蔣琬の苦悩
成都では、物の値が上がり始めていた。蜀で生産されたものの大部分が、北で行われている戦で費やされているためだ。
蔣琬は、成都の中央通りを、五人の供を連れて歩いていた。供はいずれも体術の手練れである。成都を離れている諸葛亮に代わって国事を任されていた。今やもう、一人でどこかにぶらりと出かけるようなことなどできない身分になっていた。
街の中は、北伐が始まる前と比べると、道行く人の数が明らかに減っていた。大きな店が並ぶ中央通りにも、以前のような活気はない。民の活気は、国の活気と言っていい。国の活気が北へと注がれ続けているのを、蔣琬は成都にいて強く感じていた。
蔣琬は執務室に戻り、大きなため息をついた。卓の上には、北へと送らなければならない物資と人員についての書類が山積みにされている。
戦によって大きな影響を受けるものの一つに、市場がある。兵の腹を満たすために多くの糧食が北へと送られ、国内の穀物が少なくなった。商人による買い占めが横行し始め、それによって輪をかけて民の口に入るものが減っていた。
法により穀物の買い占めを禁止し、それでもやめない者は摘発したが、それでは根本的な解決にはならなかった。
足りていない糧食は、呉から米を買うことで補った。この大陸の南東では、米が豊富に採れるのだ。米の仕入先である呉とは同盟を結んでいるとはいえ、七年前には荊州を奪い合った、いつ敵になるかわからない国である。陳倉攻めの時に呼応した際も、利が薄いと見るやあっさりと軍を退いたのだ。戦によって疲弊した今の蜀の窮乏を知る呉の廷臣は、これを密かに喜んでいることだろう。
そんな中で、呉の王だった孫権が帝を提唱した。この大陸に、三人の帝がいることになった。漢の後継国を自称する蜀が強く抗議できないのを見抜かれた上でのことだ。抗議するどころか、祝賀の使者を送るのが、呉に対する精一杯の外交であった。
やはり、戦は一度中断するべきである。成都の廷臣の中には、そんな空気が濃厚に漂い始めていて、蔣琬もその中の一人だった。
「苦労をしているようだな、蔣琬」
董允が、まだ若い従者と共に務室に入ってきて言った。諸葛亮がまだ北伐を続けることができるのは、この男が帝の周りにいる北伐反対派を抑えているからだと言っていい。特に宦官たちが帝の劉禅と過度に親しくならないよう、気を配っていた。漢が衰退したのは、力を持ち過ぎた宦官の専横があったからで、蜀国は同じ過ちを繰り返してはならない。
「暢気なものだな。陛下の話し相手をしていればいいお前に、この苦労はわからんだろう」
「愚痴るな。俺は俺で、苦労しているのだ。宦官を始めとして、陛下の耳元で良からぬことを囁く者がいるからな。そいつらを抑えつけることで、俺がどんな陰湿な嫌がらせを受けているか知らんだろう」
言われて、成都で徴発をする自分もずいぶんと憎まれているのだろうと、蔣琬は思った。いっそ戦を止めてほしい。そうは思うが、口には出せないことだった。諸葛亮の代理として、自分はここにいるのだ。
「郤正、茶を入れてこい」
郤正と呼ばれた従者が静かに頷き、茶の用意をしに行った。挙措に無駄はなく、微かな音を発することもない、その郤正の異様さに蔣琬の目は釘付けになった。手練れの護衛と見比べても、遜色がないかもしれない。
「何なのだあいつは」
蔣琬が董允に顔を近づけて小声で言った。
「気付いたか。あれは先日、丞相の命で俺の従者となったのだ」
「足音が、全く聞こえなかった」
「丞相の目となるために送り込まれてきたのだろう。何、まだ十六の小僧だ。恐れることなどない」
「恐れなど」
郤正が茶の乗った盆を持ってきたので、二人は座り直した。
やはり、足音は一つとしてない。
「物価の値上がりだけは、どうしようもないか」
蔣琬が、何事もなかったように出された茶を啜りながら言った。
「呉から米を買い入れるために、かなりの銭を鋳造した。その上、蜀で生産に携わるべき若い者は北の戦地へと持っていかれているのだから、どうしようもないさ」
今の蜀には銭ばかりあり、銭で購えるものが少なくなってきている。かつて百の銭で買えていたものが今や二百出さないと買えないようになり、その傾向は悪化してきている。
蜀の通貨は太平百銭といい、かつて漢中を治めていた張魯が使っていたものだ。国が替わっても、諸葛亮は民に馴染んだ銭を使い続けていた。
「南方では徴税と徴兵に対する反発が、段々と強いものになってきている。大きな反乱が起きる前に何か手を打っておかなければならん。これも頭の痛いことだ」
「今度、永安から李厳殿が来るようだ。覚悟しておいた方がいいぞ」
李厳は、呉と国境を接する永安を治めていた。任されている主な仕事は、呉との交易の調整で、戦に比べれば華はないが、戦によって衰退する国力を交易で補うことは、今の蜀にとって重要だった。
