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王平伝演義  作者: 阿雄太朗
親子の心
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隘路

 初春の冷たい山中の空気が、肌にひりついた。

 趙広は五百の隠密部隊を率い、天水から東へ五十里の所に伏せていた。二つの高地に挟まれた、伏兵には最適な狭隘の地である。魏軍の本隊から分かれた三千の騎馬が、もうすぐここを通るはずだ。

 趙広は諸葛亮から渡された黒い石を、手の上で転がしていた。不思議な石だった。鉄製の短剣を近づけると、それはぴたりと貼り付いた。この石は磁鉄鉱といい、漢中の西方で多く産出されるのだという。

 趙広は五百を二十五人の一組に分け、その一組ずつに小分けした磁鉄鉱の袋を与え、隘路の両側に十ずつの部隊を配置した。近くには、強行してきた王平の一万が潜んでいる。それは王平からの狼煙で確認することができた。敵が近くにいるため、伝令を出すことは控えていた。

「敵の三千が近づいてきました」

 部下が、小声で伝えてきた。趙広は、それに無言で頷いた。

 一つ、甲高い鳥の鳴き声が山中を走った。趙広の口から発せられた、戦闘開始の合図である。

 諸葛亮から与えられた、初の単独の任務だった。それを思うと、趙広の血は腹の底から滾ってきた。

 見えた。魏軍騎馬隊の先頭である。翻る夏侯の旗が近付いて来ると、不思議と腹の底の血は静まってきた。

 敵の先頭が、眼下を通り過ぎて行った。まだだ。趙広は自分に言い聞かせるように呟いた。焦って事を仕損ずれば、先頭の数百数十を斃しただけで終わってしまう。

 騎馬隊が中軍に差し掛かった。魏と夏侯の旗。三千を率いる将である。頃合いを見計らい、趙広が右手を上げた。一つ、銅鑼が鳴らされ、それを皮切りに山中のいたるところから銅鑼の音が続いた。眼下の馬蹄に負けないほどの轟音である。敵騎馬隊に衝撃が走るのが、はっきりと見て取れた。

「やれ」

 趙広は、轟音に負けぬ大音声を上げた。山中の崖から一斉に投げられた袋は中空で開き、大量の磁鉄鉱が敵騎馬隊の頭上に散らばった。具足に、馬甲に、その黒い石は貼りついていった。三千の中軍から、前後に混乱が伝播していく。

 狭隘の向こう側から、喚声が上がった。二つに分かれた王平の一万が地から湧くように現れ、狭隘の地を塞いだ。

 趙広の五百は弓をつがえ、山腹から矢の雨を降らせた。敵騎馬隊が、面白いように馬から落ちていく。塞いだ隘路の両端で、戦闘が始まった。敵は血路を開くためまとまりを得ようとし、十人、二十人と集まった所に趙広隊の矢が集中した。それでできあがりかけたまとまりは、蜘蛛の子を散らすようにまたばらけた。

 夏侯の旗の下に集まろうとしているまとまりはさすがに頑強だった。百ほどのまとまりが、百三十、百五十と増えていき、小さく円陣を組んで四方からの矢を盾で防いでいた。

 趙広は走りながら懐に忍ばせた硫黄の玉を取り出し、火を点けた。煙を出し始めたものを、円陣の中に投げ込んだ。大きな発火にはならないが、小さな火が上がって敵は動揺した。後ろから部下が同じように硫黄の玉を投げ、ぼっと幾つかの火柱が上がった。

 趙広は山の傾斜を猫のように跳ね下り、敵円陣に突っ込んだ。後ろからは、二十五人の部下が追ってきている。敵は降ってくる矢を警戒し、或いは具足や武器にくっついた磁鉱石に気を取られ、眼は下に向けられていない。

 馬の足。目の前の二本を払った。何故落馬したかもわからぬ兵にとどめを刺した。部下が続き、別の方向からも他の二十五人が殺到してきた。それで二百になろうとしていた円陣は崩れた。

