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王平伝演義  作者: 阿雄太朗
親子の心
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郭淮と諸葛亮

 通り過ぎていく街道に、緑がちらほら見えてきた。馬上で受ける風はまだ寒い。

 郭淮は二万の中軍にいて、西へと向かって進んでいた。魏領に侵攻してきた蜀軍を迎え撃つためだ。

 蜀が何を考えているのか、郭淮にはよく理解できないでいた。戦は多くの富を消費する。二度の敗戦を経て、蜀が失ったものは決して小さくなかったはずだ。それでもまだ戦を続けようというのはどういう了見なのか。

 長安に残る曹真から命じられたことは、蜀軍を長安に近付かせるなということだった。

 今回の蜀軍は西雍州へと侵入していて、一息で長安まで来るという感じではない。二度の敗戦後の蜀軍の財政を考えれば、一息で長安まで辿り着くことはできないはずだ。

 蜀軍を叩き潰すための戦ではない。陳倉で郝昭がそうしたように、守りを堅くして足止めできればそれでいい。

 激しい消耗戦を強いられるわけにはいかない。魏も蜀ほどではないにしろ、蜀と呉を相手にした連戦で疲弊しているのだ。魏軍の中で最強を誇る張郃軍も、呉の進攻を警戒して中央へと帰還している。

 長安を死守できれば、西方の辺境の地などくれてやればいい。そこまで本気になって防衛しようとすれば、かなりの戦費がかかってしまう。それならば、西雍州は蜀との緩衝地帯と見做し、そこで止める。どうせ西雍州から上がる税などたかが知れている。魏領に踏み込んでくれば、踏み込んだ分だけ蜀軍の兵站は辛くなるはずだ。

 長安から西方五百里の陳倉を過ぎた。前回の戦場がここだった。郝昭が文字通り心血を注いで築き上げた小城が十倍の兵力である蜀軍の侵攻を阻んだ。陳倉を守り切った郝昭は、張郃が到着した時には眠るようにして死んでいたのだという。王双も気が狂ったのか、たった数騎で撤退する蜀軍に追撃をかけ、討たれていた。

 蜀軍が西方の陰平という城郭に入ったという報を得た。さらにその北の武都へと軍を進める構えを見せている。この辺りで止めておくべきだろう。

 敵の総勢は、四万。成都の三万を主力とし、北からは羌族の一万が南下し始めている。羌族に紛れ込ませた間者によると、この一万の士気はすこぶる低いらしい。だとしたら、敵の実質は三万。郭淮に与えられた使命は、敵を打ち破ることではなく、足止めをすることで蜀を疲弊させることだ。戦い方さえ間違えなければ、二万の兵力でそれをやりきる自信はある。

 郭淮は、武都から二百里北にある天水の城郭に二万と共に入った。ここから先はもう、蜀軍に奪らせるわけにはいかない。

「全輜重を城内に収容しました」

 夏侯覇が報告に来た。本営とした、天水城内の軍営である。郭淮は卓上に置かれた地図を睨みながら、入ってきた夏侯覇を軽く一瞥した。

 郭淮はこの若い将校があまり好きではなかった。夏侯覇は他の将校とは違い、何かにつけて自分の意見を挟んでくる。部下は上官の命令に黙って従うものだというのが郭淮の考えで、夏侯覇のように意見してくる部下にはいちいち腹が立ってしまう。どうしても、張郃にかわいがられている思い上がり者、という思いが先に立ってしまうのだ。

「武都に、二万。その後方に後詰の一万ですか。野戦にはなりそうですか」

 夏侯覇も無遠慮に卓上の地図を覗きこんできて、郭淮は眉をしかめさせた。

「蜀軍の出方次第だな。北西には、羌族の一万も出てきている」

 出過ぎている。そう怒鳴ってやりたくなるのを抑えながら、郭淮は答えた。

「野戦になれば、是非私に先鋒をやらせて下さい」

「相手の出方次第だと言っている。あまり気負うんじゃない。お前の働き場があれば、存分に働かせてやる」

「はい」

 夏侯覇はもう言うことはないとばかりに一礼して退出していった。

 なんだあいつは、と思いながらも頭を切り替え、様々な戦の想定を始めた。

 北西の羌軍一万に大きな脅威はない。ほんの二年前まで魏に従っていた者達で、戦の帰趨でどちらにでも転ぶような烏合の衆だ。郭淮はその中にいる知己に密使を飛ばし、羌軍の中にありながら密かに魏軍に協力すれば、それなりの褒美を与えると伝えておいた。

 北西の羌軍を無視できるとなれば、敵は武都に駐屯する蜀軍のみだ。天水で防備を固めて対峙を続ければ、蜀はいたずらに軍費を消耗することになる。それは魏軍も同じだが、蜀とは軍費の豊かさが違う。こうして干戈を交えることなく蜀を消耗させることも、取るべき戦略の一つだった。

 両軍が天水と武都で対峙し始めて、一月が経過した。武都の二万と後詰一万の蜀軍は動きを見せず、北西の羌軍一万もまた動かなかった。郭淮も天水の二万を動かさず、絶えず斥候を出して状況の変化を見逃さないよう努めた。

