第四十四話 『時渡し-05』
クロノスの持つ能力とは端的に、時を操る力。
その禁忌にさえ等しい能力を過去二度に渡り酷使し、それは一度につき体内の魔素の約半数をも手放してきている。
時間と共に自然回復する魔力とは違い、身体から失った魔素は元に戻ることもない。
つまるところ、クロノスはその能力の大半を失くしてしまっている。
何か、五感を一つ失くしてしまったような、健全な体感に反する気持ちの悪い感覚だった。
改めて認識するため練った魔力が霧散し、上手く力が入らないような不快感を味わう。
クロノスの掌には、虚しさだけが残った。
アイゼンフォート城、一画。
クロノスが孤独を謳歌するのに適した一室で、思考に浸る。
時を操るこの能力は何のために失われたのか。
君主の偉大なる思考のその末端ほどしか理解が及ばぬ不甲斐なさを噛み砕き、考える。
聖剣を手にする為、というのはあくまでも過程にすぎない。
聖剣を手にした上で、その先にある見返りの方が重要であろう。
無論、聖剣が人間の手に渡ることが脅威足り得る事実であるのは理解できる。
ましてそれが魔族の助力となるのならこの上ない戦力だろう。
だが、聖剣を振るうことが出来る存在はどうあっても人間でしかないのだ。
魔族と人間の相反する種族の差を考慮するのなら、謀反の可能性は捨てきれない。
諸刃の剣となる選択に、果たしてクロノスの能力を賭けるだけの釣り合いは取れていたのか。
もはや手遅れだが、他に有意義な使い道を探してしまうのは、あるいはクロノスの驕りなのだろう。
選ばれた者にしか抜くことも出来ぬ、聖なる剣。
偉大なる彼の王でさえその柄に手が掛かるまで知る由もなかった。
勇者という存在にしかその手に馴染むことも無いだろう。
だからこそ、クロノスの中で大いなる心当たりに結びついてしまう。
「――それがあの子だと言うのですね、レイヴン様……!」
既に死したはずの勇者との、消えることのない因果を背負った少年。
クロノスは少年を想い、憂う。
◆
禍々しい瘴気が噴き出す、だだっ広く、暗い空間。
人払いされたその場所で、今回ばかりは凛々しき家臣の姿もなくクロノスの正面に対峙する。
ただ一人の尊き王――否、それともう一人。
「――知っているかクロノス。勇者とは、魔法による恩恵を色濃く受けることが出来るのだ」
ぶっきらぼうに、それでいて繊細に、小さな赤子を抱きかかえながら君主は言った。
その状況と噛み合わない言葉がクロノスの頭の中で反復する。
産まれて一年にも満たないような赤子と、仰々しい勇者という名の齟齬。
まして人間の子ともなれば彼の魔王が抱きかかえることの違和感は拭えない。
結びつかないはずのその双方を繋げるのは、他でもない『血』である。
赤子の否応もなく、断ち切ることの出来ない血縁という因果がその小さな背に負わされているのだ。
彼が勇者の故郷から連れ帰った、正に勇者の子であるということはクロノスも聞き及んでいる。
既に死した勇者の血を分けた実子が、数奇にも魔王の目に適ったことで魔族に囲まれる不条理。
さながら実の親に抱かれているかのように――精神の部分での縁故などクロノスの知る由もなく――寝息をたてながら落ち着いた様子で魔王の腕に収まっている。
勇者が死したとて、血縁という因果は途絶えることもなく残されている。
いずれ魔族にとって危険分子となり得る可能性がどの程度考慮されているのかさえ知れず、今この場で縊り殺すことさえ容易いはずの小さな命は健やかに育まれている。
勇者の子として生を受けた彼を、魔の王がその手に抱くことの不条理はクロノスの胸を痛めた。
続く主君からの厳命が、よりその激情を加速させる。
「……この子に、時を与えてやってくれ」
時を与える。
クロノスはその解釈に一瞬の戸惑いを示した。
己の才とするその能力をこの赤子に与えよ、と。
尊命通りに言葉を捉えてもクロノスの理解は及ばないまま、されど、そこに抵抗はなかった。
もとより尊大なる主君からの命をないがしろにする気は無いのだが、この状況こそ、クロノスの戸惑いを打ち消す最大の要因となっている。
帝都ユークリッドを陥れて以来、久方ぶりに訪れたこの地。
魔素の奔流たる――かつて魔族の拠点としていた彼の地の玉座の前で、だだっ広い空間を持て余しながら密会するこの状況。
先の主君の発言まで、クロノスがその不条理を受け入れる道理はいくつも散りばめられている。
魔素の奔流たるこの地ならクロノスの能力も存分に発揮することだろう。
主君の至言によれば勇者にはその恩恵が色濃く現れるという。
その相乗効果による結果への期待値はクロノス自身にさえ計り知れない。
――彼が勇者であれば、主君よりの尊命へ応えるだけの条件は充分に揃っている。
血縁という因果に縛られた物心もつかぬ幼子の、運命にさえ触れてしまう禁忌。
当たり前に育まれるはずだった時間を奪うことの背徳を飲み下すのに逡巡を経て、よもや魔の手に墜ちた時点で手遅れであることに納得する。
勇者の子に時を与えたとして、その先の展望は見えぬまま、これ見よがしのように都合の良い状況。