 趙広は馬の足をかいくぐりながら、夏侯の旗を目指した。戟を振るう敵将が自力で道を作り、隘路を脱しようとしている。

 待て。趙広は思わず声に出していた。こちらは足で、向こうは馬だ。追い付けるはずもなく、敵将はその場から駆けて出して行った。隘路から抜け出そうとする夏侯の旗に、算を乱した兵が集まり始めていた。進みながら二百ばかりが集まると、敵将は逡巡することもなく、隘路の出口に突っ込んだ。不意の方向からの攻撃に王平の兵は戟を向けるのが間に合わず、夏侯の二百は揉まれながらも駆けた勢いのまま突き進んだ。

 やがて、旗が倒れて兵の中に消えた。そう思った刹那、王平の歩兵の中から数騎が飛び出して行った。二百いた騎馬の塊は、両の指で数えられるほどに減っていた。

 趙広は舌打ちをした。逃走した数騎の中に敵将の姿があった。奪れていた首を逃してしまった。

 悔しさよりも、怒りが先に湧いてきた。

 敵将を襲った五十の兵は三十九にまで減っていて、その全員を山腹に上げて横に並ばせ、一人ずつに平手打ちを食らわせて行った。

 眼下の隘路では、掃討戦が続けられている。


 不意の出来事だった。

 郭淮からの帰還命令で、天水に急いで引き返していた最中である。両側の山中から銅鑼の轟音が鳴り響き、夏侯覇は棹立ちになろうとする馬を必死に抑えつけた。

 どれほどの敵だ。先ず、考えたのはそれだった。音はすごいが、それほどの兵力はない。この山中に、何千もの兵を潜ませるのは難しいと思えた。

「落ち着け。このまま進軍するぞ」

 兵をまとめようとしているところに、大量の黒い石が降ってきた。その石は具足と馬甲に貼り付き、まとまろうとしていた兵が奇怪な虫でも払おうとするかのように体を振って声を上げ、算を乱していった。

 これは、磁鉄鉱だ。幼い頃、太学で習ったのを思い出した。しかし兵に、そんな知識があるはずもない。未知なものを目の当りにした兵たちは、大きな恐怖に包まれていった。

「こんなものは子供騙しだ。俺の旗だけ見ていろ。この隘路を抜けるぞ」

 その声で、周りの兵はいくらか落ち着きを取り戻したようだった。しかし後方の混乱は、目を覆いたくなるほどのものだ。

 黒装束で身を包んだ者たちが、地を滑るようにして襲いかかっていた。周囲に上がる火と轟音に惑わされることなく、夏侯覇は馬上から戟を繰り出した。敵は軽装であるため、冷静に戟を振ればそれで斃れ、何人か斃すと夏侯覇は馬の腹を蹴った。

 百ほどの部下が続き、それを見た味方も合流してきて数が増えていく。

 敵。隘路の出口に立ち塞がっていた。道は緩やかな下り坂なので、逆落としをかける格好となった。並べられた戟。どれほどの兵が抜けられるのか。小さくまとまった二百が、敵の前衛にぶつかった。次々と味方は突き落とされ、落馬した者がめった刺しにされていく。味方の屍を乗り越えていく夏侯覇は戟を左右に振り、逆落としの勢いのまま敵中を駆けた。敵兵力はどれほどか、考える余裕などない。とにかく、敵はたくさんいる。

 叫び、戟を振る。視界の端で味方が馬から落ちていく。全てがゆっくりしたものに見えた。何故、ゆっくりなのだ。早くここから抜け出したいんだ。蜀の兵が剣を伸ばしてくるのを戟の柄で撥ね上げ、開いた胸に刺突した。苦痛に歪む兵の顔。そんなものを見ている場合ではない。苛立った夏侯覇は、何度も激しく馬腹を蹴った。

 抜けた。ゆっくりだったものに、速さが戻った。周りには四騎しかいない。夏侯の旗もない。敵中を抜けてくる後続の者は、蜀軍騎馬隊に追い立てられていた。走れ。馬が潰れるまで、走れ。叫んだが、追い立てられ、突き落とされている味方に、構っている暇などなかった。

