第三十八話 『不死の乙女-02』
――それは、恋に恋する彼女にとって、初めての恋だったのだろう。
退屈。
彼女が恋に出逢うまで、胸中に付きまとう感情は唯一その一言が支配していた。
何もかもがつまらない。口癖のように呟いたのは、そんな退廃的な言葉だった。
何が彼女の心を廃れさせていたのか。
それについては彼女自身だと答えるのが的確だろう。
彼女の特異な体質こそ、そのあどけない心を徐々に蝕んでいったのだ。
彼女がまだ末端の魔族に過ぎなかった頃、その特異な体質故に生命への執着心が薄れかかっていた。
彼女の得手とするところの特技とは、つまり回復の魔法。
それが彼女の身を救うと同時に、彼女に退屈を与えていた。
魔族として人類を仇敵に闘ってきた傷さえ跡は残さない。
もとより、兼ねてから己の秀美を疑わなかった彼女の性格上、傷跡を厭うのは必然である。
何時しかそれが増長していき、過剰な防衛本能として傷の自動再生という特異な体質へと変貌していたのだ。
無論、彼女の異質と呼べるほどの能力を有してこそ。
そして死や痛みに対するスリルの欠けた日々が彼女に退屈を齎すことになる。
彼女が恋に溺れたのは、その折のことだった――。
「……たかが魔族の小娘に――!」
魔族と人類の戦線。
甲冑を着込んだ兵士が武装する長槍の矛先は一人の少女へと突き立てられていた。
明らかに舐められている。兵士たちがそう自覚するほどに、少女の佇まいはこの戦地においてあまりにも屈託した振る舞いだった。
兵士たちの腕に伝う手応えに反して、少女には傷一つ付いた様子もない。
否、肉を射抜いた先から再生していく生々しい視覚情報は少女の素振りに納得させてしまうだけの理由がある。
その現象をそのまま彼我の実力差とした兵士たちは、忌まわしげに口走ることしか出来なかった。
「――華が、何故美しいか分かる?」
切迫する恐怖を打ち消すほど場違いに間の抜けた問い掛け。
薄く微笑みがかった表情に無垢な言葉が少女のあどけなさを強調する。
「……何?」
「咲き誇る華の凛とした美しさに何故心惹かれてしまうのか、答えは簡単よ」
他愛のない話でも始めるような少女の声ぶりに、誰もが戦地であることを忘れてしまいそうになる。
あるいは、実際に少女自身の頭の中ではそんなことも抜け落ちてしまっているのだろう。
されど戦場において生と死の二つ以外に考える余地を持つことの意味を訓練された兵士たちが失念することはなく、無闇に少女の口車に乗せられることはなかった。
もとより、そこに計略的な企みは端から存在しないことなど知る由もない。
ただ純粋な問い掛けであるが故に思考は巡る。
巡り辿らせ、答えもないまま再び敵として少女と対峙した。
戸惑いに生じた思考の緩急が造る隙が、そのまま命取りになることまで想像できる者がこの中にどれだけ居たことだろうか。
ただ一人として存在しなかったことが、問い掛けの答えに直結していた。
「儚いからよ」
「は?」
「水を与えなければ枯れ、花弁を毟れば散り、茎を手折れば――死ぬ。だから、美しいの」
唐突な質問から主体性もなく語られる。
浮き世離れした口から出る結論に、合点のいった者など存在しない。
「――アナタたちも同じじゃない?」
さながら花弁でも毟るように、茎を手折るかのように、少女は何気なく兵士たちの横を通過していく。
少女の歩いた跡には血飛沫が散り、首を直角に折られた兵士の死体が転がった。
華のように、あまりにも儚く。
屈強な兵士たちの命が容易く潰えていく。
「咲き誇る華は儚く散るから、美しい。私は……死ぬことも出来ない――」
死ぬことも出来ない命に、どれほどの価値があるのか。
少なくとも少女には、道端に咲く華の価値すら見いだせなかった。
故に、退屈なのだ。
