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王平伝演義  作者: 阿雄太朗
武功の戦い
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戦場の夏侯

 雪を落とす天の下で血が滾り、渭水から打ちつけてくる風が夏侯覇には心地良かった。

 ふと隣に目をやると、冬だというのに額に汗の玉を浮かばせた徐質が意気鷹揚と夏侯の旗を風のままにさせていた。この男の血も滾っているのだ。

「気負うなよ、徐質。調練のままでいい。今は旗を掲げることだけに気を集中させておけ」

 言った夏侯覇に、徐質がちらりと顔を向けた。汗の浮かんだ表情は落ち着いていて、死ぬ覚悟はできているのだろうと思えた。むしろ気負っているのは自分の方かもしれない。

 目の前に展開する軍勢の中に王の旗がはためいている。あの旗が、夏侯覇の血を滾らせていた。

「隊長、一つよろしいですか」

「なんだ」

「敵は何故、こうも易々と渡河を許したのでしょうか。何か罠があってのことではないかと思うのですが」

「敵陣を睨みながらそんなことを考えていたのか」

「はい」

 言われて、夏侯覇は街亭での初陣を思い出した。城内に籠っておけば良いものを、敵将馬謖は城外に陣取り張郃軍を待ち構えていた。それを罠ではないかと疑い、郭淮に一喝されたのが、ついこの前のような気がする。

「不可解な動きを見せたからといって、それが罠だと決めつけるな。敵がおかしなことをしていただけということもあるのだ。始めから罠だと思い定めてしまえば、機を見誤る」

「はい」

「考え過ぎないことだ。戦場に出れば、躰が動くままにやればいい」

「私は、夏侯覇隊長の指示に従います」

「当たり前のことだ」

 言って夏侯覇が肩を小突くと、徐質が微かな笑みを見せた。指示に従うという徐質も、自分なりに考えて戦をしようとしているのだろう。それは悪いことではない。

 軍の後方から、下船する兵の声と、馬抗柵を組み立てる音が間断なく続いている。

 前方の蜀軍の先鋒は中央に歩兵を五段に組み、両翼に騎馬を置いていて、兵力は二万五千というところか。中央が魏延で右翼が王平であることは、人頭の群れから麦のように伸びる旗を見てわかった。王平との因縁は浅からぬもので、前の戦では夏侯覇が父の様に慕っていた張郃を討たれていた。

 張郃の騎馬隊を受け継いでからの調練は全て王平を斃すためと言ってよく、今すぐにでも王の旗に向かって駆けだして行きたかった。

 だが夏侯覇が幾ら苛立とうと攻撃命令はまだない。陳倉から渭水を下る魏軍はもう四万にまで膨らもうとしている。兵力が優勢だというのに現場指揮官の郭淮は何をやっているのか。夏侯覇は苛立ちを抑えきれず、意見具申のため郭淮のいる幕舎へと向かった。

 誰何を受けて中に入ると、郭淮は部隊に見立てた木の駒を地図の上に並べているところだった。何のための駒なのか。

「失礼いたします」

 郭淮が、鋭い目を夏侯覇に向けてきた。

「こんな時に指揮から離れるとは、何を考えているのだ」

「蜀軍に動く気配はありません。その報告に参りました」

「そんなこと、伝令を一つ寄越せばいいだけのことだろう。お前、首を落とされたいか」

 郭淮がぐいと顔を寄せてきた。郭淮から嫌われていることはわかっていた。夏侯覇のような意見を上げてくる者より、黙って従う部下を好んで使うのだ。

 黙って従うだけなど愚かなことだと思っていた。おかしなことにはおかしいと言わずして、何の隊長なのか。自分にも、命を預けてくれている部下がいるのだ。

「今なら我が軍は兵数で勝ります。それなのに、何故打って出ないのでしょうか」

「司令官がここに来るまで、絶対に出るなと言われている。それまでは陣の構築だ」

「蜀軍本隊の姿がない今が好機ではありませんか。八万の軍勢が揃う前にあの二万五千の叩いておけば、後に我が軍の有利となります」

 郭淮が腕を組み、呆れたように大きなため息をついた。

「お前は軍を何だと思っているのだ」

「私は、意見具申をしているだけです」

「では聞こう。数を頼んで攻めるとなれば、全軍であろう。そうなればその間、ここの陣はどうなる。まだ後方からは兵が集まり続けているのだぞ」

「敵を蹴散らせば、そんなものは」

「無責任なことを言うな」

 怒声と共に腹を蹴られ、夏侯覇は尻から倒れた。かっとなるものが込み上げてきて、夏侯覇は郭淮を睨み付けた。

「なんだその眼は。これから戦だというのに、上官に逆らおうというのか」

「逆らうなど。私はただ意見具申に」

 郭淮が腰の剣を抜き、切っ先を夏侯覇の顔に向けた。

「魏国の元勲の息子だからといって、出過ぎは許さん」

 時が止まった様に幕舎内がしんと静まり返った。周りの者は手を止めて二人の様子を見守っている。外から聞こえる兵の声だけが、この場の時が止まっていないことを証明していた。

