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王平伝演義  作者: 阿雄太朗
親子の心
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羊肉と老人

 黄襲の店から立つ香草の香りと、それに集まる客人たちが、漢中の街の一角を賑わしていた。

 魏国と戦う蜀兵の大半は漢中に駐屯し、その兵を相手にしようと商人が方々からやってきているのだ。漢中に、人と者が集まっていた。

 十一年前、劉備が漢中を奪り、秦嶺山脈以南が蜀の版図に組み入れたばかりの頃は、ここにいた住民の大半が曹操によって北へと連れ去られたため、主を失った家だけが寂しく立ち並ぶ寒村になり果てていた。

 今の盛況ぶりを見ると、そんな過去が嘘のように思えた。

 自然と、黄襲の飯屋も繁盛していた。男を五人雇い、厨房で働かせていた。五人はいずれも軍人であった頃からの知り人で、戦に耐えられない体になった者ばかりだ。女も五人雇い、黄襲の妻の指示で注文を取ったり卓を片付けたりしている。

 元兵士だった五人の動きは素早く的確で、黄襲の号令の下で効率良く客の胃袋を満たした。

 形は違うが、戦のようなものだった。敵は、毎日大量にやって来る腹を空かせた男たちである。黄襲を始めとする店の者たちは、大変ながらも、この戦を楽しんでいた。

 厨房の中には一日かけて丸焼きにした豚か羊を吊し上げ、客席からよく見えるようにした。客の注文を受けると、そこから肉を削いで香草をまぶして軽く焙る。それで良い香りが立つのだ。客は待っている間にそれを面白そうに見物し、常連ともなるとどの香草をどれだけ使ってくれと言ってきたりする。客とのそんなやり取りも、黄襲にとって楽しいことだった。

 楽しい日々の中にも問題はあった。

 王平の子である王訓を、句扶の頼みで預かっていた。父である王平とは生まれた時から離別していて、育ての親であった叔父が目の前で首を落とされた。心に大きな傷を負った少年だった。

 一度だけ挨拶に来た王平の額には、前にはなかった大きな傷跡ができていた。父が来たぞと王訓を呼んでみたが、王訓は部屋の奥に籠って出てこようとはしなかった。籠城中だと冗談を言ってみると、王平は苦笑を見せて帰って行った。

 王平と王訓の関係は、血の繋がりがあるだけに、難しいものがあるのだろう。軍人と軍人であれば、張り飛ばせばいいだけの話だ。

 厨房内で皿を洗う王訓は、黄襲の言うことによく従って働いた。皿を洗い終わって手持ち無沙汰になると、何か他にやることはないかとよく聞きにきた。飯屋の店主としてそれは有難いことだったが、妻はそんな王訓を見て、これからずっと父はいないと思い定めて生きていくつもりなのではないかと心配していた。

 ある日、王訓が休みの日に川に釣りへと出かけて行った。魚の棲家がどこにあるのか見分けるのが得意だと自身満々に言っていた。自分にしかできない仕事がしたいのだろうと思った黄襲は、魚の餌となる穀物の玉を何個か持たせてやった。

 どうしたことか、帰ってきた王訓は、顔を腫らしていた。魚籠の中には、一匹の魚も入っていなかった。何があったかと聞いても、王訓は何も答えず自分の部屋に戻ったまま出てこようともしない。後で妻が話を聞きに行くと、その川を遊び場としていた子供達に殴られ、釣った魚も全て取られてしまったのだという。よく考えてみれば、まだ王訓にはここで友と呼べる者がいなかった。

 何かしてやらなければいけない。王平から預かっている大切な子なのだ。しかし店の仕込みや接客に忙しく、してやれることはどうしても限られてしまう。

 王訓はそれ以来、店の手伝いをするだけで、ほとんど外に出なくなった。

「どうするべきかな」

 黄襲は閉店後の厨房で、次の日の仕込みをしながら呟いた。働き手は、もう全員帰してある。

 妻との間には子がなかった。それだけに王訓には親のような感情が湧いたりするが、子がいなかっただけにどうすればいいのか分からないということも多々あった。それは、妻も同じく感じていることだ。

