馬冢原
対峙が続き、どちらから攻めるともなく、夜が来た。渭水縁の魏軍は煌々と篝を焚き、兵が荷降ろしを続けている。
魏延は二万五千の兵馬の中にありながら、魏軍の様子を苦々しく見つめていた。せめてあと一万あれば、背水の魏軍を渭水に追い落としてやれる自信があった。しかし王平軍の歩兵一万五千を使って馬冢原に陣を築けというのが諸葛亮からの厳命だった。
王平が馬冢原の一万五千を呼び寄せるべきだと主張して、それが正論だとわかりながらも却下した。魏延軍の騎馬隊を率いながら、その実質は魏延軍の軍監となっている馬岱が、諸葛亮とその側近にどう告げ口するかわかったものではないからだ。
昔の自分なら、命令違反を犯そうと馬冢原から兵を呼び寄せ、総勢四万でまだ体勢が整いきっていない魏軍に一撃を与えていたという気がする。それが今の自分にできないのは、老いのせいなのだろうか。もう齢は五十が近づいていた。聞き分けが良くなってしまった自分に嫌悪感を抱けなくなってしまったのも、老いのせいなのか。
斥候が報告を入れてきた。魏軍の馬抗柵はほぼ整い、柵の中から兵が出てくる気配はなさそうだった。
「日没と共に馬冢原へ退く。殿軍は俺だ」
魏延の命令を受けた部下が、それぞれの隊に走って行った。
雲を覆う空が闇となり、撤収が始まった。
殿から敵陣を眺め続けたが、追撃はなさそうだった。月の無いこの闇なら騎馬は駆けさせ難いし、歩兵は陣の構築で手一杯のはずだ。魏延は二万五千を徐々に退かせながら、二里移動したところで馬冢原までの駆け足を命じた。
既に陣の構築を終えた馬冢原に入ると、王平が部下に用意させていたのか、すぐに熱い兵糧が運ばれてきて、杜祺を連れた王平もやってきた。
それぞれが湯気の立つ兵糧の椀を手に、焚火を囲んだ。
「馬冢原の確保は成功した。後は本隊が来るまで、漢中軍はここを死守する」
「本隊の到着は、いつ頃になりそうでしょうか」
王平は魏軍を見て血が沸いているのか、気が逸っているようだった。
予定では本隊四万の武功到着は明朝未明となっていた。しかし、天が雪を落としていた。
「雪のせいで幾らか遅れるようだ。それまで兵力を損じるなとのことだ」
魏延は兵糧を煮た汁を啜った。一撮み入れた塩の微かな味が口の中に広がり、美味かった。こんな時に美味いと思える自分が浅ましく思えた。
「司馬懿の用兵は早い。恐らく陳倉の八万は全て武功に向けられているはずだ。そのための準備は、周到にされていた」
「敵に渡河を許してしまったのは、まずかったのではないでしょうか」
「詮の無いことを言うな」
魏延は歯に詰まった兵糧の滓を焚火に吐き出しながら言った。もうそれは過ぎてしまったことで、どうしようもないことなのだ。しかし指揮官である自分が、表立って諸葛亮のせいにするわけにもいかない。
「我らが勝手に戦い、本隊が到着するまでに兵を失えば、丞相は兵力劣性の状態から戦を始めることになる」
「確かに」
そう言う王平は心の中では納得していないのだろう。多くを語らないところがこの男の美徳であったが、それは時として煩わしくもあった。王平から言われずとも、諸葛亮からの命令への不満は、自分の中にもあるのだ。
「初動で負けたと思っているな。正直、そういうところはあるかもしれない。しかし本格的な戦を始めるのは、全軍を揃えてからでも遅くはない」
心とは裏腹のことを言っていた。こういうことを平然と言えるようになったのも、やはり老いのせいなのかもしれない。
「その本格的な戦を有利にするための馬冢原確保ですね」
「そうだ」
そう言いながらも、やはり納得はしていないのだろうと思った。
調練の成果は軍の隅々にまで行き届いており、万を超える軍勢でも移動に遺漏なく、馬冢原に退く時も繰り返しやってきたことがそのままできた。陣の構築にも大きな間違いはない。あとは指揮官の裁量がどうであるかで、だからこそもどかしかった。
「麦も、守らなければいけません」
「麦よりも、兵の方が優先だ。明日の朝には武功の魏軍は六万を超えているだろう。こちらは四万だ。麦を守って兵を殺すようなまねを、俺はせん」
「それを聞いて安心しました」
「問題は、この四万の腹に入れるものだな。持ってきたものを細く食えば五日はもつが、それでは兵は力を出さん。なるべく早く兵站を整えておく必要がある」