「お待ちください」

 どこにいたのか、夏侯玄が姿を現し二人の間に体を入れた。

「余計なことをするな。お前は兵糧の差配をしていればいい」

 郭淮が夏侯覇の鼻先に付けた剣を動かさず言った。

「なりません、郭淮殿。戦の前の仲違いは禁物ではありませんか。ここは私が話して聞かせますので、どうか穏便に」

 どうせ斬る度胸など無いのだ。夏侯玄にそう言ってやりたかった。夏侯玄に止められて、心中さぞほっとしていることだろう。

「ならばその馬鹿を連れて、さっさとここから出て行け」

 夏侯玄の細い腕に抱え起こされ、幕舎の空気から押し出されるようにして出て行った。

「戦を前にして郭淮殿は気が立っているんだ。ああいうことは言わない方がいい」

「あれは気の小さい男よ。今が攻め時であることは経験を積んだ軍人ならわかるはずだ」

「おい、よせ」

 夏侯玄は辺りを見回し、誰かに聞かれていないか確認した。司馬懿の黒蜘蛛を気にしてのことなのだろうが、その仕草も気に入らないものだった。

「お前の気も小さい。そんなことで、戦ができるか」

「とにかく上官の批判だけはやめてくれ。それで気が小さいと思うのなら、勝手に思ってくれればいい」

「司令官はいつ来られるのだ」

「もうじき来る。だから、それまでの辛抱だ。来れば、好きなだけ暴れられる」

「俺は暴れたくて言っているわけではないのだ。今が」

「わかった。まあ聞け」

 夏侯玄が両手を肩に乗せてきた。煩わしく、夏侯覇はそれを振り払った。

「司令官は武功に蜀軍を釘づけにし、これ以上魏領には一歩も進ませないつもりだ。それには兵数がいる。無駄な戦をして兵を失いたくないんだ」

「俺が無駄な戦をしろと言っているだと」

「そんなこと、文官の俺にはわからん。ただ戦をやれば、兵が減るということはわかる」

「わからんことに口を出すな。所詮はお前も、ただの文官だ。戦をすれば兵が減るだと。童にものを言っているのではないのだぞ」

「聞き分けのないことを言うな」

 夏侯覇の顔を、夏侯玄の拳が打ちつけた。思いもよらなかったことで、夏侯覇はそれをまともに受けた。

「文官だからなんだ。お前と同じで、俺も戦っているんだ。それなのに」

 言った夏侯玄の唇は震えていた。恐らく、人を殴ったことなどほとんどないのだろう。殴られることでふっと頭から血が下がり、張郃のことが頭によぎった。あの頃はよく怒られ、殴られていたものだと思った。

 夏侯覇は拳を振り上げ殴ると見せかけ、夏侯玄の震える手を取った。夏侯覇は、どうもこの夏侯玄という男が嫌いになれなかった。姓が同じだから、というわけではない。

「悪かった。別にお前のことを侮っていたわけではない。俺も郭淮殿と同じで気が立っていたようだ」

「お、俺はな」

「戦っている。それはよくわかった。これからも、共に戦おう。俺はあの王平の旗を見ると、どうしても頭に血が昇ってしまうのだ。それだけはよく憶えておいてくれ」

「もう、攻めるとは言わんか」

「言わん。俺は戻るよ。お前も、もう戻れ」

 肩を一つ叩き、行き場のない興奮に身を震わせる夏侯玄に笑いかけた。夏侯玄も固い笑みを返してきて、二人は別れた。

 三年前、張郃が死んでから、誰かに何かを強く言われることがなくなった。殴られることも、なくなった。たまにはこうして誰かに殴られることも、悪くはないという気がした。

 夏侯覇は気を静めるため渭水の風を大きく吸い込んだ。冷たい空気が、熱くなった体の内から染み込んでいった。吸い込んだ口の中に鉄の味がして、夏侯覇は吐き出した。薄く積もる雪の肌が、点々と赤くなった。

 これからこの地はもっと赤くなるのだ。

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