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王平伝演義  作者: 阿雄太朗
親子の心
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王訓と王平

 目の前に、鉄の格子があった。

 陽の光が届かない、地下の牢である。灯りは格子の向こうに一つあるだけで、そこには昼も夜もない。終わることのない夕暮れだと思えた。一日に二度、粗末な食事が出された。定期的に訪れる眠気と食事で、一日の経過は何となくわかった。

 陳倉城の門を潜り、王生の馬に乗ってまだ死体の転がる原野を進んだ。叔父である王双が敵将と何かを喋ったかと思うと、一騎打ちが始まった。

 叔父が本気で戦うところを見るのはそれが初めてだった。凛と馬上で背筋を張った王双の右腕から何度も斬撃が繰り出され、敵将をあと一歩のところまで追いつめた。噂に聞いていた叔父の強さは本物だった。

 一騎、二人の間を引き裂くように駆けこんできた。そして、叔父の体が、馬上から落下した。

 あと一歩で討てていた敵将は自分の父親なのだと叔父が言った。瞬時に、何を言っているのか理解できなかった。何故、自分の父と一騎打ちをしなければならなかったのか。そんなことより、叔父の体から腕がなくなっているではないか。

 数歩先に、血にぐっしょりと濡れた叔父の右腕が落ちていた。これまで何度も自分の体を抱き、頭を撫でてくれた右腕だ。

 大事なものが失われていく焦燥感に駆られて落ちた右腕に飛びつこうとして、王生に腕を掴まれ止められた。

 少し言葉を交わすと、両腕を失った体から、首も落とされた。落としたのは、自分の父だという男だった。首を失った叔父上の体は、膝立ちのまま少し揺らぎ、音を立てて地に倒れた。落とされた首の双眸は、もう自分のことを見てくれてはいなかった。

 頭の先から、肩から、血が引いていくのがわかった。それは、今までに味わったことのない感覚だった。叔父の遺骸から目を逸らすことも、泣くこともできなかった。どちらも、やってはいけないことのように思えた。

 膝から崩れてしまう自分の体を、父だという男が支えてきた。王訓は、その手を反射的に振り払った。お前は、何なのだ。叔父上が何をしたのだ。そう叫んだところで、涙が溢れてきた。それは、止めることのできないものだった。泣くことを叱ってくれる人は、もういないのだ。

 周りに立ち並ぶ兵の間から、小柄な男が割って出てきた。その小柄な男に、父だという男は王平と呼ばれていた。確かに王姓は同じだ。しかしそれだけで、自分の父だと認めることができるのか。

 小柄な男は句扶と名乗り、この子のことは任せろ、というようなことを王平に言っていた。こいつは何を勝手なことを言っているのだ。この王平という男は、叔父上のことを殺したのだぞ。殺してやる。そう思って掴みかかる王訓の体を、句扶に抑えつけられた。小柄なくせに、抗いようのない強い力だった。

 これは夢なのだ。悪い、それも最悪の夢だ。その夢は、今でも醒めてくれようとはしない。

 これから漢中に行くのだと句扶は言っていた。もうどうにでもなれと思った。どこかで、捕虜は拷問にかけられ殺されるのだと聞いたことがある。自分もそうやって殺されてしまうのだろうか。

 漢中に着くと、放りこまれるようにして牢獄に入れられた。狭く、糞の臭いがする牢獄だった。まさか自分がこんな所に入れられることがあろうとは、今まで考えたこともなかった。

 一日に二度の飯は、句扶が自身の手で運んできた。それには手をつけなかった。空腹でも、何かが喉を通るという気がしなかった。水も飲む気にはなれない。何も口にしなければ人はいずれ死ぬ。ならばここでこのまま死んでしまえばいい。

 牢の中ではすることもなく、ずっと横になっていた。薄暗い中で、頭と腕を失った叔父の体が浮かんでいた。それを目にする度に、王訓は腹の底から叫んだ。他に誰もいない牢の中で、喉が潰れてしまうくらい叫んだ。

 叫び疲れると、眠気が襲ってきた。目を閉じると眠りに落ち、すぐに目が覚めた。時の流れは分からなかったが、それはすぐだという気がした。体は汗でびっしょりと濡れていた。

 渇きが限界にくると、王訓は部屋の隅に置かれた小さな水瓶に飛びついた。考えてそうなったのではなく、体が勝手にそうしていた。

 水を飲むと、体に少し力が戻った。力が戻ると体の底から怒りがこみ上げてきて、叫び、句扶が置いていった粥の入った椀を壁に叩きつけた。大きな音が牢獄内の静寂を切り裂き、しかしまたすぐに静寂が戻ってきた。

 句扶が新しい粥の椀を手に入ってきた。王訓がそれを無視して背を向けて寝ていると、いきなり襟首を掴まれ、目の前に粥の椀を持ってこられた。空腹だった。王訓は、獣のようにそれに食らいついた。旨い。旨いと思えることが、悔しかった。