 馬の揺れが、いつもと違うものになった。それでも夏侯覇は、馬腹を蹴り続けた。

 空。そこに向かって飛んでいた。地にぶつかることで、馬が潰れたのだと分かった。また、空。今度は、二人の部下に両脇を抱えられていた。

 しばらく進んだ森の茂みに深く入り、そこでようやく落ち着くことができた。もう、敵の追手はないようだ。

「何人いる」

 木の幹に体を預けながら、消え入るような声で聞いた。

「三十三人です」

 天水で与えられた兵は、五千だった。それが、三十三人。他に落ち延びた者もいるのだろうが、信じられないくらいの大敗だ。

 かっと、鼻の奥が熱くなった。自裁。そう思うと同時に、剣の柄に手をかけていた。

「なりません」

 部下の数人に、体を抑えつけられた。抑えつけられながら、夏侯覇は目を閉じた。五千人が、三十三人。溢れてくるものが、止めようもなくひたひたと流れ落ちていた。

「離せ。もう死のうだとは思わん」

 部下が、心配そうな顔をしながら夏侯覇の体から離れた。

 左脇に、小さな黒い石が付いていた。こんなもの。夏侯覇はそれを右手で取り、地に叩きつけた。部下が、竹筒に入った水を差し出してきた。一口飲むと、体に染み込んでいった。悔しい。湧いてくる感情は、そればかりであった。

 見渡すと、三十三人の部下がそれぞれ悲愴な顔をしていた。泣いている者もいるし、深い傷を負って呆然としている者もいる。

「帰るぞ、長安に。馬の状態を確認しろ。歩くのが困難な者から馬に乗せるんだ。できるだけ、間道を行くぞ」

 腹から振り絞って指示を出すと、部下の顔に幾らか力が戻ったように見えた。


 日が暮れはじめていた。王平は追撃中止の命令下し、原野に張った幕舎で部下からの報告を受けていた。

 戦は快勝といっていい。兵の損失はほとんど出さず、敵五千を壊滅させることができたのだ。それでも王平は、次々に入ってくる報告に不満を感じていた。それは、趙広と劉敏から上げられてくるものだ。

 王平は全軍に兵糧をとらせる前に、趙広と劉敏の二人を幕舎に呼びつけた。

 諸葛亮の本隊からも伝令はやってくる。

 天水では、諸葛亮が率いる蜀軍本隊が郭淮の一万五千を打ち破っていた。渭水北岸にいた一万が羌軍だと思い込んでいた郭淮は、見事に諸葛亮の策に嵌った。

 陳式の軽騎一万が羌軍に偽装し敵後方に回りこめたのは、王平の一万が敵の退路を断とうという囮の動きを見せたからだ。郭淮がこの一万の増援に気付かなかったのは、漢中を防諜しきった句扶の働きがあったからと言っていい。

 郭淮が反転し、先行していた魏軍の三千騎が戦場に浮いたのを、王平は見逃さなかった。趙広が選んだ埋伏地が伝えられてくるのに、それほど時はかからなかった。東へ進むと見せかけた王平の一万は北へと急行し、一万を二つに分けて半数を劉敏に指揮させ予定地に埋伏した。

 一万の大軍である。埋伏をしようと敵の斥候に知られてしまう危険はあったが、そうはならなかった。それほどに、敵は焦っていた。

 趙広の潜む隘路の地から、甲高い鳥の鳴き声が聞こえた。趙広からの合図だ。王平は即座に兵を動かし、隘路の両端を塞いだ。

 詳しくは聞かされていなかったが趙広が何か奇策をもっていたようで、隘路を突っ切ろうとしていた敵騎馬隊は俄かに統率を乱して足を止めた。そこに趙広の五百が襲いかかった。あとは隘路の出口で待ちうけ、逃げようとする魏軍を討つだけでよかった。

 王平は隘路を成す高地の片側に登り、全体の戦況を見渡していた。昔から遠目は利くので、隘路の混乱はそこからでもよく見えた。

 夏侯の旗の下に、二百が集まろうとしていた。あれは恐らく街亭で見た夏侯覇という将だ。他にも混乱の中でまとまろうとする集団が幾つかあったが、それは趙広が上手く散らしていた。