ここから六里離れた武功水の畔では、劉敏が漢中から運び込まれてくる兵糧の集積地を築いていて、そこと馬冢原を分断されてしまえば、馬冢原の四万は食う物が無くなり干上がってしまう。司馬懿はこの二点を繋ぐ兵站線を切ろうとしてくるはずだ。
「明日は朝から戦になるだろうから、そのつもりでいろ」
同じことを考えていたのか、王平はわかっていると言うように頷いた。
それから戦の想定をし、地に図を描きながら細かな動きまで確認した。斥候からの報告によると、夜襲の心配はなさそうだった。
「おい、杜祺」
話が終わり、場を離れようとする二人の背中に声をかけた。
「ここは、良い陣だ」
馬冢原に陣張りした杜祺が厳格な面持ちで一つ頭を下げ、王平と共に自陣へと戻って行った。
幕舎に入り、地に穴を穿って藁を敷き詰めただけの寝床に身を沈めた。
さっきの杜棋の態度に、魏延は不快なものを感じていた。昔なら良い面構えだと嬉しくなるところだったが、今は可愛げの無い顔だと思ってしまう。歳を重ねて体が老いることで、小さなことにまで不安を覚えるようになってしまっているのだ。胸から湧く不安は泉が滾々と湧き出るのと同じようなもので、自分ではどうしようもないものだった。
つまらないことを気にしているという自覚はある。恐らく、文官の武官への嫌悪感も、これと同種のものなのだろう。
自分はいつから文官のようになってしまったのだ。魏延は自嘲して笑い、明日に備えて目を閉じた。
朝の渭水が、銀色の光を照り返していた。一晩で雲が明けたのは司馬懿にとって僥倖だった。できるだけ早く戦場に兵を集め、場を整えておきたかった。
陳倉で蜀軍を待ち構えていると、秦嶺山脈に忍ばせておいた黒蜘蛛がいち早く蜀軍の動きを伝えてきた。蜀軍は陳倉へ向かうと見せかけ、その手前で進路を東へ向けたのだった。その情報を得たと同時に、司馬懿は全軍の移動を決定していた。
諸葛亮は、武功を選んだ。そう読んだ司馬懿は、いつでも渭水を下れるよう用意していた船団を使い、兵を武功へと下らせた。そして最後の船に自身も乗り込み武功へ向かった。
「見てみろ、司馬師」
司馬懿は船の窓から外を覗いて言った。陸では七万以上の兵が陣の構築に蠢き、林立した諸部隊の旗が色彩々にはためいている。
「まるで祭りのようだ。そうは思わんか」
「はい」
司馬師は緊張した面持ちをしていた。この戦で、息子の頭の中にある絵空事を徹底的に破壊しておきたかった。それを考える余裕はあった。国力のほとんどを懸けて出向いて来ている蜀軍とは違い、魏軍は後方から支援を受けられる立場にある。同数の対峙であれば、下手に攻め込んで大きく兵力を減らさない限り、負けることはない。
三年前の戦で負けたのは、張郃軍を動かしたのが原因だった。防備が薄くなった魏平の陣を突破され、そこから全軍の崩壊に繋がったのだ。どこかで蜀軍を侮り、問題ないだろうと高を括っていた。そこを敵将魏延に錐をもまれるように突かれてしまった。あの様な過ちはもうしない。
船が揺れ、武功に着いたのがわかった。開いた戸から、荷を降ろす兵の掛け声が聞こえ始めた。
「何をしている。お前も早く行ってこい」
突っ立っているだけの司馬師の尻を蹴るようにして言った。
「私が積み下ろしの指揮ですか」
「指揮ではない。お前も兵の一人として働いてくるのだ」
司馬懿に一喝され、司馬師は駆け出して行った。
司馬懿は炭で温めておいた軍衣を身に着け、馬に乗って船を降り、郭淮に出迎えられて本陣の幕舎に入った。
「経緯を話せ」
軍議ができる広さを持つ幕舎内に腰を落ち着け、司馬懿は郭淮に短く言った。
「蜀軍の先鋒である漢中軍四万が、昨日武功に入りました。その内の二万五千が攻めの構えを見せてきましたが交戦はなく、馬冢原まで退きました」
「交戦はなく、だと」
地図を指差しながら説明する郭淮にじろりと眼を向けて言った。
「それは、攻めるなと仰せでしたので」
司馬懿は不快感を示すように卓の上で指を鳴らした。
「攻めるなとは、無駄に兵を減らすなという意味で言ったのだ。蜀軍の本隊はまだ姿を見せていない上に、漢中軍は二手に分かれていたのであろう」
「荷の積み下ろしと陣の構築をさせていたのもので」
「まあ、良い」