李厳が成都のやり方に不満を持っていることは知っている。いくら交易を上手くやろうと、国が豊かにならないからだ。ここに来れば何を言わるか分かったものではない。
「また頭痛の種が一つ増えるのか」
戦を続ける諸葛亮は、まるで何かに憑かれたようであった。目的を果たすために何事も顧みないそのやり方には、時に恐ろしさすら感じることがある。
そして北伐反対派からの批判の矢面に立たされるのは、諸葛亮の代理である蔣琬だった。蔣琬は彼らに強硬的な姿勢で臨むのではなく、時に相手の言い分を理解し、時に宥めながら事に当たっていた。心中では戦をやめてほしいと思っているのだ。北伐反対派と同調する姿勢を見せることは、抵抗のあることではない。しかしあまりやり過ぎると、自分の首が飛びかねない。難しいところであった。
半月ほどして、李厳が成都にやってきた。帝への拝謁を済ませ、董允に連れられ蔣琬の執務室を訪ってきた。部屋の中には、郤正も入れて四人のみである。
「李厳殿、永安でのお勤め、大義でございます」
蔣琬は恭しく頭を下げた。
「蔣琬殿も苦労しているようではないか。それと比べれば、どうということもない」
一回りも年上の李厳の物言いに、若い者に対する横柄さはいささかもない。今の蔣琬にはそれが何とも不気味なものに映った。
「そう構えるな、蔣琬殿。儂は何も、喧嘩をしに来たわけではない」
蔣琬ははっとして、無意識の内に組んでいた腕を解き、居住まいを正した。李厳が来ることを喜んでいる北伐反対派は少なくない。李厳の言に対する抗弁をずっと考えていたのだ。
「永安では物資が少なくなり、今まで銭で買えていたものが買えなくなってきている。民の苦しみは、国の苦しみだ。蔣琬殿は、このことをどう考えておられる」
李厳は郤正から出された茶を啜りながら言った。
「耐えて頂くしかありません。戦が終わる気配はまだないのです。漢王朝の復興は、亡き劉備様の悲願でありました」
「丞相が劉備様の意思を継いで戦をしていることは、よく分かっている。しかし、先ずは国の基盤をしっかり整えねば、できる戦もできなくなるのではないか」
李厳に試されている。蔣琬の頭が、目まぐるしく回った。
「李厳殿の思われている国の基盤とは何か、お聞かせ願えませんか」
蔣琬が口を開く前に、董允が試し返すように言った。李厳は鼻白む様子もなく、言葉を継いだ。
「国の基盤とは、健全な物の流れと安んじられた人心のことだ、と儂は思う。今のこの国は、そのどちらも蔑ろにされてはおらぬか」
蔣琬はまた腕を組みそうになったが、椅子に座り直す仕草でそれを誤魔化した。
傍らでは、無表情の郤正が静かに立っている。それも何とも不気味であった。
「御明察でございます。しかしその健全なる国を実現させるために、丞相は北で戦っておられるのです。昨年奪った西雍州の地では大規模な屯田が行われ、なかなかの成果を出しつつあります。今は苦しい時ではありますが、この国があるべき姿に戻りつつあるのも確かなことなのです」
董允が言った。李厳がつまらなさそうに茶を啜った。
「では、董允殿の思う国のあるべき姿とは、いかなるものなのかな」
蔣琬は横目でちらりと郤正を見た。目だけを微かに動かし会話を追っている。
董允は一呼吸置き、口を開いた。
「国の頂点には帝が必要です。そして、臣民が帝を共有することで、天下の争いは治まります」
「その言い分だと、魏の曹氏が帝でも良いと聞こえるが」
「漢という国は、四百年という長い歴史を紡いできました。その年月の重みが、帝の血を高貴で尊いものにし、人々が共有する価値のあるものになっていくのです。我々が四百年の重みを捨て去り、易々と帝位が簒奪されることがあれば、次は自分がと思う者がこの国に乱立し続けるでしょう。漢の血は、千年二千年と永続させていかねばならないのです。この大事のためには、小事には眼を瞑らなければなりません」
蔣琬は隣で、目を閉じながら聞いていた。もう、腕を組むことは隠そうともしなかった。
帝の血を途絶えさせるべきではないという点では、蔣琬も同じだった。問題は、その方法なのだ。
「流石は董允殿。そなたのような者が陛下の側に仕えていることは喜ばしいことだ。しかし、小事の積み重ねの上に、大事はあるのではなかろうか。目の前の問題を無視していながら、どうしてその背後にある大きな問題を解消することができようか」
言っていることは分かる。だが今の蔣琬は、諸葛亮の意を汲む者としてここにいた。李厳の意見に易々と同意するわけにはいかなかった。
「蔣琬殿はどうお考えですかな。是非聞いてみたい」
蔣琬は腕を解いた。
「私は」
そして何故か、目が郤正の顔を確認していた。
「丞相の代理でここにいるということは、よく分かっている。それは抜きにして言ってもらいたい。蔣琬殿にとっての帝室とは、いかなるものですかな」