 夏侯の旗を中心とした集団の近くに、二つの陰が現れた。趙広が、夏侯覇の首を狙って突っ込んだ。

 馬鹿が。王平は床几に腰を下ろしながら呟いた。直接攻撃をかけなくても、味方の方へ追い込んでくるだけでいいのだ。

 夏侯覇は戟を振って趙広を振り切り、二百ほどを小さくまとめて駆けだした。そして隘路の出口に待ち構えた兵の壁に突っ込み、王平のいる所からは見えなくなった。

「入ります」

 王平が卓の上で目を閉じながら今日の戦を振り返っていると、趙広と劉敏が肩を並べて入ってきた。その顔には、勝ったという気持ちが浮かんでいる。それが、王平には気に入らなかった。

「二人とも、損害の報告をしろ」

「もう、部下にさせたはずですが」

 言った劉敏を、王平は張り倒した。

「死者が五十六名、負傷者が百十一名で、計百六十七の損害でした」

 張り倒された劉敏が、素早く直立しながら言った。損害は、敵が血路を開こうと突っ込んできた時に出たのがほとんどだったという。血路を開いたのは、あの夏侯覇だ。

「あれだけ優勢な状況で、それだけの損害を出し、しかも敵将を逃したか」

 言われて、劉敏はうなだれた。片方の隘路を担った王平の五千からは、いささかの負傷兵を出したが、死者は三名しか出していない。夏侯覇の逆落としが強烈だったのだろうが、地形をよく見ていればそれに対する備えはできたはずだ。劉敏もそれがわかっているのか、ただ黙ってうなだれている。

「次、趙広」

 言われた趙広の目が、一瞬泳いだ。

「死者、九名。負傷者、五名。計十四名です」

 口籠り気味の趙広の頬を、王平は張った。さすがに、劉敏のように倒れはしない。

「死者が九。負傷者が七。計十六。お前からの伝令は、そう言っていた。違うか」

「申し訳ありません」

 趙広が小さく、呟くようにして言った。

「死者の九名は、敵将を討とうとした時だな。二人もそこで負傷している。この十一名は、損害となる必要はあったのか」

「討てる機だと見ました。討てるのなら、少しの損害は仕方の無いことだと思います」

 言った趙広の頬を、また張った。

「しかし、討てなかった。そもそもお前の隊は直接戦闘をするためのものではない。お前は兵を無駄に殺したのだ。はじめから、敵将は俺の方に追い込んでくれば良かったのだ」

「はい」

 そこで初めて趙広は俯いた。目にはまだ、不満の色が残っている。

「勝ったなどと浮かれるな。何が駄目であったかよく考えておけ。まだ戦は続くのだからな」

 言って背を向けると、二人は退出していった。そこで初めて、兵に兵糧を出せという指示を出した。

 王平は卓に着き、部下を呼んで諸葛亮に宛てる報告書を作り始めた。王平は字が読めないので、口頭で言ったことを部下が書いていく。鹵獲した馬は、二千に近かった。趙広と劉敏の二人を叱りはしたが、数字だけ見るとその損害は大したものではない。むしろ大勝と言っていい。

 報告書を口頭で述べる王平の膝が細かく揺れている。不機嫌さが過剰に表に出ているせいか、筆を動かす部下の顔が緊張していた。

 苛ついている。その自覚はあった。漢中に残してきた難しいことが王平の心に影を落としていた。

 王平は未だ、王訓にどう接していいか分からなかった。かと言って忘れ捨ててしまえばいいというものではない。昔、愛した女が産み、友だった男が育ててくれた、大事な息子だった。王歓も王双も、自分のせいで死んだ。王訓が向けてくる感情は憎悪と言っていい。それでも、親子の結び付きは消えるものではなかった。

 明早朝は、日の出と共に進発である。子のことで悩みながらも、黄襲の飯屋でどう暮らしているかが気になった。その思いは何度拭おうとしても、拭いきれなかった。

 幕舎を出ると、漢中からも見える夜空が頭上を覆っていた。王訓もこの空を見ているのだろうか。

 兵糧を炊く炊煙と、鹵獲した馬の嘶きが彩るこの地に、まだしばらくいたいと思った。


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