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王平伝演義  作者: 阿雄太朗
陳倉の戦い
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王双の死

 王平は軍の最後尾に立ち陳倉城の様子を見続けていた。

 追撃はなさそうだった。逃げる敵を追い討つのが戦の定石といっても兵力差は十倍もあり、魏軍は陳倉で敵を防ぎきったことで既に十分な戦果を上げている。

 あの城内に王双がいる。馬を少し走らせれば会いに行ける距離だ。しかしそれは、殿軍を任された王平の立場が許さない。

 何を考えているのだ。思い直し、王平は馬を返してそれ以上城を見つめ続けることを止めた。

 漢中に帰れば、北伐が始まる前と同じ、軍人としての日々が待っている。

「門が開きました」

 見張りの兵が叫んだ。王平は怪訝に思いながらも馬を戻し、鐙に立って陳倉城の方を凝視した。

 四騎の米粒ほどの人影が、城外に姿を現した。軍を出してこちらを襲おうという気はないようだ。

 四騎は馬足を速めつつ、真っ直ぐこちらに向かって来ている。人影が大きくなってくるにつれ、その先頭にいる者が見えてきた。隻腕の男。それに右目が大きな傷で塞がっている。王双だ。

 俺に会いに来ている。

 王平は周りの兵に気取られないよう息を飲みつつ驚いた。

 兵たちは、たった四騎で近付いてくる敵にどう反応していいか分からないといった顔をしている。王平は馬を進めた。付いて来ようとした数騎に動かず待っていろと怒鳴りつけ、一騎で駆けだした。

 後ろで劉敏が何か喚いているが、それは無視した。戦はもう終わったのだ。ただ、友に会いに行く。何も悪いことはない。

 軍の輪から出て、王平は近づいてくる王双らの前で馬を止めた。何から話せばいいのか、王平は束の間考えた。

 四騎の中の一騎が、王平に近付いて来た。顔の右半分を斬られて人相が変わっているが、間違いなく王双だった。右手に、剣が引き抜かれていた。話す前にやらなければならないことがある。王双が無言でそう言っていた。

 王平は軽く馬腹を蹴り、剣を抜いた。腿だけで馬を操る王双の姿が、幾つも息をする間もなく迫って来る。馬が止められる気配はない。こちらの馬も、既に駆け足になっている。

 剣が交叉し、昨日まで戦場だった原野に力のぶつかり合いが鳴り響いた。王平は打ち負け、馬上で体をよろめかせた。

 馳せ違った王双が手綱も使わず器用に馬首を巡らせた。左腕と右目を失くしているだけでなく、体中に傷の痕があった。十年前の王双とは全く違う王双が、こちらを睨みつけていた。

「あんたは今まで、一体どこで何をしていたのだ」

 王双の大喝が虚空に弾け、その場の空気を切り裂いた。王平は腹に力を籠めてそれを受け止め、背を向けてしまいたくなる惰弱な心を抑えつけた。

「俺は、死ぬわけにはいかなかった。仕方無かったんだ」

 便利な言葉だった。しかし、逃げ口上に過ぎないことはわかっている。仕方の無いことを、そうでないものにするための努力を、自分は何かしてきたのか。

 王双が、王平の言葉を拒否するように、剣を構え直した。王平もそれに釣られて垂らしていた剣を肩の高さにまで上げた。

 王双についてきていた三人は、その様子を遠巻きにして見ていた。後ろからは、異変を見て取った蜀兵が足音を立てて近づいてきている。

「こんなことでしか語り合えないのかな、俺らは」

「これで十分だという気がするぞ、隊長殿。大事なものを捨てた男と、心を開いて語り合うことなどない」

 気圧された。攻城戦で敵味方に分かれて争っていたとはいえ、顔を合わせれば昔のように語り合えると思っていた。

 甘かった。王双は怒っていた。

「隊長殿の十年がどんなものだったか、この身で確かめてやろう」

「再会した早々、生意気なことを言う。お前に俺のことなど何が分かるというのだ」

「分からん。そんなことは分かりたくもない。分かっているのは、隊長殿が俺らのことを捨てたということだけだ」

「何が」

 言い返せない分だけ頭がかっとなった。

 王双が馬を駆けさせる。王平も一拍子遅れて馬腹を蹴った。やり合おう。天空に向かって掲げられた王双の剣が言っていた。

 頭が熱くなったとはいえ、王双を殺してやりたいわけではない。こんな戦いは望んでいない。もういっそのこと背後から来ている蜀兵の中に逃げ込んでやろうか。その迷いがよぎった時にはもう斬撃がきていた。

 王平は剣で受けたが受けきれず、額を割られた。血が流れ、王平の右目が塞がれた。もう少しで頭蓋を割られていた。こんな一騎打ちを諸葛亮が目にしたら激怒することだろう。

 互いに馬を返し、また馳せ違った。剣と剣が弾ける。視界が不十分で力を出し切れないと思った。しかしそれは王双も同じで、左腕さえないのだ。戦いの最中だというのに、こんな言い訳をいつからするようになったのか。

