表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
王平伝演義  作者: 阿雄太朗
陳倉の戦い
40/140

追撃

 波が引くように、蜀軍の兵が城の周りから退いていく。

 勝ったのだ。ここ十日程ほとんど休まず防戦を続けていた王双の体から、一気に力が抜けた。周りの兵たちも、張りつめていたものが切れたかのように、その場に腰を下ろしていた。

 誰も彼も心身ともに疲れ切って喜ぶ気力すら湧いてこない。もし蜀軍が取って返して今一度攻めてくれば、陳倉城はたちまち落ちてしまうだろう。もしそうなれば諦めて負けてやればいい。十分に戦い精根尽きて腰を下ろした兵にもう一度戦えと号令しても、もう動きそうもない。

 幸いにも、城頭で蜀軍を見張る兵が鐘を鳴らすことはなかった。

 王双の手近なところに腰を落ち着け、兵に声をかけて回ろうかと思案していると、自然と眠りに落ちていた。

 見覚えのある大きな影が、光に向かってどんどん小さくなっていく。王双は追いかけ、遠ざかろうとする影に左手をかけてこちらに引き戻そうとした。左腕があることに疑問も持たず、ぐっと力を入れると、左腕は音も痛みも無く王双の体から離れていき、影と一緒に光の中に塗り潰されていった。

 どこからか妹の声が聞こえる。光の中には河があり、幾つもの葉の船が浮かんでいる。声はその中の一つから聞こえていた。

 葉の船たちは川の流れに任せて流れ、中には波に飲まれていくものもあり、声は小さなものになっていく。

 視界の右側に何か眩しいものがある。王双はそれで右目を失っていたことに気付いた。まだある右腕を掲げてみると、その掌には丸く輝く光があった。眩しいが、目に痛くはない。俺は傷つきながらも、これを守るために生きてきたのだ。

 目が覚めた。寝ている間に廂の陰が動き、陽の光が王双の顔に降り注いでいた。

 短い夢の中で、かなり長く時を過ごしたという気がする。夢の内容は思い返しても、どうしても上手く思い出せなかった。そう思ったのも束の間、王双は飛び起きた。蜀軍は、どうなったのか。

 心配は杞憂だったようで、城内は静謐としていた。俺達は、勝ったのだ。改めてそう思った。

 城壁に登ってみると、日暮れの商店のように閑散となった蜀軍の殿軍が見えた。四万の大軍であり、全てが撤退するのにはもう少し時間がかかるようだ。

「よく勝てたな」

 後ろから、声をかけられた。振り向くと郭奕の顔が不敵に笑っていた。この妙な男も、戦に勝てば嬉しいようだ。

「ようやく俺の部下が外に出ることができた。張郃殿の三万がもうすぐここに到着されるらしい」

「何、もう来たのか」

「速いな、あの方が率いる軍は」

「あと五日は防戦せねばならないかと思っていた。とにかく、ぎりぎりだったな。冷静になって考えてみると、あと一日だって戦えなかったという気がする」

「俺の隊は戦闘要員ではないから、後ろでずっとお前らの戦いっぷりを見ていた。いつ落とされるかとひやひやしていたぞ」

 こんな憎まれ口を叩く郭奕も、蜀軍の隠密部隊が城内に入りこんでこないか常に目を光らせていたはずだ。それはそれで厳しい戦だったのだろう。

 城壁から外を眺めると、矢が突き立った蜀兵の死体がたくさん転がっていた。そこに野鳥が群がり屍肉の掃除を始めている。勝ったとはいえ、あまり気持ちの良い光景ではなかった。

 死体が転がる城外のさらに向こうに、蜀の殿軍がいる。王の旗。一軍の殿を任されるほどになったとは、さすがは隊長殿ではないか。

 兵たちの間からは、撤退していく蜀軍への罵詈雑言が不思議なほどに湧いてこない。それぞれが、仕事を終えた男の顔をしていた。傷を負い、死んだ者も少なくないが、終わった戦に嘆いている者は一人としていない。

 長安を守りたかった。魏の軍人だったからではない。好きな女がいた。自分の力で守るべき、大切な女だった。

 王訓だってそうだ。死んだ妹と、友であった王平が残した、掛け替えのない子だった。王訓がどうしているか、ふと気になった。今頃は疲れ果てて厨房の片隅で鼾でもかいているのだろうか。