司馬懿は手を振って話を終わらせた。命令に忠実なのはいいが、忠実過ぎて融通が利かないところがこの男の欠点だった。これが張郃なら、迫ってきた二万五千を蹴散らしたうえで馬冢原に押し込めていたことだろう。陣の構築など、その後でいい。
無傷の四万で馬冢原に籠られたのは些か厄介だった。武功の東端に陣取られたことで、いつ長安からの渭水を使った兵站線が切られるかわからない。渭水北岸から陸を伝う兵站線を構築する方法もあるが、馬冢原を蜀軍に占拠され続けてしまえば、魏軍が南岸に布陣する優位性が失われてしまう。
馬冢原の争奪が最初の戦いだと司馬懿は思い定めた。初手でここを取った諸葛亮は、流石に慧眼であると思わざるを得ない。
「馬冢原の蜀軍を、先ず追い散らす。蜀軍は武功水を使って兵站線を維持するはずだ。その拠点は、もう探ってあるか」
「いえ、まだ」
「馬鹿者」
司馬懿が力強く卓を叩いた。
「儂は確かに交戦を控えろと言った。しかし戦場で斥候も出さんとはどういう了見か」
「斥候は出しております。武功水の奥深くまでは、まだ調べていなかったというだけで」
「言い訳はいい。すぐに蜀軍の兵站を探ってこい」
郭淮が慌てるようにして幕舎を出て行った。こういう消極的な男には、これくらい怒鳴ってやるのが丁度良い。
郭淮と入れ替わりに、夏侯玄が入ってきた。
「兵糧の集積に遺漏はないか」
「ありません」
詳しく話そうとする夏侯玄を、司馬懿は手で制した。
「細かなことは辛毗に言え。それより聞きたいことがある」
「なんでしょうか」
「蜀軍が布陣していた時に、打って出ようとしていた者はいないか」
「それは」
夏侯玄が言い難そうにしていることで、それが誰かの見当はついた。
「その者を罰しようとしているのではない。正直に言え」
「夏侯覇が攻撃を主張し、郭淮殿に叱責されていました」
「やはりあの遺児か。よろしい、夏侯覇と費耀をここに呼べ」
夏侯玄はすぐに二人を呼びに言った。
待っている間、司馬懿は従者が出してきた湯に口をつけて体を温めた。寒さが身に堪える歳になっていた。老いは感じるが、大きな戦を前にして気は満ちている。諸葛亮もこんな気分なのだろうかと、湯を飲みながらふと考えた。
夏侯覇と費耀が入ってきた。
「馬冢原に蜀軍の四万が陣取っている。これを攻め、我らがこの高地を取る」
いつもと変わらない口調で司馬懿は言った。夏侯覇と費耀の顔が、少し明るくなったように見えた。
「できるか」
「敵が四万であれば、兵站を切るのがよろしいかと」
年上の費耀が言った。若い武将であれば、この地をどう力押ししてやろうかと考えるところだろうが、この男は伊達に軍に長くいない。
「その通りだ、費耀。蜀軍本隊が到着する前に、この四万を孤立させる。お前が考えている通り、兵站の維持が難しくなれば、この四万は自ら馬冢原を捨てるだろう。お前に四万の歩兵を預ける。できるか」
費耀が顔をはっとさせた。四万といえば、かなり位の高い将軍でなければ指揮を許されない兵力だ。本来なら、郭淮がやるべき仕事だった。
「必ずやり遂げます」
司馬懿の思惑通り、出世欲を刺激された費耀は気合に満ちた面構えを司馬懿に向けてきた。
「夏侯覇、お前もなかなかに血が盛っているようだな」
「それは、戦でありますから」
郭淮との一件を詰られたと思ったのか、夏侯覇は顔を俯けていた。
「お前は、騎馬五千の指揮だ。それで費耀を援護しろ。敵の騎馬隊は誰が率いているか、わかっているな」
「王平です」
夏侯覇の目が光った。王平のことになると、この男は異様な情熱を見せるのだった。
「張郃将軍の名に劣らぬ働きをしてこい。そして、仇を討つのだ。漢中軍の王平を討てば、諸葛亮から片腕をもいだも同然よ」
「魏軍騎馬隊の名に懸け、全力を尽くします」
司馬懿は大きく頷いて見せた。
出世を望む費耀と、王平に恨みを持つ夏侯覇。人選に間違いはないはずだ。
「郭淮に敵の兵站を探らせている。馬冢原への兵站を分断し、蟻一匹通すな。行け」
二人が返事をし、幕舎を出て行った。
蜀軍本隊の到着までに馬冢原を孤立させたい。
この戦を勝ち抜けば、魏国内における司馬懿の地位は大きく上がる。逆に負ければ、全てを失ってしまう。これからの世を自分の手で作り上げるためにも、ここで負けるわけにはいかなかった。




