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王平伝演義  作者: 阿雄太朗
武功の戦い
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兵站部隊

 馬冢原の夜が明けた。王平は外套の毛皮の中から身を起こし、従者に出された熱い湯を体に入れながら馬冢原の岩上に立った。そこには既に魏延がいて、目を細めて武功の西方を眺めていた。

「さっきから魏軍の斥候がこの辺りを駆けまわっていやがる。そろそろ来るかもしれんな」

 王平も目を凝らすと、平原の向こうで小さな黒い点がちろちろと動いていた。三騎一組の斥候が、こちらの様子を伺っている。

「出動の準備をしておきます」

「魏軍は馬冢原を包囲してくるぞ。お前の騎馬隊は包囲される前にここを脱し、包囲の外側から魏軍を突け」

「御意」

 王平は岩上から駆け下り、手勢の五千騎を指揮して馬冢原の麓から離脱した。地平の向こうから魏軍が押し寄せてくるのがわかった。かなりの兵数で、三万は越えているように見えた。後詰がいることも考えれば、四万はいるだろか。魏軍が本気で馬冢原を狙っているのがわかった。

 馬冢原には、まだ兵站線が繋がっていない。高所に拠って優位を保っていても、このまま馬冢原に押し込められてしまえば兵糧が尽きて漢中軍は自壊してしまうことになる。蜀軍本隊が到着していれば包囲を防ぐことはできるが、それにはまだ時が足りなかった。

 最悪の状況は、漢中軍が包囲された馬冢原から抜け出せなくなることだ。そうなれば十日もしない内に蜀軍の半数が消滅してしまうことになる。

 魏軍は一万の方陣を三つ並べて前進し、馬冢原を包囲する意思がはっきりと読み取れた。王平は最左翼の方陣を視野に入れ、五千騎を駆けさせた。

 王平の騎馬隊を警戒したのか、魏軍が一斉に足を止めた。王平は並足に落とし、矢の届かない距離で魏軍の前を横切った。その全容は騎馬を含めて四万五千程で、後方の一万に費の旗が翻っていた。郭淮が来たのかと思ったが、これは恐らく費耀という武将だ。武功の東に横たわる馬冢原と、西方の兵站部隊を分断しようとしている費耀を牽制するため、王平は馬首を西へと向けた。

 魏軍から距離を置こうとした時、王平の意図を察したのか、方陣の間から王平とほぼ同数の騎馬隊が飛び出してきた。夏侯の旗だ。五千の中で一際大きな馬に乗る大柄な男が片腕で悠々と掲げていた。

 蜀軍兵士から鬼神のように恐れられていた張郃はもういない。兵力が同数で、敵指揮官が張郃に劣る夏侯覇なら、正面からぶつかり合って勝てる自信はある。

 五千の馬蹄が、五千の馬蹄に追い迫ってくる。王平は夏侯覇を誘うように馬足を落とし、五千を二つに分けて迫ってきた夏侯覇の五千を挟みこむように並走した。

 並走しながら連弩を構え、十分に近づいたところで矢を放った。何騎かを射落としたが、ほとんどは剣と馬甲によって弾かれた。

 王平の顔を見つけたらしく、夏侯覇が五千をこちらに向けてきた。もう一矢放ち、相手が怯んだところで二千五百をまた二つに分け、夏侯覇の突撃をかわした。

 三隊を一つにまとめ、互いに離れた。今ので敵の百ほどを射落とし、こちらは一兵も損じていない。

離れたが、離れすぎないように馬を駆けさせた。あくまで狙いは夏侯覇の首ではなく、費耀の歩兵に馬冢原を包囲させないことだった。夏侯覇もそれを心得ているのか無理に追ってこようとはせず、魏軍の歩兵と王平の騎馬隊の間を遮るように動いていた。馬冢原の包囲を進める魏軍の歩兵に突っ込もうとしても、夏侯覇が牽制してきてそれができない。

 厄介な動きだったが、王平は馬上で楽しいと感じていた。あの騎馬隊が邪魔なら、討ち果たせばいい。

「全騎、駆けるぞ」

 王平は手を上げ、振り下ろした。五千騎が先頭の王平に合わせて馬足を上げ始める。

「弩、構え」

 前衛が横に広がり、手綱を離して連弩を構えた。夏侯覇の騎馬隊がぐんぐん近づいてくる。夏侯覇が馬甲に身を固め、守りの体勢に入ったのがわかった。

「弩、下ろせ。剣」

 前列が連弩から手を離し、一斉に剣を抜き払った。王平の手の動きで横に広がっていた前衛が収縮し、五千の騎馬隊が一本の鋭い槍となった。

「突撃」

 馬を疾駆させ、全軍が雄叫びを上げた。狙うは、指揮官の首。王平は旗を目がけて先頭で突っ込んだ。

 足を止めて守りを固める夏侯覇の五千に、勢いのついた王平の五千がぶつかった。裏をかいた攻撃に敵の前列が破れ、内側の柔らかい所に王平は食らいついた。一人、二人、馬上から突き落としていく。そしてその後ろに五千騎が続く。夏侯の旗が近づいてくる。首を奪れる。そう確信した王平は剣を掲げて夏侯覇の顔を探した。

