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王平伝演義  作者: 阿雄太朗
陳倉の戦い
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撤兵

 信じられないほどの堅城であった。堀に積み上げた兵糧を足場にして、土塁を乗り越え城壁に取りつくも、最後は熱された油をかけられ撃退された。城門を破るための衝車もあるが、堀と土塁が邪魔で使いものにならなかった。

 陳倉に来てから既に十七日が経っている。兵を交代させながら、昼夜休むことなく攻め続けているというのに未だ落とせず、矢と油の雨によって蜀軍は損害を重ねるばかりだった。

 予定通りなら蜀軍はもう長安に到着していたはずだ。ここに少しの兵を残して軍を進めるという選択肢は、諸葛亮の頭にはないようだ。こんな小城も落とせなければ士気に関わるというのがその理由で、それを聞いた魏延は頭が熱くなっているだけだと諦めがてらに吐き捨てていた。

 兵の顔には疲労が色濃く出始めている。

「今回も負けかな」

 軍営にふらりとやってきた句扶にぼそりと言った。軍が交戦状態に入れば、句扶の間諜部隊はいくらか暇になる。

「趙広が敵城への侵入を試み、失敗しました。私は反対したのですが、陳倉城には趙雲殿を討った者がいるらしく、珍しく譲りませんでした」

「王双といったか」

「よく御存じで」

 王平はその場に腰を下ろして石を拾い、幕舎を囲む柵に向かい投げた。木の柱に当たり、小気味の良い音を立てて石が落ちた。行軍中は、こうして野にいる兎に礫を放って捕ったりする。

 王平は二度、三度と石を拾って投げた。全てが同じ箇所に命中した。二人にとっては特に凄いことではなく、傍にいた句扶は黙ってそれを見ていた。

「あの王双という者とは、同じ隊にいて働いたことがある。まだ、俺が洛陽にいた時の話だ」

 句扶は身じろぎ一つせずに聞いている。

「俺はあいつの妹を娶り、子を生した。しかし俺は定軍山で捕えられ、洛陽に帰ることができなくなった」

 句扶は何の反応も示さない。そして王平はそれを不満に思わない。感情の無い影に向かって喋っているようなものだった。それは句扶の影でなく、自分の生き様が色濃く落としている影だ。

 四つ目の石を投げた。しかしそれは柱からはずれ、暗い虚空へと消えていった。

「蜀の捕虜となった時、俺は何度も死ぬことを考えた。いずれ洛陽へと戻り、妻子にもう一度会うのだと思い定めることで、まだ生きてみようという気になれた。だが時が経つと共にその思いは薄れ、王双が目の前に現れたというのに俺は兵を指揮してあいつと戦っている」

 王平は首を回した。影だと思って話しかけていたものは、ちゃんと句扶の姿形をしていた。

「そういう巡り合わせだったのでしょう。残酷なようですが、それが人の世であるのだと、私は思います」

「何故戦っているのか。俺が戦わなければならない理由は、他のどこかにあるのではないだろうか。我ながら女々しい疑問だとは思うのだが」

 麻が欲しい、と王平は珍しく思った。蔣琬と共に吸った麻がいい。それは思うだけで、趙広が勧めてきた酒ですら断っていた。こんな戦など早く終わってしまえばいい。

 妻と子に会いたかっただけだ。その想いは少しずつずれていき、長い時をかけて大きなずれとなってしまい、王平から戦うことの意味を薄れさせていた。

「すまん、句扶。愚痴ってしまったな。今のことは、忘れてくれ」

 いつも冷徹な句扶の顔が、少し動いた気がした。

「兄者は、変わられたと思っていました。自分の気持ちを隠し続け、今では隠したものが自身の姿になっておられます。しかし今の話を聞いて、兄者は根本では何も変わっていなかったのだという気がしました」