 本営の郭淮の居室に、夏侯覇が入ってきた。

「なんだ。野戦はまだやらんぞ」

 郭淮は夏侯覇の顔を睨み据えながら言った。長い滞陣が続けば、野戦をやりたがる者は出てくる。夏侯覇もその一人だと郭淮は見ていた。

「いや、そういうことではないのですが」

 いきなり釘を刺された夏侯覇は、困った顔をしながら言った。

「このようなものが、城内に撒かれていました」

 夏侯覇の手にある木片には、郭淮に対する誹謗中傷が書かれてあった。

 城に籠ったまま動かないのは腰抜けだ。長安軍は玉無しによって指揮されている。

 蜀軍による揺さぶりだ。見え透いた手ではあるが、物を知らない雑兵はこんなものでも真に受けたりする。

「こんなつまらんものを、わざわざ見せに来たのか」

 郭淮は卓を蹴り飛ばして立ち上がった。

「雑兵の心を掌握しておくのはお前の仕事ではないか」

 怒鳴られた夏侯覇は微塵もたじろがない。流石にそこは胆の据わった軍人だ。そんな夏侯覇を前にして、郭淮は気勢を吐きながらも一人で大きな声を出している自分が少し恥ずかしくなった。

「落ち着いて下さい。私は野戦をしたいと思っていますが、今はまだその時ではないとも思っております。城から出て散々に破られた蜀の愚将のことを、私は忘れておりません」

 こういう小賢しい物言いも、郭淮の好むところではない。

「この手の中傷は、実は十日程前からありました。郭淮殿の耳に入れることもないだろうと思い無視していましたが、段々と看過できなくなってきました」

 郭淮は大きく息をつき、腕を組んで椅子に座り直した。夏侯覇のような若造に諌められている自分に対しても、苛立った。

「これは、敵の計略だ」

「私も、そう思います」

「お前の意見など聞いていない」

「申し訳ありません」

 郭淮は、もう一つ息をついた。

「よく知らせてくれた。もう行っていいぞ」

 夏侯覇は直立したまま拱手し、退出して行った。

 蹴り飛ばした卓を元の位置に戻し、地図を広げ直した。

 天水城内に、蜀の隠密部隊が入り込んでいる気配はあった。恐らく、元々いた天水の守兵か人夫に紛れ込んでいたのだろう。

 今回の従軍に黒蜘蛛は連れてきておらず、郭淮はそのことを少し悔やんだ。曹真から散々連れて行けと言われていたのを頑なに固辞した。黒蜘蛛を束ねている郭奕は郭淮の親類の一人で、親類の中に男色がいるということを受け入れられなかったからだ。

 しかし、ものは考えようである。郭淮の悪評を流し兵を煽って魏軍を城から誘き出そうというのが諸葛亮の狙いならば、それを逆手に取る策を立てればいい。郭淮はその策を、地図を前にして考えた。敵の目論見さえ見破ることができれば、相手に痛撃を与えてやることができるかもしれない。

 従者を呼び、南への斥候を三倍に増やすように命じた。蜀軍が野戦を誘ってきている。これからは、敵のどんな小さな動きも見逃すことはできない。

 郭淮はふと居室の隅に目をやった。夏侯覇が持ってきた、誹謗中傷の木片が落ちていた。こんなものに心を動かされているのは自分ではないかと思い直し、苦笑した。張郃なら、その通りだと言って笑い飛ばして済ませていたことだろう。この木片を持ってきた者が夏侯覇でなく他の者なら、こんなに苛立つこともなかったろうという気もする。

 敵が何を狙っているのか、郭淮は椅子に座り直し、それだけ考えることに集中した。


 二万の軍勢を武都に入れ、天水に籠る魏軍二万と睨みあっていた。

 敵将は、張郃の副官を務めていた郭淮だ。街亭で、張郃の騎馬隊に気を取られている隙に後方に回りこみ、後方の兵糧集積地を焼いたのがこの将だった。

 武都の後方には残りの一万を置いて後詰としていた。敵の目からはこの一万は、兵糧襲撃への備えに見えているはずだ。

 二度の敗戦を経て、長安を落とすことの難しさを痛感した諸葛亮は、先ず西雍州に足場を築くことにした。

 長安を落とすのなら、魏延が言っていた通りまだ魏の防備が整っていなかった時に、捨身の覚悟で子午道を通って一気に長安を攻めるのが上策だったのかもしれない。結局、蜀軍の侵攻は魏に警戒心を抱かせてしまうだけの結果に終わり、得られたものは長安どころかほとんど無かった。

 それでも諸葛亮は、戦を止めるつもりはない。魏の打倒という建国の初志を失ってしまえば、この蜀という小国は内部から崩壊してしまいかねなかった。劉備から託されたこの国を、そんな形で潰してしまうわけにはいかない。

 今は、一勝が欲しかった。成都の廷臣には北伐に反対する者が少なからずいて、その者達を黙らせるためにも、誰が見ても分かる勝利を収めたかった。このまま負け続ければ北伐を中断せざるを得なくなるだけでなく、蜀内における諸葛亮の立場すら危ういものとなってしまう。権力にしがみつきたいわけではない。蜀をまとめ上げている諸葛亮が失脚してしまえば、箍を失った蜀国は間違いなく分裂崩壊の一途を辿る。それだけはどんな手を使ってでも防がなければならない。

