルのか?」


女の指が、何度も書き直された数値を指す。同じ波長域に、ありえないほど鋭い反応が繰り返し現れている箇所だ。


「……ある」


私の言葉に、女はノートに落としていた視線を上げる。無気力でも、ディアボロでもなく、力を秘めたまっすぐな目とぶつかった。女は何かを取り出すと、それに向かって話し出した。

『光源は自然光か?』女の声を無機質にしたような音声が、流暢に流れる。

――翻訳機か。エル マルヘンでは一生かかっても手に入れられないだろう、高級品だ。


「…ああ。電力がない」内心の動揺を悟られないよう、落ち着きを装って答える。


『プリズムの角度、もう少し調整した方がいい。スペクトルの分離が甘い』


女は分光器に手を伸ばし、固定されたプリズムの角度をわずかに変えた。窓からの光が、わずかに異なる軌道を描く。


「……勝手に触るな」


手を払おうと分光器と女の間に体を入れようとしたが、女は構わず調整を続けた。そして、プリズムの角度を固定すると、満足そうに頷いた。


「これで、もう少し、良い、データが取れる」


それから、私と女は時折、一緒に狭い作業机で作業することが増えていった。基本的に女は自分の言葉で話したが、専門性のある内容になると翻訳機を取り出してきた。

私が鉱石を切断していると、横から覗き込む。


「その角度、結晶軸に対して垂直か?」


「……垂直だ」


「なら、もう少し薄く切れ。透過光の解析がしやすい」


指図される筋合いはない。だが、女の言う通りにすると、確かにデータの精度が上がった。

ある日、女は化学瓶の配置を変えていた。


「溶媒と洗浄液、混ぜるな。危険だ」


「……わかっている」


「わかってないから、こんな配置にしてるんだろう」


女は瓶を整然と並べ直した。用途ごとに、使う順番ごとに。気づけば作業棚は整理整頓されていった。


ある時は、議論が白熱することもあった。


「この波長ノ異常値、どう解釈する?」


「……未知の元素か、結晶構造の特異性か」


「元素なら、他の波長ニモ影響が出る。構造だろう」


「だが、この再現性は――」


言葉を交わす毎に、女の訛りが薄れていくように感じた。あるいは、私が慣れただけかもしれない。


ある夜、作業を終えて寝室に向かうと、ベッドの端に女がいた。いつものように、ベッドの中央を占拠しているのではない。端に寄り、反対側に空間を空けていた。

私は黙ってベッドに横たわった。クイーンサイズのベッドは、二人で寝ても十分に広い。女の体温が、わずかに感じられる。

その夜から、私が床に落ちる回数は少しだけ減った。


女がいる生活が、いつの間にか当たり前になってしまった。

朝は私が淹れた茶を一緒に飲み、納屋に残ったものや、ラファが持ち帰った食材で女が食事を作る。二人で食べ、女と議論し、女と眠る。必要な言葉以外は交わさない。

ラファは、ときおり戻って来ては、女に話しかける。


「クルス、今日、いるのか?」


女は、ラファに自分の名前を呼ばせていた。ババアと呼ばれたのは、ずいぶんと腹が立ったそうだ。


「ああ。まだいる」


女は相変わらず面倒臭そうに答えるが、ラファは嬉しそうに笑っている。

私は机に向かい、鉱石と向き合う。女が調整した分光器が、より鮮明なスペクトルを映し出す。ノートに数値を書き込みながら、ふと思った。

――まあ、悪くない。


そう思った自分に、少しだけ驚いた。


プルセラは、まだ返していない。

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