 不意に店の戸が開かれた。もう五十になろうかという風体の男が入ってきた。この店の常連の一人であった。

「もう終わってしまいましたかな」

 半開きにした扉から体を半分出しながら、その老人は言った。

「構いませんよ。どうぞお入りください」

 いつもなら追い返すところだったが、常連客を追い返す気にはなれず、その男を中に招き入れた。一人で鬱々と思い悩んでいるより、年の近いこの男と少し会話をしてみたかった。

「よかった、腹が減っていたのだ。今日は商談が長引いてしまってな」

 黄襲は肉を削ぎ終えた豚の骨を煮込んだ汁に穀物の玉を三つ浮かべたものと、余ったかす肉と野菜を煮たものを少し皿に盛って出してやった。自分と同じくらいの年なら、これくらいのものが喜ばれるはずだ。

「うまい。私は、ここで出すこの汁が好きなのだ」

 初老の男は、豚の骨から味が染み出た汁を旨そうに啜りながら言った。うまいと言われて、悪い気はしない。

「よくここに来て下さっていますよね」

「おお、わしのことを憶えてくれているのか。嬉しいな」

 喜んだ男は、酒もくれと言った。一緒にどうだと誘われたので、酒とともに黄襲も卓についた。身なりは派手ではないが、金には困っていないところを見ると、漢中でそこそこの商いをしているのだろう。

「先程、商談が長引いたと仰ってましたね。商いは、何をしておいでなのですか」

「北から、色々なものを。今は肉が多いな。北で育つ羊の肉は脂が乗っていて、南に行けば良い値で売れる」

 北の羊の肉は、黄襲も欲しいと思っていたところだった。今年の初めに蜀軍が武都と天水を平定したことで、北の物産が漢中に入ってくるようになったのだ。

「成都では南方の物産と良い交易ができると聞きます。あそこまで行けば、かなりの利を上げることができるのではないですか」

「そこまで行きたいところだが、わしはもう若くないからな。それに成都では物の値が上がっていると聞いているから、商いは漢中までということにしているのだ。しかし、ここでは競争相手が多い。今日の商談も、他の商人との値の張り合いで長引いてしまった」

 それでも漢中から利を求めて南へ下る商人は少なくない。そうして国に税が落ち、豊かになっていく。商人の多さは諸葛亮の優れた民政手腕の証だ。

「良ければ、ここにも少し肉を売ってもらえませんでしょうか。そこまで多く買うことはできないのですが」

「わしから肉を買ってくれるのか。それは有難い。実はそんな話がないかと思ってこの店には通っていたのだ。おっと、下心を悪く思わないでくれ。わしはここの料理が好きなのだ。この兵糧に模した穀物の玉の料理は、実に面白い。こんな店と取引をしたいと思っていたのだ。しかしもう、しっかりとした仕入先があるのではないかと思って言い出せなかった」

「私はついこの間まで軍人をしていまして、軍内で兵糧を扱っていたのです。今の仕入先はその時の伝手で、南方の香草が手に入ったりします。北からの仕入れもしたいと思っていたところなのです」

「なるほど、私は運がいい。この汁に珍しい香草が入っているなと思っていたが、これで合点がいった。安くしておきますぞ。ここでわしの仕入れた肉が料理されると思うと、商人冥利に尽きる」

 黄襲は褒めちぎられ、照れを隠すために酒で口を隠した。

 階上から誰かが下りてくる音がした。不意に、初老の男が鋭い視線をそちらにやった。思わず黄襲は、男が向けた異様な視線の先に頭を回した。

「何か、手伝いましょうか」

 王訓だった。

「いや、一人で大丈夫だ」

 そう言うと王訓は頷き、自分の部屋へと戻っていった。体を正面に向けると、さっきと変わらぬ初老の男が旨そうに酒を舐めていた。

 気のせいか。そう思い直し、黄襲も酒を飲んだ。

 出したものを平らげた初老の男は、卓に銭を置いて帰って行った。

 黄襲は厨房に戻った。火にかけていた骨の入った鍋が、いい感じに煮立っている。味見をして、幾つかの香草を掴んで中に入れた。

 良い肉を仕入れることができる。そうすれば、この汁は格段に旨くなるはずだ。それで客を呼び込んで銭を得たいというわけではなく、単に旨いものをつくるのが生き甲斐なのだ。

 昔から料理に熱中していると、他のことは頭から消えた。さっき初老の男が垣間見せた異様な視線のことも、もう黄襲の頭にはなかった。

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