「第22話」
レイゲルの頭を撫でていた手をそっと下ろした。
「そういえば、君の意見を聞いていなかったな」
「何をですか?」
「どんな服が気に入ったのか。次に機会があれば、参考にしようと思ってな」
レイゲルは自分の服の裾を指先でそっとつまんだ。私は答えを聞くために、じっと見下ろした。その視線が、少し気恥ずかしかったのかもしれない。少年は視線を外し、小さく呟くように答えた。
「僕も、この服が好きです」
「そう?こんなこともあるんだな。まさか君の好みとぴったり合うとは」
思わず笑いそうになった。けれど、ただ不思議だなと思っただけだった。
***
翌日。
昼食もそこそこに済ませて、少し眠気が襲ってきそうな頃合い。私はレイゲルを呼んだ。
「こっちへ来なさい」
一角に腰かけ、本を読んでいたレイゲルが素直に近づいてきた。その少年の目の前に、昨日買ってきた本を差し出した。
「これは何ですか?」
「これから君が学ぶことになるものだ」
レイゲルは一冊ずつ表紙を確かめ、何冊かは中をぱらぱらとめくって内容まで目を通した。
「……教養書ですか?」
「そう」
「ここでこんなことまで覚えなきゃいけないんですか?」
「何を言ってる。君がいつまでもここにいられるわけがないだろう」
これらはすべて、未来のためのものだった。
「今はまあ、私の弟子のふりをしているが、本来なら貴族として家を継ぐ立場にある身じゃないか」
ベニアサ公爵夫妻はすでにこの世にはおらず、レイゲルに兄弟がいるという話も聞いたことはなかった。そして、すべての騒動を起こしたあの叔父が、今どうしているかも分からない。だが、レイゲルが公爵家の後継者だった。それが道理だった。
──帰るべき場所があるって話だ。私がレイゲルを受け入れた理由の一つには、どうせこの子はいずれここを離れるだろうということもあった。
「自分でもわかってるだろう?」
「なにがです?」
何が、とは。今さらの話でもないのに、拗ねたような顔をしていた。言葉通り、レイゲルはむっとしたように唇を尖らせた。
「だからといって、ちゃんとある事実が変わると思っているのか?」
「それはないけれど……」
「薬草の知識だけを教えるには、君の頭がもったいないと思ったまでだ。そんなに嫌そうな顔はするな」
あらかじめそう告げても、レイゲルの表情は一向に晴れなかった。相変わらず不満げな様子だった。
「これ全部、でたらめじゃないですか」
「でたらめ?」
「今どき、こんなふうに礼儀をする人なんていませんよ」
レイゲルはマナーに関する本を手に取り、その中の一ページを大きく広げて見せてくれた。左のページには、理解しやすいように絵が描かれていて、右のページにはその説明がずらりと並んでいた。
「別におかしくは見えんだが」
「ダサいんです。外でこんなことをしたら、笑われます」
マナーって、そんなに頻繁に変わるものじゃないと思うけどな。
「……師匠、もしかして、騙されました?」
「私が騙されるように見えるか」
「はい」
一切の躊躇なく肯定するレイゲルに、さすがに言葉を失ってしまった。一体私は、この子にどう見られているのだろう。呆れたように少年を見つめると、彼は手にした本をぱたんと閉じてこちらに押し返した。
「とにかく、これ間違ってますから返品してきてください。他の本もどうせ似たようなものでしょうし、まとめてお願いします」
「間違っていない」
ただ、古い知識なだけだ。
「師匠は貴族ではないでしょう。本物の貴族である僕が言うんです。これ、間違っています」
「貴族ではないが、君よりはずっと長く生きてきた。そんな私が、知らないとでも?」
「じゃあ、これは何なんですか?」
レイゲルは問題の礼儀作法の本を片手でひらひらと振って見せた。
「時代と共に、礼儀の形も変わったみたいだ」
「時代が変わったって言っても、こんなに変わるわけが……」
反論しようとしたレイゲルの口が途中で止まり、再びその手にした礼儀書を開いて内容を見直した。
「……これ、何年前のですか?」
「さあな。長く見積もっても二百年以内ではないかと思うが」
「十分変わってるよ!」
レイゲルは驚いたように叫んだ。あまりに突然の大声に驚いて、私は人差し指で耳をふさいだ。
「驚いたからって、そんなに大声を出してもいいのか」
「じゃあ、出さずにいられます?」
「おかげで耳が壊れるかと思った」
「ちゃんと聞こえているって知っています」
一言でも引かない子だった。レイゲルをじっと見つめて、私はぽつりと呟いた。
「二百年も、長い時間だったんだな」
「当たり前じゃないですか!」
ただの独り言だった。にもかかわらず、レイゲルはわざわざ拾って反論してきた。
「百年でもすごく長いです。それなのに二百年なんて……」
百でも、二百でも、私にとっては大して変わらなかった。
――それでも、新しい方を選んだつもりだったのに。
書店で最初に見つけた教養書は、五百年前のものだった。その後、会計の直前になって見つけたのがこの本で、それなりにマシだろうと思って購入したのだが――レイゲルの反応を見ると、どうも違ったらしい。
「五百年より二百年の方が短いじゃないか」
「どっちも長いです」
レイゲルは首を横に振った。その視線もまた、こちらを見ているとは到底思えない、不遜極まりないものだった。
「教えたいなら、せめて普通の人間基準で考えてください」
「君のどこが普通か」
ここにある本を、まだ一週間も経たないうちにほぼ丸暗記するような頭の持ちこの子を、どうやって『普通』と呼べるのか。大人でもそんな芸当はできなかった。
「師匠に比べたら、全然普通です」
……そうだな。私は魔女だな。正論なのだが、なんだか納得したくなかった。
「とにかく、これらは使えません」
「そう決めつけるな。古いからって読めないわけじゃない」
「どうするつもりですか?」
目の前にすぐ役立つ本がないのは残念だったが、それでも問題なかった。間接的にでも活用できる手段があったので。
「君の頭脳を活かすつもりだ」
「……何をする気ですか?」
「言葉どおりだ。君の記憶力を利用する」
レイゲルには、それができるだけの才があった。
「つまり、今の知識とこの本の古い知識を照らし合わせて、勉強を進めるってことですか?」
「ついでに、私が知っていることも教えてやる。何しろ、これらよりも私の記憶のほうがずっと古いのだから、新しいことを知りたいなら、悪くないだろう」
一体、誰のためにこんなにも説得しているのか。自分でも分からなかった。けれど――教えてやりたいという気持ちは、確かにあった。だから、こうしているのだろう。
――基礎は、すでに身についているみたいだし。
日常の些細な場面でも、よく見て取れた。ただ食事をするだけでも、姿勢に乱れがなく、礼儀が自然とにじみ出ていた。ただの木造の古びた小屋の中でさえ、まるで貴族の晩餐会に招かれたような気分にさせられたほどだった。私が手を貸そうとしているのは、細部の調整に過ぎない。そういった細かな点を身につければ、全体の所作が大きく変わる。覚えておいて損はないはずだ。
――知らなくても困るものでもないが。
レイゲルは顎に手を添え、考え込むような表情を浮かべた。私は結論が出るまで、静かに待った。やがてレイゲルの視線が、前に積まれた本の中の一冊で止まった。歴史書だった。
「本には載っていない、師匠しか知らないことも……教えてくれますか?」
思わず、体がぴくりと反応した。
――何だと?