 確かに隠し続けてきた。隠し続けることで生き延びてきた。隠すことを拒んだ夏候栄は、定軍山で命を落とした。どちらの生き方が正しいのか、わからない。いや、自分の生き方が間違っていたのだと、認めたくないだけなのかもしれない。

 様々な想いを胸に眠り、目が覚めると、昨日と同じ様に戦があった。自分にとって何のためにあるのか分からない戦だった。

 城からは相も変わらずうんざりするほどの矢が降ってきていて、兵糧を足場に堀を乗り越えようとする兵が犠牲になっていく。盾を前にしていようと完全に防げるものではなく、死ななくとも腕や足に矢を受けて負傷する者が日に日に増えていった。

 堀を越えても、次の土塁でまた矢を受け、ようやく城壁に取りついたかと思うと熱された油を上からかけられた。

 魏軍はその過少な兵力を、あり余ると言っていい程の物量で補っていた。矢の量といい、油といい、防備は完璧にされていたのだ。それは魏という国の底力であり、魏兵の必ず勝つのだという強い意志の表れでもある。王平とは違いあの城に籠っている兵たちは、明確に戦う理由を持っていた。

 昼夜休まず攻めるようになってから、王平は日に四刻ほど眠った。その間の指揮は劉敏に任せている。目覚める度に、負傷兵が増えていた。こんなことで長安を落とせるのか。そう考えているのは、王平だけではないだろう。また負けるのかという空気が、蜀軍内に漂い始めていた。

 城壁の上で兵を指揮する王双の姿は、何度か見た。暗闇の中にいるその隻腕の男は影でしか分からなかったが、それは確かに王双であった。恐らく、王双もこちらの存在に気付いている。かと言って、二人の間に何かがあるわけではない。互いにただ黙々と、一人の指揮官として戦っていた。

 さらに数日が経ち、全軍に撤退の命令が下された。長安に張郃率いる三万が到着し、こちらに向かっているのだという。さすがに速いと思えた。諸葛亮は、あと十日は余裕があると見ていた節がある。

 また負けたという悔しさよりも、ようやく帰れるという安堵の方が大きかった。それは、兵たちも同じだ。洛陽に帰りたいと思っていた昔の自分が、まるで嘘のようだった。時の流れは残酷なほどに人の心を風化させてしまう。洛陽に残してきた想いを追うより、目前にあるどう足掻いても崩すことのできない障壁から離れてしまいたかった。それがおかしなことだとは思わない。それも、人の姿の一つではないか。

 撤退は、怪我人から優先して始められた。堀に積み上げられた兵糧は、放棄するのだという。もしかしたら、撤退をしなければならなくなったのは、この兵糧にあるのかもしれない。

 またあの寒い山越えをしなければならないのかと考えていると、殿軍になれという命令が届けられた。撤退中に張郃軍が到着すれば、またあの軍と交戦しなければならない。そのことを考えると、王平はうんざりした。

王平の他に、鄧芝の補佐を受ける趙統が殿軍に選ばれた。何故魏延でなく、趙統なのだ。これは調練ではなく、実戦なのだ。その人選にも王平は不満であった。普段は抱くことのない不満だ。蜀に帰ることが決まり、安堵する一方で、心の一部が大きく乱れていた。

 陳倉城の囲みが解かれ、味方の兵が来た道を帰って行く。きっと陳倉城内では、守兵達が歓喜していることであろう。四千の兵で、十倍の敵を退けたのだ。

 王平はふと背後を振り返り、陳倉城を見た。昨日までの激しい戦とはうって変わり、その城は地面に貼りついたようにひっそりとしていた。城内の兵は、喜ぶ力すら使い果たしてしまっているのかもしれない。この時を突けば、落とせるのではないか。そんなことも頭によぎったが、余計なことは考えまいと頭から払った。

 離れていく陳倉城が、どんどんと小さなものになっていく。それは王平にとって、王双から、そして昔の思い出から、離れていくということだった。

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