「あーあ、死にたい死にたい! こんな何もかもつまらない世界なら死んだ方がマシだわ!」
そして少女は惨劇の中心に居ることすら忘れ憮然とした顔で喚き立てる。
駄々を捏ねる子供のように、戦場という緊張感の欠落した場違いな振る舞いだった。
――その油断が、増幅させたのか。
暫時、少女の背後を圧倒的な気配が襲う。
同時に感じたのは、忘れていたはずの感覚だった。
「……な、なんなの!?」
思わず声を上げて振り返った。
戸惑い、焦り、その延長線上にある感情への心当たりが、少女を更に狼狽えさせた。
背筋を凍らすように、全身の肌が逆立っているのが解る。
忘れていたはずの、欠落していたはずの、恐怖という感情。
死や痛みに対する畏怖を、ただの気配だけで思い出す。
「アレは……あの方は……――!」
遠目から肌を突き刺してくる鋭利な存在感。
傍らに見目良い女を侍らせた、少女が畏怖する気配の持ち主。
無条件の平伏を強要されるような、王たる者の威がそこにある。
初めて目の当たりにした御身の姿に息を呑んだ。
ただそこに存在するだけで後光にすら見える殺気が、少女に感じたこともない快感を与える。
少女の退屈を一瞬で晴らす研ぎ澄まされた殺意だ。
死ねない。
それが自惚れだったということがよく解る。
少女の望む最上級の死が、赤子の手を捻るように簡単に訪れることを彼の王が証明している。
あまりにも隔絶した差が少女の危機感を絶え間なく逆撫でていた。
遠目に戦況を眺めているだけの示威行為、あるいは、本当にただ何気なく立ち寄っただけなのだろう。
そこに君臨しているという行為に意味は無くとも、ただそれだけで圧倒的な恐怖を抱くことしか出来なかった。
「あの方なら……私を……ッ!」
――殺してくれる、と。
青天の霹靂だった。
何をしても退屈の付き纏う暗闇に差し込んだ天空の如き輝き。
死への欲求は何時しか自殺願望に変貌し、彼の王は少女を死へと至らす唯一の存在という偶像へと昇華する。
直視してしまうことに背徳感すら覚えるほど、少女の中に特別な感情が芽生えた。
そしてその崇拝はやがて吊り橋効果的に拗れていくことになる。
衝動のままに、そこに至るまでの努力は惜しむこともなく。
それが恋だという勘違いは留まることなく、少女は死と敬愛の象徴として君主への熱い眼差しを贈り続ける。
◆
普段の装いから気を改め、二つ結びの流麗な碧い髪を解き鏡台に向かう。
深く碧い瞳で捉えた己の顔が酷く緊張しているのが分かった。
もとより、緊張しないというのは無理な話だった。
敬愛の君主に初めて見初められた。
厳密には寝室を訪ねるように言い渡されただけだが、それはつまり、夜伽と捉えて差し支えないだろう。
無論、そのつもりで普段以上に扇情的な衣に身を包んでいる。
状況を鑑みても色事を求められていることは確か。
それが勘違いでなければ、今宵、純潔を捧げる覚悟は出来ていた。
「大丈夫よサファイア。レイヴン様ならきっと、気に入ってくれるはず」
鏡の中の自分に向かって不安を誤魔化すように言い聞かせた。
何時になく色っぽいギャップが敬愛の君主の眼に如何に見えるのか。
精一杯のお洒落を施し、艶やかな気品を身に纏う。
鏡越しでその碧眼に映ったのは、およそサファイアの持てる色気というものの全てを発揮した姿だ。
客観的に見てもそれが不快に映るということはないだろう。
そうであってほしいと願い、紅を差した唇をクッと結んだ。
緊張した面持ちを何とか解そうと両頬を軽く叩く。
痛みの分だけ自己暗示が胸に染み入る。
「よし! 恐れなんて――私らしくないわ!」
大きく息を吐き意を決して立ち上がった。
死さえも恐怖になり得ないサファイアが、意志を持って向き合う恐れに心臓が高鳴る。
自分らしくない、なんて例えではこの身の震えは消えそうにもない。
それでも口にしないよりは幾らかましなのだろう。