蔣琬は口籠った。帝のことについて質されるとは、思ってもいなかったのだ。
「陛下は、恐れながら、決して暗愚ではありません。臣の言葉にはよく耳を傾けられ、臣下に大事を任せる度量も持っておられます」
李厳が腕を組んで聞いている。郤正も、聞いていた。
「漢の四百年という長い歴史を引き継ぐに値する御方です。引き継ぐことで、蜀という国は強く豊かな国になれます。歴史を守るためにも、我々臣下は陛下の元で粉骨砕身の思いで働くべきだと思っております」
「では、今の北伐は、漢の四百年の歴史をまもるために行われているということか」
「それは」
「何も魏まで攻めていかなくてもいい、と儂は思う。この大陸の南西の地で、漢の歴史を絶やさぬこと。そしてこの地から魏と呉の二国に漢の存在意義を発し続けること。強大な国と戦い続ければ、我々が守るべき蜀はいつか亡んでしまうぞ」
「戦は続いております、李厳殿」
「こちらから攻めるからではないか。東は呉と手を結び合い、北は要害によって外敵を防ぐ。今は力を内に溜め、漢の歴史を継承した陛下をお守りすることこそが、我らのすべき戦ではないか」
「それは、わかりますが」
蔣琬は俯いた。帝を守ると言われると、何も言い返せなくなる。
「蔣琬殿の立場はわかっている。丞相の代理であるそなたがどのような考えを持っておるか、確かめておきたかった」
「李厳殿」
董允が何か言おうとしたが、李厳がそれを目で制した。
「そなたは、いや我々は、帝の臣であって、丞相の臣ではない。それが確認できて一安心した」
「不遜ですぞ。その言い草だとまるで丞相が」
「だから、そうではないと言っている」
李厳が目を鋭くして言い放ち、董允は黙った。この辺りは流石に、生前の劉備から信任された胆力を持っている。
「これからの戦についての話をしようか」
李厳が、声を穏やかにして言った。
郤正が、空になった李厳の器に静かに茶を入れ直した。
それからしばらく、三人は今後のことについて話し合った。帝のことではなく、北へと送るものをどうするかという話だ。呉との関係は今のところ良好なので、永安から北へ二万の兵を回すことを李厳に承知させた。魏が、漢中へと侵攻してきそうな気配を見せているのだ。
李厳は戦に反対だが、攻められるのなら出兵は惜しまないと言った。しかし物資が足りないのだけはどうしようもない。銭を鋳造することでなんとか凌いではいるものの、これでは銭の価値が安定しない。どこまでこれを誤魔化し続けることができるか、お前の手腕にかかっている、と李厳に言われた。
具体的にどうしろとは言わないのは、李厳の狡くて上手いところだ。言ってしまえば、そこに責任が生じてしまう。全てお前の責任でやれ。李厳から、暗にそう言われていた。言われずとも、そうするつもりだった。
話が終わって解散となり、蔣琬は細かい仕事を終わらせてから自宅の屋敷に帰った。昔はここで仲間と酒でも飲みに出かけたところだが、そのような軽々としたことはもうできない。魏からの刺客がどこにいるかわからないからだ。
屋敷には妻と、もう背の伸びきった二人の息子がいる。妻との関係は、あまり良くない。仕事の疲れをそのまま持ち帰るのを好ましく思われていないのだ。こうして屋敷に帰っても、家人が世話に出てくるだけで、妻は奥から出てこない。家でくらいは疲れを露わにさせてくれと思うが、他の所帯持ちの話を聞いていると、自分の仕事に干渉してこないだけましだとも思えた。
二人の息子は、どこかよそよそしかった。昔から仕事詰めで、その成長を見てやることができなかったのだ。息子達の態度がそうなるのは、仕方のないことなのだと割り切っていた。妻の教育熱心のせいで、書見は人一倍やっているようである。それは悪いことではない。
蔣琬は着替えをすませて寝台に横たわり、一日のことを振り返った。
李厳は、戦を止めて国内を固めるべきだと考えている。それはただ殻に籠ってじっとしているという意味ではなく、漢の歴史を守るために戦はあるべきだと考えているのがよくわかった。
そのために今の北伐は必要なのか。魏に攻め込めば、それだけ蜀が亡びる可能性も高まるのだ。
少なくとも諸葛亮は、外征の必要はあると考えている。そして戦を止めるべきだと思う蔣琬は、諸葛亮の意を成都で示すためにここにいる。
自分は何なのだ。身を粉にして働く中で、その思いは常にあった。
諸葛亮に従うために自分の意志を捨てていることを、妻は恐らく見抜いている。男のこういう姿は、女の目からは卑しいものに映るのかもしれない。
そろそろ、二人の息子を外に出してやらなければならない。燭台の炎を消しながら、ぼんやりと思った。それは自分のためでなく、将来のこの国のためだ。二人を生き甲斐のように思っている妻は何と言うだろうか。それも考えたくないことで、蔣琬は寝台に頭を埋めた。