ここで踵を返すことの方が不自然であろう、とクロノスは覚悟を決した。
クロノスの憂いさえ見透かした上、主君は悠然と玉座へ向かう。
そこに座すべき王は手厚く跪き、その身を持て余す赤子をさながら揺りかごにでも寝かしつけるかのように玉座へ置いた。
その光景に言葉を探しても上手く見つけられないまま、されど、静寂がクロノスの為すべき行動を急かすように促している。
魔王の手から離れた赤子の甘えるような泣き声を合図に、クロノスは魔力を練った。
その才を存分に発揮すべく有らん限りに渾身の力を注ぐ。
迷いや葛藤さえ最早捨て去り、ただ、王の意志に近付く為に。
――それが才の半数を手放すことになることも、何処か悟りながら。
「……お下がりくださいレイヴン様。私の魔力の残滓が御身を汚してしまう前に」
「構わん。続けるがいい」
赤子を包む魔力の発光作用が撒き散るように反響する中、玉座の傍らで君主が持て余すその身を睨めつける。
見守っている――という発想に至らないのは、クロノスが関係性を知らない故なのだろう。
光に包まれたか弱き体躯が、徐々に、時の奇跡へと飲まれ加速していく。
やがて慟哭は静かな寝息になり、短い手脚は赤子のそれからかけ離れ、幼さの中に精悍さを携えた顔付きへと変貌する。
次第にクロノスの魔力は収束し、玉座の上に残った残像がはっきりと輪郭を現しだす。
成人と言うには早く、親の手が必要なほどの子供でもない少年の姿。
顔立ちに確かな面影を引き継いだ、見紛うこともなきさっきまで赤子だった彼の成育した姿が現れた。
魔力と集中力の消耗に肩を上下させながら呼吸を整えるクロノスは独りでに罪悪感を噛み殺す。
己の童心の頃すら思い出しながら少年に同情する。
例えば、彼が勇者の子でさえなければ。
想像し得る当たり前の時を育み、魔王の歯牙に掛かることすら無かっただろう。
クロノスは君主より授かった勅命を噛み砕き切れない歯痒さを呪うことしかできなかった。
「……良く、似ているよ。父親の顔に」
魔王として勇者と相対したレイヴンだからこそ、独りごちるように溢れた言葉がその胸中を語っているようだ。
我が子を想う親心とはつゆ知らず、クロノスの耳ではその奥の真意までは捉え切れない。
「この子の名は『フレン』だ。クロノス、世話をしてやってくれ」
ただぶっきらぼうに、悠然と踵を返した君主の吐き捨てるような新たな勅命。
励ますように軽く肩へ置いただけの君主の手に、クロノスは異様な重みを感じた。
今回ばかりはその言葉の意味も噛み砕ける。
それだけに、君主の簡単な口調とはかけ離れた責任の重みがクロノスの頭を更に悩ませた。
時の禁忌に辻褄を合わせただけの手脚。
成育した体躯とは裏腹に、時の力では精神まで干渉することはできない。
本来あるべき常識さえ欠けた無垢な心を、如何に世話をするべきなのか。
まして勇者の子である。
血筋や種族の差、前例のない存在である少年の導き手となる艱難は容易に想像できる。
「……レイヴン様のご期待に添える程の力が、私にあるのでしょうか?」
自分でも意外な言葉が溢れ落ちたことにクロノスは戸惑っている。
君主の前で勅命に背くような弱音。
それだけ、荷の重さを感じているのだろう。
「無論だとも。現に、今――既に応えてくれた」
まごついたクロノスを嘲るように、君主は少年を指し示しながら嘯いた。
少年の存在こそクロノスの功績とするのなら、君主の望みは十分に応えられている。
ならば至高なる御身の配下として、更なる命令を授かる栄華を良しとする他ないのだろう。
割り切れない感情の奥で無理矢理自分を納得させる。
君主より賜る言葉こそ他の何にも代え難い誉れだ。
魔の王に傅く身であるからには、これ以上の尻込みは許されない。
「これ以上多くを望む王を許せ。この大義において、お前の他に適任者は居ないと思っている」
何と狡い言い分か、と。
君主に対して無礼な思考を振り払うように頭を振った。
忠義に付け込むような甘美な言葉が、クロノスの逡巡を強引に捻じ曲げる。
懸念することすら烏滸がましさを覚えさせる絶大な信頼。
最早、余計な思慮も度が過ぎる。
「――確と、承りました」
そう応える他に言葉もない己の語彙が、嫌に心地良い。
無駄な言葉で濁らない素直な感情が偽り無き忠義を自認させる。
この忠義が少年へと向いた時に、どれだけの慈しみになってくれることか。
彼の立場や特異性がその難しさを物語っている。
それでも、複雑な感情を割り切って対峙する。
クロノスは改めて向き合う少年のあどけない無垢な顔に、不思議と芽生えてしまう親心のようなものを感じた。
父性と呼ぶにはまだ未熟な、されど、大任を背負う覚悟とも汲み取れる感情。
それは咎めた良心に罪滅ぼしの意味でしかないのかも知れない。
魔王の慧眼に適う利用価値だけが繋げるか弱き命に、クロノスは独りでに出来得る限りの施しを誓う。
当たり前に育まれるべき時すら奪い、親の顔さえ知らぬ虚しさに、せめてもの救いとして。
君主が少年にどれだけの価値を見出しているのか。
よもや聖剣に選ばれし存在であることを君主が見越していると知るのは、また少し、後の話である。