 諸葛亮は連日、天水周辺に潜りこませた趙広からの報告を分析していた。

 西雍州を力で奪い返すつもりはないようで、郭淮は城郭内から一歩も出てこようとはしない。先ずはこれを、城外に釣り出すことだった。

「次は勝つぞ。勝たねばならん」

 諸葛亮は、側にいる姜維に呟くようにして言った。一度目の北伐の時に、天水で降したまだ若い羌族の名士である。羌族への印象を良くするため姜維には官位を与え、身辺の警護を命じていた。それが羌族の目に良いものとして映ったかどうかは定かでないが、羌から一万の兵を引き出すことに成功し、天水の北側にまで迫り出して来ている。相変わらず気勢は上がらぬようだったが、敵に回られるよりは良いと割り切っていた。

 成都の蔣琬は身辺警護を異民族に任せるのに反対しているようだったが、それは無視した。これくらいの危険を負わずして魏との大戦に勝てるはずもない。

「果たして、郭淮は出てきますでしょうか」

「出て来なければ、それでいい。今回の目的は長安を落とすことではないからな。天水に潜りこませた趙広が上手くやってくれるかどうか、我々はここで静かに待っていればいい」

 出て来なくてもいいというのは無論、本心ではない。たとえ局地戦であろうと、蜀軍が勝ったという事実は喉から手が出るほど欲しいのだ。こうも城に籠られてしまえば、勝利どころか戦にすらならない。

 卓上に広げられた地図には、たくさんの印がされてあった。姜維は天水出身ということで、この辺りの大小の丘陵から細やかな間道まで実に詳しく知っていた。卓の地図に印された情報のほとんどは、姜維の知識によるものだ。

「北西の羌軍が動いてくれればな」

 言われて、姜維は申し訳なさそうに俯いた。蜀と羌の結びつきは、姜維を橋渡しとして成されている。長安を占領した暁には、羌族の主だった者に官職を与えるという約束も、姜維を通して伝えてある。

 しかし羌軍の腰は重い。まだ魏と蜀を天秤にかけているのだろう。

「羌軍が動かないのなら、それはそれで使い道がある」

 言って、諸葛亮は一枚の紙片を卓上に出した。

「これは」

 姜維がそれを覗き見た。

「郭淮から、羌軍に送られた密書だ。褒美欲しさに密告してきた者がいる」

 羌の中には、魏を支持する者と、蜀を支持する者がいる。郭淮に協力する者がいれば、諸葛亮に協力する者もいるということだ。

 書面には、羌軍はそのまま動かずにいて欲しいということが書かれてあった。それに対する見返りも記載されてある。

 それを読むと、姜維はまた俯いて身を縮ませた。

「羌族がこのような体たらくで、私は恥ずかしいばかりです」

「そう思うことはない。これは漢族同士の争いで、羌族とは関係のないことだ。蜀と魏の間を上手く立ち回ろうというのは、当然のことではないか」

 そう言っても、やはり姜維は暗い顔をしていた。羌族が曖昧な態度を見せ続けることで、姜維は自分の知らない所で肩身の狭い思いをしているのかもしれない。

「この一万を、動かす」

 言いながら、諸葛亮は地図上の羌軍を扇で指した。

「しかし」

「動かぬと思っているのか」

「恐れながら」

「郭淮も、そう思っていることであろうな」

 諸葛亮が、口元をにやりとさせて言った。

 不意に扉が叩かれ、呼びつけていた楊儀が入ってきた。

「漢中軍から、返事が来ました。五日後に、王平殿が一万を率いて陰平に到着します」

「よろしい。郭淮への返書はどうだ」

「そちらも手抜かりございません」

「兵站に問題はないか」

「ございません」

 報告を簡潔に終わらせた楊儀は拱手して仕事に戻って行った。

 つまらないことは上げてこない優秀な腹心だった。兵站の細かい計算は楊儀に任せることで、諸葛亮は戦略戦術を練ることに専念することができた。

 漢中軍を動員するのに魏延を呼ぼうとしていたところ、王平を起用すべきだと主張してきたのは楊儀だった。王平の方が命令に忠実だというのがその理由だった。

 或いは、楊儀は魏延のことを嫌っている。

 軍政を担当する文官の話をよく聞く者こそ軍を指揮するべきだという考えが楊儀の中に強くあり、それが時に悪い方に出てしまい、魏延と衝突することが今までに何度かあった。

 諸葛亮にも似たようなところがあるため、楊儀のことを表立って非難することはできない。

「勝ちに行くぞ、姜維」

「はい」

 作戦の詳細を聞かされていない姜維は腑に落ちないという顔をしている。頭の中が顔に出るのが姜維のまだ若いところであった。

「お前は、私の周りをしっかりと守っていろ。機があれば、手柄も立てさせてやる」

 手柄と聞き、ようやく姜維の顔に少しだけ喜色が浮かんだ。


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