 半分も食うと、体の底から怒りが込み上げてきた。王訓は粥の椀を叩き落とし、句扶の足に噛みついた。

 句扶は噛みつく王訓の髪を掴み上げ、そのまま壁に叩きつけた。口の中に、赤い味がした。殺してやる。そう思って振り返ると、もうそこに句扶の姿はなかった。あるのは、鉄の格子だけだ。口の中の味は、自分のものなのか、句扶のものなのか、分からなかった。

 ここでどうなってしまうのか。殺されるものかと思っていたが、そうではないという気がする。ならば、これからも生き続けていくのか。叔父上のいない、それも見知らぬ地で、どうやって生きていくのか。それは想像もつかないことだった。ここで何も口にすることもなく死んでしまえば、それが一番楽だという気がする。

 横たわって動かずにいると、何かが這う音がしてそちらに目を向けた。大きな鼠が一匹と、小さな鼠が四匹いた。大きな一匹と目が合った。その鼠はじっとこちらを見つめ、何かを見極めると尻を向けて去って行った。まだこいつは死んでいない。鼠はそう呟いたようだった。

 ここで静かに死に、鼠の餌になってしまえばいい。

 運ばれてきた飯には、やはり手を付けなかった。

 飯は食わずとも、不思議と糞は出た。王訓はその度に仕方なく体を動かし、牢内の隅で糞をした。糞をしながら、王訓は笑っていた。これから死のうというのに、糞はきちんと隅でするのか。それが何ともおかしかった。

 飯を食わないことで句扶が何か言ってくることはなかったが、三度に一度は椀を目の前に持ってこられた。その時はやはり、獣のようにしてそれを食った。そして句扶に襲いかかり、壁に叩きつけられた。

 何度もそうしている内に、心のどこかで句扶がここに来ることを待ち望むようになっていた。替わりに浮かんでいた叔父の影が薄いものになっていく。

 外から音がして、句扶が入ってくる。それに背を向け続けるのは無意味なことだと思えてきた。

「俺を、どうしようという」

 飯を運んできた句扶を前に、そう言うと、張り手が飛んできた。

「甘えるな」

 そう言い、句扶は去って行った。俺が何を甘えているというのだ。その言葉の意味は、わからなかった。

 王訓は、残された飯に手を付ける気になった。同じことの繰り返しに飽き始めていた。それ以上に、句扶に聞きたいことをぶつけてみたかった。死ぬのは、それからでも遅くはない。

 定期的にやってきていた鼠は、王訓に興味を失くし始めていた。王訓は椀の飯を少しだけ残し、それを牢の床に置いた。やってきた鼠は、それに貪りついていた。王訓は横になり、それを眺めた。この鼠達は、多分親子なのだ。そんなことをぼんやりと考えた。

「なあ」

 話しかけると、鼠は弾かれるようにして逃げて行った。つまらない。王訓はそう呟き、一つ舌打ちをした。

 そろそろ句扶がやってくる頃だ。王訓は、それを座って待っていた。

「どうした。いつもと違うではないか」

 やってきた句扶が、口元に笑みを浮かべながらそう言った。心の中を見透かされたようで、頭がかっとなった。句扶に殴りかかったが、もう壁に叩きつけられることはなかった。ただ殴られるままの句扶。それを前にすると、涙が溢れてきた。そしてそれは、止まらないものとなった。

 句扶の手が、王訓の頭に当てられた。また叩きつけられるのかと思って歯を食いしばったが、そうはされなかった。叔父上より小さな手だ、と思っただけだ。

「出ろ」

 言って背を向けた句扶に、王訓は黙って従った。

 久しぶりに出た外は、驚くほどに眩しく、目を開けていられなかった。空気は澱んでおらず、風がある。それはまるで新しい世界のようだった。

 しばらくして目が慣れてくると、句扶は漢中の街にある食堂に王訓を連れて行った。長安で起居していた宿より小ぢんまりとしていて、しかしながら小綺麗な食堂だった。

「今日から、お前はここで暮らすのだ」

 それだけ言うと、句扶はどこかに行ってしまった。王訓の前には、二人の老夫婦がいた。笑顔の優しい二人だと思えた。


 冬が終わり、雪解けの水が流れ始めていた。まだ寒くはあったがそれは極寒というものではなく、服の下に染みる空気が心地良い。

 王平は諸葛亮の命で漢中から西に二十里離れた場所に、幕舎を張って城を築いていた。漢中の東には、魏延が同じように城を築いている。長安を落とそうと魏領に侵攻し、失敗した。これからは、魏から攻められることも考えなければならず、それに備えるための築城である。城の縄張りは心得のある劉敏がやり、作業をする兵の指揮は王平がやった。