おかげで呼吸を整えるだけの余裕は生まれた。
期待と不安の入り混じる興奮を何とか押し留め、重い足取りで部屋を出る。
この城を彼の王が手中に入れてから、ようやく歩き慣れてきた廊下を渡るその時間だけがサファイアに残された気を落ち着ける機会だ。
何時もながら豪奢を象徴するだけはある広く長い廊下が、何時も以上にだだっ広く感じる。
重たい足取りで歩を刻む度、彼の王に近づいて行っているという事実に緊張は更に高まっていく。
ここに至って引き戻ることも可能ではあるのだろう。
それは同時に、敬愛の君主を待たせてしまうという不義にしかならない。
そんな葛藤を揉み消し、一度決めた覚悟に従った。
近づいている実感が重い足取りを徐々に、浮つかせていく。
だだっ広く感じていたはずの錯覚は嘘のように消え去り、狭まった視界はサファイアの時間の感覚に齟齬を生んだ。
ふと気づけば、そこが王の寝室の目先であることに息つく間もなく焦慮が押し寄せる。
王の夜伽を勤める名誉、サファイア自身の持て余した情欲、粗相をしてしまうのではないかと一抹の不安を抱えながら、入り混じった感情に緊張は高まる。
咳払いを一つ気合いを入れ直し、異様な風情が漂って見える扉の前へと歩を進めた。
ここまで来たらもはや逃げ出すことは出来ない。
あるいは、全能の彼の王ならば扉の外の気配すら悟ってしまっていることだろう。
緊張でぎこちない、不自然な動作にならないことに気を遣いながら、サファイアは扉を叩いた。
「……入れ」
小さく返ってくる低い声。
どこか気怠げでありながら、超然とした覇気を感じる。
「失礼します」
息の詰まるほどの重圧に気圧されないよう、気丈な振る舞いに勤めて扉を押す。
悠然と開いていく扉の隙間から部屋の様相が垣間見えた。
閑散とした静けさに扉を押す建付けの音が荘厳に響く。
天蓋の垂れ下がったやたらと広いベッド、枕元に燭台の明かりが揺らめき、更にその傍らで身の余るほどの腰掛に座る君主の姿。
無気力に背もたれへと身体を預け、言葉もなく頬杖をついている。
「……お待たせしてしまいましたか?」
君主と僅かに目を合わせた一瞬は、重たい瞬きと共に深い呼吸で聞き流される。
その簡単な返事さえ煩わせてしまうのも後ろめたくなるほど、建て前以上に言葉の意味はなかった。
真意を読み取ってこそ会話の有無に意味がないことを知っているのだろう。
目に見えた疲弊感が居た堪れないサファイアは、されど欲を見せることも出来ずに命令を待つ。
一歩二歩となんとか進み、君主の口が開かれるまで静寂に身を委ねた。
情欲に塗れた妄想に飲み込まれないよう気丈を保つ。
「……随分と、めかし込んだな」
サファイアとは対照的に緊張感のない居住まい。
身形においても、あるいは緊張の度合いにおいても、対極なほど落ち着いている。
そのあまりにも堂々たる無気力に、サファイアは己との対比に若干の恥じらいを覚えた。
期待にそぐわなかったのではないかと居場所のない感覚に足元を浮つかせながら、毛先から視線が這っていく違和感をやり過ごした。
もとより、独り善がりな想いだということは存じている。
彼の君主から見てこれはただの一夜に過ぎない。
特別な感情を抱いていることがサファイアだけだとしても、紅を入れ、衣を選んだことに後悔はなかった。
なんの武装もなくこの場に赴くことなど端から到底出来そうもなかったのだ。
それ故に、彼の君主の言葉であればどんな嘲りも受け入れられるだろう。
「――良く似合っているじゃあないか」
「……ッ!」
よもや賛美とあればこれ以上の栄誉もない。
体温の急上昇を必死に抑えようとするあまり、サファイアは平静を装うことに集中力を割く余裕はなかった。
「あ、ありがとうございますッ!」
艶やかな雰囲気に似合わぬ、弾んだ声だった。