 また、王双が来る。剣を受けた腕がしびれていた。それでも王平は、向かってくる王双に剣を振った。右腕が飛ばされたかと思った。まだついている。飛ばされたのは、剣であった。

 王双。振り返ると、もう馬に勢いをつけている。彫像の様に身を崩すことのない王双が馬上で剣を掲げている。こちらの手には、武器すら無い。奪られる。そう思うと、様々なことが思い返されてきた。王双と辟邪隊を作ったこと。王歓と慈しみ合ったこと。定軍山陥落後の、死んだように生きていた時のこと。小さくなった思い出が、唐突に大きくなったような気がした。小さくなったと思っていたことは、自ら小さくしようとしていただけなのか。

 傷だらけの王双が目の前にいる。こんな体になってまで、お前は何故戦おうとするのだ。お前が戦うことで守ろうとしているものは何なのだ。自分にもかつてそんなものがあったような気がする。それは目の前に迫る王双が持つものと、同じものだった。

 王平は、左手でもう一本の剣を引き抜いた。左手で長い剣を遣ったことはない。

 来る。王平は剣を前に出した。これでは受けるに十分な力を出しきれない。死ぬ。ふと、王双の剣に少しだけ血が付いているのが見えた。あれは、自分の額を斬った時の血か。なんとなく、そう思った。


 城門を出てから何を言うべきか考え、幾つかの言葉を頭の中に用意しておいた。しかし王平を前にするとその全てが吹き飛び、感情に任せて馬を疾駆させていた。

 王平も剣を抜いていた。

 初めて会った日に殴り合いの喧嘩をした。そして、わかり合えた。衛兵に怒られたことも含め、それは良い思い出だった。あれをもう一度やりたい。

 一合目。剣と剣が重なり、火花が散った。重い一撃だった。

 久しぶりに聞いた王平の声は、昔のままだった。自分の声は王平にどう聞こえているのだろうか。

 会話の内容はほとんど頭に入ってこなかった。ずっと会いたかった男が手の届くところにいる。言いたいことはたくさんあったのに、あまり言葉は出てこなかった。それよりも、馬を駆けさせていた。

 二合目。頭の薄皮一枚だけを斬った。馬を返した王平の頭が血に濡れていた。手を抜いたわけではない。薄皮一枚しか斬れなかったのは、王平に対する、いくら拭っても拭いきれない特別な想いがあるからだ。

 背後の王訓は、何を思ってこれを見ているのだろうか。

 四合目で、剣を飛ばした。首を飛ばせたと思えたが、やはりできなかった。ここまでしておいて何を迷っているのだ。自嘲のようなものがこみ上げてきて、王双は大きく息をついた。

 蜀の陣営から、兵士が殺到してきていた。打ち合えるのは、あと一合か。

 王平が左手で剣を抜いた。王双は馬を疾駆させた。この程度で腕が使えなくなるようで、王訓を守ることができるのか。

 もう死ぬ覚悟はできている。ここで王平を討ったとしても、蜀兵に捕えられて首を落とされてしまうだろう。その前に全てを吐き出しておきたかった。

 死ぬことよりも苦しいことは、今までにたくさんあったという気がする。妹が死んだ時が、一番辛かった。王訓を育てるのだと思い定めることで生き続けてきた。定軍山で死んでいれば楽だったのにと思ったことは、数え切れずあった。

 籠城中、王平に対し本気で敵意を持ったことはない。斬り合いをしている今でも、それは変わらない。それどころか、今でも無二の友だと思っている。向こうはそう思ってくれていないかもしれないが。

 その王平を、斬る。理由は上手く言葉で説明できそうにない。言葉では説明しきれない何かが、王双の胸の中にはあった。

 王平が左腕で剣を上げた。

 王双は、振り上げた剣に力を籠めた。もう何も考えることはない。言葉で説明できない何かを、右腕に籠めた。今度こそ、間違いなく斬れる。血に濡れた王平の顔が、王双の右腕と剣に向けられていた。

 右が、見えなかった。振り下ろしたはずの剣は下りてこず、代わりに王双の体が馬上から落ちていた。地面に叩きつけられ立ち上がろうとしたが、上手くできなかった。数歩先には、斬り飛ばされた自分の右腕が剣と共に落ちていた。周りは既に蜀の騎兵隊に囲まれている。

 右肩の先から血が噴き出ていた。その王双に、若い将校が近づいてきた。俺の右腕を斬り飛ばしたのはお前か。これではもう、白翠の体を抱いてやれないではないか。

「趙統という」

 若い将校が言った。聞いたことのある名だと、王双は思った。

「趙雲の子か」

「そうだ」

 趙統は短く答え、両腕を失くした王双の頭を掴んで引き起こした。その顔は、怒りに満ちていた。

「父の仇」

 王双は膝立ちにさせられ、趙統が剣を構えた。

 王双はふと、どこかで趙統の顔を見たことがあると思った。趙雲の幕舎にいた、朴胡を討った男だ。それが分かったからと言って、どうなるものでもなかった。俺は、ここで死ぬのだ。王双は静かに目を閉じた。