 この命令が届いた時、王平は心の隅でほっとしていた。漢中の街には、自分の息子である王訓がいる。王平はあれだけ会いたいと思っていた自分の子に、どう接していいか分からないままでいた。

 それに見かねたのか、句扶が王訓を自分に預けろと言ってきた。王平は言われるがまま、句扶に任せることにした。

 王訓を届けに来た王双を、自らの手で殺した。自分でしなければならないことだと、瞬時に思ったのだ。趙統はそれに対し多少苛立っていたが、それを気にかける余裕などなかった。

 長安へと続く三つの道の一つである斜谷道は、陳倉で完全に封鎖されてしまった。秦嶺山脈を越え陳倉を抜くことは、もう難しい。険しい道であるが一番の近道である子午道にも何らかの備えがあると思っていい。残された道は、秦嶺山脈を大きく西へと迂回する、箕谷道のみである。

 諸葛亮は、まだ魏攻めを諦めていなかった。今度は長安にまで攻め込むのではなく、秦嶺山脈の西の魏領一帯を攻め取ろうとしていた。漢中から箕谷道を通り、一息で長安に攻めこむとなれば、兵站が伸びすぎてしまうからだ。

 蜀の軍人で、戦に倦んでいる者は少なくなかった。王平もその一人である。そんな武官達の意を汲んでか、諸葛亮は成都の兵だけで漢中を発っていった。少数だけで迅速に動き、長安からの援軍が来る前に攻め取れるだけ取っておこうというのが狙いだ。

「これは、なかなかの城になりそうですね」

 築城に精を出している王平のところに、句扶がやってきた。諸葛亮率いる本隊に付随する隠密部隊には、もう一人前となった趙広が駆り出されている。

「ここは陳倉以上の城にしてやる。こうなれば、いつ魏軍が攻め込んでくるかわからないからな」

 精を出すことで、難しいことを忘れようとしていた。そうやって大事なことから目を逸らそうとすることは、自分の悪いところなのかもしれない。

「とりあえずは、大丈夫なようです」

 句扶が、王平の心を見透かして言った。

「何のことだ。魏軍のことか」

 何のことかは分かっていたが、そんな言い方をしていた。

「王訓のことです。心に大きな傷を負っていたようですが、立ち直る目処はつきました。今は、黄襲殿に預けています」

「そうか」

 自分ですべきことではあったが、王訓のことは考えただけで大きな気後れを感じてしまう。十年以上もの間、父親として何もしてやれずにいたのだ。これから何かしてやろうとしても、王訓が受け入れてくれるかどうかわからない。

「俺は、恨まれているか」

「はい、かなり」

 遠慮なく言う句扶の言葉に、王平は苦笑した。難しいことから目を逸らしてはいけない。そう言われているようでもあった。

「あれは、決して弱い子ではありません。何と言っても兄者の子なのですから。恨まれているのは今だけです」

「俺はどうしようもない男だ。妻を死なせ、子を十年以上も放っておいたのだ。それに育ての親である王双を、この手で斬った」

 王平は額に手を当てながら言った。額には、王双に斬られた大きな傷跡が残っていた。

「兄者は大事なところで、背を向けることをしなかった。私はそう思います。王訓もいずれそのことを理解することでしょう。それには、長い時がかかるとは思いますが」

 その長い時とは、どれくらいのものなのだろうか。一日や二日であるはずがない。一年や二年でも短いという気がする。その間は絶えず思い苦しまなければいけないことなのだろう。

「黄襲殿なら、安心して任せられるな」

「子のいない老夫婦です。自分の子ができたようだと、特に奥方殿は喜んでおられました」

 やはり、自分ですべきことだと思った。しかしどうすればいいのか、王平には分からなかった。

「すまん」

 句扶の気遣いが心から有り難かった。

 気にするな、というように、句扶の顔が微かに動いた。

「ところで、西に向かった蜀軍はどうなっているのだ」

「進軍に問題はないようです。標的が長安ではないということで、魏軍も気を緩ませています。丞相の執念には魏の武官もうんざりしていることでしょうな」

 魏の武官らも、というところで、王平は思わず苦笑した。劉敏に読ませた蔣琬からの書簡にも、直接的ではないが、もう戦は中断してもらいたいということが匂わされてある。

 築城予定の地に向けて、陳倉戦後に補充された新兵達がかけ声をかけながら大きな石を運んでいる。体作りの一環として、新兵にはそれをやらせていた。前からいる漢中兵は杜棋に指揮させ、野を駆けたり武器を遣った調練をしたりしている。

 辺りに鐘が打ち鳴らされた。この日の仕事の終わりを告げる鐘である。

 汗にまみれた兵達が、ぞろぞろと兵舎に引き上げてきてくる。戦の臭いが無い長閑な光景。それは無謀な城攻めをしていた時の王平が望んでいたものだ。しかしそれは、得てしまえば空しいものでしかなかった。

 王平の体は、無性に酒を欲し始めていた。


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