 まだ、守るべきものがもう一つあった。

 川に流したたくさんの言葉が、この子に叶いますように。妹が言っていたその言葉が王双の頭の中から消えたことはない。悲しみの中で死んでいった妹の心。それは今まで王双が生きる力の糧となっていたものだ。

 このまま長安に帰れば、また幸福な日々はやってくる。だがそれは、自分を騙しながら生きていくことになりはしまいか。王訓と白翠の前に偽りの姿を晒し続けるということになりはしまいか。誤魔化しの中で得られる幸福に、一体どれほどの価値があるというのか。

 また城外を見てみると、彼方で王の旗が揺れていた。

 長い年月をかけて、ようやく辿り着いた。それは放っておけば、あっと言う間に流れていってしまうものだ。

 王双は王訓を探しに厨房の方へと足を運んだ。しかし、厨房にはいなかった。そこで働いていた者に聞くと、酒を持って疲れ果てている兵に配っているのだと言われた。

 しばらく探して歩いていると、王訓が昔の部下達に囲まれて談笑しているのを見つけた。

 王双は困った。できれば、王訓が一人でいる方が良かった。王双はさりげなく談笑の輪の中に入り、王訓の手から酒を一杯もらった。

「訓、ちょっといいか」

「はい、なんでしょうか」

 王双は王訓に小さく耳打ちし、その場から離れようとした。

「どこに行かれるのですか」

 王生に言われ、王双はぎくりとした。

「ちょっとな」

「いかれるのですか」

 王双はたじろいだ。王生の目が全てを見透かすようにこちらを見ている。

「お前には、関係のないことだ」

 王双は王生のことを睨んで言った。睨んだが、凄みを出せていないことは自分でもわかった。ここで頑として王生を拒絶できるほど、王双の心は冷徹には出来ていなかった。

「俺も、行きます」

 王生が言い、立ち上がった。すると、周りにいた十数人も立ち上がった。誰も彼もが軍人を辞める前に率いていた部下たちだ。

「お前、喋ったのか」

「喋れば、隊長が困るとは思いました。しかし喋らなければ、ここにいる全員が困ることになりました」

「お前らは連れていかん。ここに残れ」

「いえ、いかせてください」

「上官の言うことが聞けんのか」

「恐れながら、退役された隊長殿は、もう我々の上官ではありません。これは男と男として言っていることです」

 王双は何も言い返すことができなかった。隣では、王訓が何のことやら分からないという顔をしている。

「分かった。ならば、どこまでも俺に付いて来い」

 そこにいた全ての兵がはっと声を上げた。

「ここで一刻待つ。お前らは、他について来たいという馬鹿どもを集めて来い。抜け駆けをすれば、恨まれてしまうからな」

 一斉に返事をし、十数人が散って行った。全員が散ったのを確認すると、王双は厩に向かって王訓と共に走った。あいつらは、巻き添えにすべきではないのだ。

 厩に着くと、三人が待っていた。この前、王訓のことを語った三人だ。

「こんなことだろうと思いました」

「戻れ」

「戻りません」

「これは俺と訓のことで、お前らには関係のないことだ」

「早くしないと、他の奴らも来てしまいますよ」

「なら勝手にしろ」

 どうしようもない奴らだと思った。王双は素早く馬に鞍を乗せて厩を出た。王生の言う通り、早くしないと他の奴らも来てしまう。

「王訓は、こちらへ。片腕だと乗りにくいでしょう」

「叔父上。これはどういうことなのですか」

 部下の一人に抱え上げられながら、王訓が言った。王双は少し迷った。しかし、ちゃんと言っておくべきことだった。

「敵陣の中に、お前の父がいたのだ。お前の父であり、俺の友だ。俺達はこれから、お前の父に会いに行く」

 父と聞いて王訓は顔を驚かせていた。王訓がさらに何か聞いてこようとするが、細かい話をしている暇はない。

 馬に乗り、駆けた。門衛には偵察に行くと言って門を開けさせた。すぐに帰って来るから自分が戻るまで誰が来ようと門を開けるな、ときつく言っておいた。

 門を出ると、城頭から見えていた旗は見えなかった。しかし見えていた方向に馬を飛ばせば、まだ遠くない所にいるはずだ。

 蜀軍に近付けば敵将として捕えられ、首を落とされてしまう。しかしそんなことはどうでもいい。叶えてやりたかった妹の願いがすぐそこにあるのだ。

 すまん、白翠。

 王双の頭の中には、派手な髪飾りをつけた、妹によく似た女の姿が浮かんでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