「待て」

 暗くなった視界の向こうに、王平の声が聞こえた。王双は、それで目を開けた。

「少し、この男と話をさせてくれ」

 趙統は不満そうな顔をしながらも、剣を下ろした。

 馬から下りた王平が近付いてきて、血を噴き出している右腕に千切った軍袍をきつく巻きつけて縛った。

「おいっ、離せ」

 蜀兵の人垣の向こうから声が聞こえた。陳倉城から付いてきた三人だ。王生の腕が、王訓の体を守るように抱いている。

「離してやれ」

 王平が言うと、三人と王訓が人垣の中に入ってきた。王双と王平の前に、まだ成長しきっていない王訓の体が下ろされた。

「隊長殿、その子が誰だかわかるか」

 王双は王訓の方に顎を向けながら言った。ようやくこの時が来た。川に流したたくさんの言葉が、この子に叶いますように。妹が願っていたことだった。ただ落馬した時に打ち付けた横っ面が、少し痛くて煩わしい。

「あんたの子だよ」

 王訓のことを見ていた王平の顔が、はっとなった。

「歓は、どうしたのだ」

「死んだよ、十年前に。王訓を生んで、すぐに死んだ」

 王平が狼狽するのが、はっきりと分かった。狼狽するということは、少しは気にかけてくれていたということか。それだけで、王双の心は幾らか軽くなった。

 右腕まで失い血を流し続ける王双を前にして、王訓は奥歯を鳴らして顔面を蒼白にさせていた。

「叔父上、腕が」

「泣くな、訓。このようなことで、男は泣いてはならんのだ。一本しかなかったものが無くなったというだけのことだ」

「何故、叔父上にこんなことをするのですか。叔父上は、友に会いに来ただけなのに」

「黙れ」

 王双が叫び、王訓が体をびくりとさせた。

「女々しいことを、男が言うものではない」

 王訓は泣くのをぐっと堪え、それでも堪えきれずに大粒の涙を零し始めた。

「隊長をこんな目に合わせるとは、酷いことをしやがる。俺らはあんたに、あんたの子供を返しにきただけだというのに」

 王生の後ろにいた一人が言った。

「そのことには、礼を言う。お前らは、名をなんと言うのだ」

 そう言う王平の姿に軍人らしい冷静さはなく、何とか喋れているというふうに見えた。

「隊長、俺らは先にいきます」

 王生が王平の言葉を無視して言った。そして剣を抜き、刃を自分の首筋に当てた。

「俺らの隊長殿の勝ちだな」

 そう言って、剣を引いた。首から血が噴き出し、王生は倒れた。後ろの二人もそれに続いて首を掻き切り、二つか三つ瞬く間に親しかった三人の顔から生の色が消えていった。

 馬鹿野郎。王双は口の中で呟いた。

「どういうつもりなのだ、王双」

 王平が言った。

「どうもこうも、あんたに子を届けに来たんだよ。それは、死んだ妹の望みだった」

 目が乾いて霞んできた。少し血を失い過ぎたのかもしれない。しかし不思議と痛みはない。前と同じで、落ちた右腕がまだあるかのように熱いだけだ。

「王平殿」

 趙統が前に出てきた。首を切って死んだ三人には、何の興味もないという顔をしていた。そんなものだろう、と王双は思った。

「首を、落とします」

 何かを言おうとした王平が、口を噤んだ。この中にも、軍監のような者がいるのかもしれない。

「思い悩むことはないぞ、隊長殿。俺はここに、死にに来たのだ。俺の役目は、もう終わったのだからな」

 王平が血で赤くなった顔を歪ませ、頭を抱えた。悩んでいる。悩み苦しめばいい。王双はそんな意地の悪い気持ちになっていた。

 王双の隣で、趙統が剣を構えた。

「何か、言っておくことはないか」

 はっと顔を上げた王平の一言で、趙統が振り上げた剣を止めた。

「言いたいことか、そうだな。長安の若い軍人が使っている宿に、白翠という女がいる。長安に攻め込んでも、その女には手を出さないで欲しい。俺の女だ」

 王平が頷いた。二度、三度と、赤くなる目で頷いていた。

「おい、小僧」

 趙統の方を向いて言った。

「お前の親父、強かったぜ」

 剣が下りてきた。金属が合う音がした。見ると、王平が趙統の剣を弾き飛ばしていた。そしてそのまま王平は、返す刃を王双の首に落とした。

 空と、歪んだ王平の顔が反転した。王訓が何か叫んでいる。何も心配することはない。お前の親父は、立派な男だ。

 落馬した時に打った頭を、また地面で打った。しかしもう痛みはない。何も無い。

 ようやく、心から休める時が来たのだ。


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