「そこか」

 見つけた。その瞬間、左腕に旗を、右腕に剣を持った大柄な男が前を遮った。

「どけ」

 剣と剣が交錯し、火花が散った。見ると、剣が根元から折れていた。王平は舌打ちをし、柄だけになった剣をその場に投げ捨て敵の騎馬隊を駆け抜け、乱戦になる前にその場から脱した。今の一撃で首を奪れなかったのは痛かった。意表を突いた攻撃に、二度目はないのだ。

 王平は部下から替えの剣を受け取り、自軍の確認をした。数十の犠牲は出ていたが、敵はその何倍も出ているはずだ。首は奪れずとも心理で優位に立つことはできた。

 王平は夏侯覇が追ってこないことを確かめ、少し離れた所で足を緩めて馬を休ませた。今の攻撃で気が高揚したのか、笑い声を上げている者もいる。悪い空気ではない。兵站の危険が去ったわけではないが、これなら初戦であるこの局面を制することはできるかもしれない。

 周りに放っていた斥候が戻ってきた。

「西方に、郭の旗を持った八百騎が移動中です」

 王平はまた舌打ちをした。あの四万の兵力を郭淮が指揮していないのなら、別のところで動いていると考えておくべきだった。恐らく郭淮は、少数を率いて蜀軍の兵站を探っているのだ。馬冢原に兵站線が繋がっていないのに、劉敏の構築する兵站基地が襲撃されてしまえば増々厄介なことになる。

 続けて別の斥候が報告してきた。

「西から味方五百の輸送部隊が移動中です。馬冢原へ兵糧を運んでいるとのことです」

「なんだと」

 思いもよらないことで王平は思わず叫びを上げた。兵糧の少ない漢中軍に気を利かせて劉敏が指示したのだろうか。しかしここに来られてしまえば魏軍騎馬隊のいい的にしかならない。

「すぐに引き返せと言え」

 伝令が、王平の怒鳴りに打たれて駆け出した。

 そしてすぐに自身も輸送隊の方へと駆けた。

 二里ほどで輸送隊が見えてきた。既に郭淮の八百騎が肉を啄む鳥のように攻撃をしかけていて、蜀軍輸送隊が戟で応戦していた。

 郭淮が王平の五千に気付いて輸送隊から離れ、王平はこれを追った。こうなれば、ここで郭淮の首を奪っておきべきだ。王平は騎馬を三つにわけ、自身は二千を率い、二つの千五百に郭淮の逃げ場を塞ぐよう指示を出した。

 輸送隊が撤収を始めた。それを目の端で確認して安堵したのも束の間、東方から夏侯覇の騎馬隊が急追してきた。

 王平は巧みに逃げる郭淮の追捕を諦め、千五百の一隊を郭淮の抑えに残し、三千五百を合流させて反転した。夏侯覇の騎馬隊が疾駆し、一直線に輸送隊の方へと向かっていく。郭淮を追っていたことで輸送隊から離れすぎていた。まずいことに、夏侯覇の方が一歩早い。

 蜀軍は、ここで兵糧を失うわけにはいかないのだ。その一心で王平は馬を疾駆させた。

 輸送隊がやられる。そう思った瞬間、夏侯覇の騎馬隊が反転した。

「しまった」

 はじめからこちらを狙っていたのだ。完全に意表を突かれてしまった。夏侯覇の四千五百と、王平の三千五百が正面からぶつかった。

 敵が力任せに押して来る。ぶつかって、夏侯覇が自分の首だけを狙ってきているのだということがはっきりとわかった。

 剣を叩き折った旗持ちの男が迫ってきた。左腕で旗を持ち、腿だけで巧みに馬を動かし右腕の剣で兵を殴り落としている。目が合った。王平は咄嗟に連弩を構え、放った。矢は肩に突き立ち、旗と共にその男が地に落ちた。その後ろから、夏侯覇。もう一矢放ったが、叩き落された。剣。間に合わない。王平は身を捩って夏侯覇の剣をかわし、落馬した。温かいものが右肩に広がった。

