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「第29話」

 一日一日が、ただ穏やかに流れた。

 人の気配もない森の奥で暮らしているせいか、日常は平和そのものだった。変化といえば、月に一度ほど町へ降りて薬を売るくらいだった。


『僕も行きたいです』


 そういう時には、レイゲルも一緒に連れて行った。少年は町に出るたびに、どこか宛ての手紙を書いては送っていた。特に私に関わることでもないので、気にも留めなかった。ただ、その程度の些細な日々だった。そうして、十年以上の歳月が過ぎた。


「……いったい、いつになったら出て行くつもりか」

「僕が師匠を置いて、どこに行けっていうんですか」

「どこかで犬の鳴き声がするな」


 もう子どもでもないというのに。レイゲルは、隙あらば何かと距離を詰めてきた。初めてではないので、いつも通り器用にかわした。


 ――幼い頃から、その気はあったが。


 すらりとした。背が高く、端正だ。まさにそう言うほかない。もともと整っていた顔立ちは、歳を重ねるごとにさらに磨かれていった。一直線に通った高い鼻梁と、鋭く形作られた顎のライン、そして誰が見ても好感を抱くであろう、鮮やかでありながら柔らかさを感じさせる口元まで。さらに、日々欠かさず剣を振って鍛えてきたおかげで、無駄のない引き締まった身体と頼りがいのある広い背中、そして伸びた身長まで手に入れた。


 ――今では、私が見上げる側になってしまうとは。


 初めて会ったときは、目を合わせるのにこちらが腰を屈めなければならなかったほどだったのに、今では首を上げなければ顔が見えない。おかげで、顔を見ようとするたび首が妙にこわばる気がする。


 変わらないのは、髪と瞳の色くらいか。


 眩いほどに輝く金色の髪と、清涼な青の瞳は今も変わらず人の目を惹きつける。幼い頃は澄んだ泉のようだったその瞳も、今では時折、深い海を思わせる色を帯びるようになった。ふと視線がぶつかると、なぜだか胸がざわめくほどに。


 ――全部、あいつが妙に整った顔をしているせいだ。


 気に入らない。


「もうすぐ成人だろう。いつまでここにいるつもりだ」

「まだまだですよ。成人になるまであと二年ありますから」


 外に出てやることもあるはずなのに、よくもそう言えるんだな。


「教えることは全部教えた。長居したところで、ここにいて何の得がある」


 何が気に入って、ずっと居座っているのか分からなかった。理由を知らない。行かないというので、私にできることもなかった。だが、このまま森に居続けるというのは、私としても困ることだった。どうしても片づけておかねばならないことがあったからだ。


 ――今でも少々、危うい状態なんだが。


 すぐに出て行くだろう、そう思って先延ばしにしてきた。いや、仕方がなく先延ばしにせざるを得なかったと言うべきかもしれない。大人でもいない幼い子どもを放っておくわけにはいかなかった。私もそうだが、レイゲルもまた、人目に触れてはいけない立場だった。万が一のとき、守りきれるだけの力ある保護者でもなかったから、なおさらだった。そうこうしているうちに、もうこれ以上先延ばしにできない時が来てしまった。


 ……大丈夫かしら。


 どうか何事もありませんように願った。


「師匠は、僕が早く出て行ってほしいんですか?」

「当たり前なことを聞くんだな」


 大人の助けを必要としていた子ども時代はもう終わった。お互いに、それぞれの道を行くときが来た。いや、とっくに来ていた。


 ――ここにいたところで、特に良いこともないのに。


 冷たく切り捨てるように言うと、レイゲルは肩を落とした。瞳も斜めに伏せられた。その視線が妙に湿っていて、見ているこちらの胸を小さく叩いた。


 ――こいつ。


 昔から、自分の容姿を分かっているのかツンと澄ました顔をしていた。その顔が歳月と共に洗練され、今では容易に近寄れない鋭さすら纏っていた。見た目は野生の狼だが、中身をよく見れば、やっていることは大きいだけの大型犬そのものだ。まるでまだ自分が子犬だと考えているのかと思うほど。長く見てきたせいで、どうしても可愛く見えてしまうのも事実だったが。


「そんなにはっきり言われますと、この弟子は傷つきます」

「何を傷つくことがある。ほかにやることがあるくせに」


 すっと距離を詰めてきて、尻尾でも振りそうな気配だ。容赦なく手を払って遠ざけた。親も家も奪われ、復讐を誓っていたはずの少年じゃなかったのか。ここでのんびりしている様子を見ていると、その誓いはどこへ行ったのかと思うことが一度や二度ではなかった。


「君にもやるべきことがあるように、私にもやるべきことがあるんだ」

「やればいいじゃないですか」

「君がいるだろう」


 邪魔だと言わんばかりの口ぶりに、レイゲルはゆっくりと瞬きをした。


「僕がいるのは駄目ですか?」

「駄目だ」

「どうしてですか?」

「そういうものがある」


 何をするつもりなのかは教える気はなかった。見せる気もないし、見せてはならない。


「だったら、見なければいいんでしょう?」

「そういう問題じゃ……」


 ふと見たレイゲルの顔には、願いのこもった表情があった。何かの術でも使ったのか、青い瞳にはうっすらと水気が宿り、きらきらと光を反射していた。下がったのか上がったのか分からない口元も、連れて行ってほしいと訴えているようだった。……散歩したくて誘う犬でもないくせに。きっぱり駄目だと言い切るつもりだった。私の顔をじっと見つめるあの顔さえなければ。結局、言葉を飲み込み、片手で額を押さえてため息をついた。


「……はあ。その用を済ませるには、この森を出なければならない」

「一緒に行きたいです」

「見ないんじゃなかったのか」

「ついて行くだけです。そうしたらいいんでしょう?」


 森を出るなら、私の後をついてくるのではなく、まず家を取り戻すことを優先するべきではないのかしら。


「お前こそ、やるべきことがあるだろう。家はいつ取り戻すつもりだ」

「まだその時期ではないんです」


 鋭い問いかけだったはずなのに、痛いところを突かれた様子はなく、器用に話をはぐらかす。その口元には、どこか含みのある笑みが浮かんでいた。


 ――自分なりに準備を進めているということだろう。


 定期的にどこかへ手紙を出しているのも、その一端かもしれない。


 ……まあ、私が口を挟むことではないだが。


「それで僕も一緒に行ってもいいですか?」


 妙に神経を逆なでした。その笑みを見たとき、私は初めて気づいた。

 ……何かを隠していることを。

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