 馳せ違った夏侯覇の騎馬隊は距離を取り、勢いをつけてまた突っ込んできた。王平はしがみ付くようにして馬に乗ったが、味方をまとめる時がなかった。

 やられる。そう思った時、目の前の草むらから爆音と共に火柱が上がった。煙と硫黄のにおいが互いの騎馬隊の姿を眩ませ、冬の空に枯れた草むらが燃え始めた。蚩尤軍だ。

 敵が混乱する隙に乗じて体勢を立て直し、郭淮を追っていた千五百とも合流した。

 そこで諦めたのか、魏軍騎馬隊はそこから去って行った。

 すぐに犠牲を調べると、五千の騎馬隊が四千五百に減っていた。輸送隊がいなければ減らさずに済んだ数だったと思い、王平は歯噛みした。

「兄者、危ないところでした」

 右肩を晒して傷の処置をしていると、句扶が姿を現した。

「助かったぞ、句扶。お前がここにいるとは思わなかった」

「ここの農民に工作していたところ、劉敏が輸送隊の護衛をしてくれと言ってきたのです」

 句扶の声からは、不機嫌さが滲んでいた。

「蚩尤軍に護衛だと。あの馬鹿。あいつは忍びの遣い方を何もわかっていない。輸送隊を勝手に出すなどどういうつもりだ」

「輸送隊を出したのは、魏延殿の命令だと聞きました」

「なに、そんなことは聞いていないぞ」

「昨夜の内に出せとのことでした。言われてそんなに早く出せるかと劉敏はぼやいていましたが」

「俺の耳に一言でも入れてくれればいいものを」

 今思えば、魏延があんな早い時間に馬冢原から西を眺めていたのは、輸送部隊を待っていたからなのかもしれない。思っていたよりも到着が遅れたので、自分から言い出せなかったのだろうか。

 魏延の指揮は、どこか精彩を欠いていた。上からの指示に従うあまり、自分のやりたいようにできていないという感じだった。

 王平が負った傷は幸い深くなく、少し縫い、血止めの布をきつく巻いただけで腕が動かせないということはない。

「俺はあの騎馬隊を排除せねばならん。そこで頼みがある」

「頼みなどと、水臭い」

 句扶が興味深げな顔を向けてきた。王平は地に図を描き、策を示した。

「できるか」

「御安いご用です」

 句扶がにやりと笑った。

「よし、では頼む」

 句扶が姿を消すと王平は騎馬を率い、再度馬冢原へと向かった。騎馬戦をしている内に魏軍による馬冢原の包囲は完了し、夏侯覇の騎馬隊が番犬のように王平の騎馬隊に備えていた。輸送部隊が通れる余地はどこにもなく、この状態が続いてしまえば馬冢原の漢中軍は兵糧切れにより壊滅してしまう。

 どうにかならぬものかと馬を歩ませながら思案していると、斥候がさらなる悲報を入れてきた。

「魏軍本陣から三万が南下しています。目標は、武功水の兵糧集積地だと思われます」

 敵の動きが予想以上に早い。このままでは蜀軍本隊が到着するまでに、武功全体が制圧されてしまいかねない。

 陳倉にいた八万をこれだけ早く武功に展開させる司馬懿の手腕はやはり並大抵のものではなく、また雪に阻まれてしまう諸葛亮の不運を思わざるを得なかった.

 南下する魏軍三万の方へ王平が騎馬隊を動かすと、その後ろからゆっくりと夏侯覇の騎馬隊が追ってきた。劉敏の兵站集積地を狙う三万の軍勢の中に郭の旗が揚がっていた。五千足らずの騎馬隊で、三万の軍勢に立ち向かえるはずもなく、王平は魏軍に押されるようにして南西へと下がった。この大兵力で劉敏の陣が襲われてしまえば大量の兵糧を失ってしまうことになる。

 本隊が到着するまで手勢の騎馬隊で時を稼ぐべきか。稼ぐとして、どれだけ稼げるものなのか。

 夏侯覇の騎馬隊が馬足を上げてきた。ここが勝負所と見たのだろう。圧倒的に不利な王平は、追いつかれないよう同じく馬足を上げた。

 三万の歩兵から引き離せば戦えないことはないが、夏侯覇もそれがわかっているのか、王平の誘いには乗らず一定の距離を越えて追ってはこない。

 郭淮の歩兵と夏侯覇の騎馬が、じわじわ南に迫ってくる。七倍以上の敵を前にして、どのようにして時を稼げばいいのか。

 武功水が見えてきた。追い詰められていると言っていい。見ると武功水の河岸には、たくさんの篝が並んでいた。劉敏が知恵を働かせ、篝を増やして本隊が到着したように見せているのだろう。いつ露見してしまうかわからない程度の策だ。

 王平は並んだ篝を背に、魏軍の前に布陣した。いくらか効き目があったのか、郭淮が進軍を止めた。しかしこんな虚仮威しがいつまで通用するのか。

 郭淮が、歩兵をじりじりと前に出してきた。王平は一歩も退かず、その場に仁王立ちした。少しでも退けばあの三万はどっと押し寄せてくるに違いなく、退けなかった。

 滲みよる魏軍。これ以上は保たない。不意に、後方の武功水から銅鑼の音が鳴り響いた。河に沿って蜀の旗が一斉に上がり、鬨の声が上がった。虚仮でなく、本当に本隊が到着したのだ。

 押し出ていた魏軍が、郭の旗と共に退き始めた。

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